ふれあいて、めぐりあう
「――娘の婚約者として、名前を貸してはもらえないだろうか」
繰り返された言葉が、意味を変えないまま再び俺の思考を殴り付けてくる。
〝無茶苦茶〟を察知しようとも、流石に予想だにしなかった方向性の依頼を提示されては満足な返答などできるはずもなく。
なに言ってんだこの人――と、当然の疑念や驚きで混乱しそうになる内心を宥めつつ。窺い見た四谷氏の表情から、俺はこの〝依頼〟が少なくとも冗談の類ではないということを理解してしまった。
ならば、考える必要がある。
冗談ではなく本気で俺に娘の『婚約者』になれと言う、その理由は何だ?
この話は四谷氏の独断なのか? あるいはご息女も既に同意の上なのか?
おそらく、茶化したり適当に考えていいような事情ではない。先程からの四谷氏の様子を見る限り、彼は娘さんをとても大切にしているのだろうから。
一人娘、人の目すべてからは守れない、余計なしがらみ、不本意な苦労を強いられている、縁談、忌々しげな表情、現状の四谷では守れない、名前を貸す――
彼は言った。俺に声を掛けたのは、第一に守るためだと。
守ると決めて声を掛けた相手に、いきなり自ら別角度の負担を投げ付けるというのは不自然だ。娘可愛さ……優先順位の問題か?
おそらく否――やや強引かつマイペースな素顔をお持ちのようだが、それでも彼は『四谷徹吾』だ。その根底は巨大な力と自負を以て正道を通す、思慮深い人間であることは察せられている。
――――あぁ、つまりはこういうことか。
「互いを守らせるための偽装婚約、ですか?」
「――――………………驚かされるよ、本当に」
お褒めに与り光栄だが、結論に至るための材料は揃っていた。
縁談を跳ねのけるために婚約者を据える。至極単純な対応策である上に、今の俺は極めてその役目に都合がいいと我ながら認めざるを得ない。
真実〝ぽっと出〟のイレギュラー。跳ね上がった立場に反比例してまだ一切のしがらみを抱えておらず、表も裏もない存在。
しかしながら話題性……自分で言うのはなんだが、四谷のお嬢様が相手でも――いや、四谷のお嬢様が相手だからこそ、現在仮想世界においてトップスター紛いの注目を集めてしまっている俺は、ある種の納得感を生み出せるはず。
相手がおらず、何らかの理由から『四谷の力で跳ねのけることができない』縁談も……まさか婚約者がいると知ってなお、天下の四谷開発に喧嘩を吹っ掛ける馬鹿はいないだろう。
断れないのであれば、理由を作って初めから遮断してしまえばいい。
それによって負担や苦労をシャットアウトできるのは、なにもご息女に限った話ではない。序列持ち【曲芸師】としての立場に加えて『四谷の娘の婚約者』――そんな物騒な相手に対して、ちょっかいを掛けようとする者はそういないはずだ。
つまりは、俺にも理がある相互補助関係。
加えて『名前を貸す』という言い回しを、繰り返し強調したということは――
「それしかないかなぁ……と」
あとは、そんな大切そうにしている娘さんを出会ったばかりの男に真の意味で託すとは考え辛い……というのも推察の一端。
「……君は、頭が良いな。自ら考えて答えを出す、それがとても上手い」
「それは、その……恐縮です」
最近では弟子に甘々なお師匠様の褒め殺しにあうことも多く、以前よりは素直に人からの誉め言葉を受け取れるようにはなってきた――が、それでもまだ正面からストレートな称賛をもらうとむず痒さを感じてしまう。
我ながら情けなく秒で縮こまる俺を他所に、推測を聞いた四谷氏はひどく感心したように頷いていた。
「君の言う通り、この依頼は『偽装婚約』の相手役になってほしいというものだ。これに関しては以前から話し合っていてね、娘の了承も得ているよ」
あぁ、それは……受ける受けないは別として、とりあえず一安心。
とはいえ、彼がご息女の意思を蔑ろにして行動を起こすような人物だとは、端から思っていなかったが。
「名前を貸すとのことですが、世間一般に公表する……みたいな話ではないんですよね? そもそもご息女のことが知られていないわけですから」
「あぁ、それもその通りだ。婚約者の件を周知するのは、あくまでも娘の存在を知り得るような小賢しい――失礼、やり手で大きな組織の頭に限る」
それで手を止めない馬鹿者が相手ならば、いよいよ容赦も捨てられる。そんな恐ろしいことを宣いながら、四谷氏の表情は単なる親バカのそれであった。
「付け加えれば、婚約者として君の名が『外』に漏れることは無いと確約しよう。四谷の名において、そこには全幅の信頼を置いてくれて構わない」
だというのに、こうしてメチャクチャ格好良い顔も見せるのだからやはり侮れない。こんな一切の躊躇もなく『完璧に信頼しろ』と言える人間が、果たして世界にどれほどいるものか。
「それで、どうだろうか」
「………………」
ただまあ……いくら納得と信用に足るからといって、簡単に頷ける話かと言われたら答えは否。偽装とはいえ、相互補助の建前とはいえ、ハイお願いしますと二つ返事で『婚約者』なんて非現実を許容するのは難しい。
こちとら現代一般人ぞ。重ね重ね、どうしてもメンタルがついてこない。
「……………………あの……ご息女と、一度お会いすることは可能ですか?」
少なくとも名前も顔も知らない相手では……と、顔合わせを求めてみる。流石に断られることはないだろうし、これで多少は時間の猶予ができるだろう。
そう考えて伺いの言葉を口にした俺に――四谷氏は、何とも言えない悪い笑みを浮かべてみせた。
嫌な予感……ではなく。
形容し難い、不可思議な胸騒ぎの如き感覚を覚える俺を他所に――控え目に扉を叩くノックの音が、部屋に響いた。
「………………四谷さん?」
「仮とはいえ、顔も合わせない内から答えを求めるのは無茶だろう。それくらいは、私も考慮しているよ」
「……もしかして、さっき呼びました?」
話の途中でスマホを操作していた場面を思い出して問えば、四谷氏は「本当によく見ている」と呟きながら笑って見せる。
しかして、俺のほうには笑い返す余裕などない。
会わせてほしいとは言ったものの、こんな即時の展開を求めたわけではないのだ。メインの思惑は単なる時間稼ぎだったわけで、心の準備など一ミリも――
……できていないのに、ノックの音がもう一度。
「さて、いいかな?」
よくないです――などとは、この期に及んで言えるはずもなく。
即席で覚悟を決め頷いて見せれば、四谷氏は大きく頷き返して扉へと向かう。
おそらくもう扉の向こうにいるのであろう、ご息女を迎えるためにソファから腰を上げつつ……俺は胸中に次々と溢れてくる、とある感情に戸惑っていた。
緊張ではなく、畏れでもなく、
扉の奥から感じる〝気配〟が、俺にもたらすこの感覚は一体何なのか――
振り返った四谷氏と目が合えば、彼は答えを示すかのようにドアノブを引いた。
「――失礼します」
そして、姿を現すのは一人の少女。
まだあどけなさの残る容姿を淑やかな表情で満たす、絵に描いたようなご令嬢。
綺麗なお辞儀に従いサラリとした黒髪が揺れて――空色の瞳と、目が合った。
「――――――――――」
「初めまして。四谷徹吾の――……娘、……の…………………………」
声を失った俺と、言葉を途切れさせた少女。
仮想世界とは違い、その瞳に映るものを、精細に読み取ることはできない。しかし俺が彼女から目を逸らせないように、彼女もまた俺を見ているのは確かで――
「――っ……」
カクンと、力が抜けたようにその細い膝が折れたのは、予想通りのこと。
ゆえに、既に足を動かしていた俺は咄嗟に少女を抱き留めていた。
すぐ傍にいる父親の御前で、先んじて手を差し伸べたことは許していただきたい。何故って、父にとって娘が大切なものであるように――
「嘘……だって、そんな――――」
俺もまた、大事な存在には覚えがあるから。
年季の差に関しては目を瞑っていただきたいが……それよりもまずは、腕の中でうわ言のように戸惑いを零し続ける彼女のこと。
「――あのさ」
「っ……」
俺の〝声〟を聞いて、より一層の戸惑いを深めた少女が息を詰める。
緊張も、戸惑いも、混乱も、俺だって彼女と全て同じ――しかしながら、どうしても今この場で確かめなければならないことがある。
それはつまり、
「これ、夢だったりする?」
「………………」
とりもなおさず、今この瞬間が現実であるのかどうか、ただそれだけ。
わざとらしく、数限りなく『誰か』に披露してきた冗談交じりの話し口調でもって……呆然とする少女の頬に、意識してか無意識か。
とにかく、わずかばかりの微笑を載せることには成功した。
「……どうでしょう。少なくとも、ログインした記憶はありません」
「なるほど、仮想世界でもなさそうだな」
耳に届く声音が、もう、ただひたすらに……一杯いっぱいな彼女には悪いが、どうしようもないくらい俺を安心させてくれる。
とにもかくにも、ひとまず驚きを含むあらゆる感情は棚に上げておき――
いま俺が言えることは、一つだった。
「会えて嬉しいよ――――ソラ」
「っ……――こんな、……っ、ズルいです……もうっ…………!」
瞳や髪が違っても、纏う雰囲気が違っても。
現実世界で巡り合うに至った彼女は、いつもと変わらぬ〝相棒〟のまま。
いつものように、全く怖くない怒り顔で――ソラは容赦なく、俺の胸を叩いた。