邂逅
――足を踏み入れた瞬間、諸々の思考が吹っ飛んだ。
障壁内部に立ち込めていた粉塵のカーテンも晴れ始め、振り向けば背後で起きている『騒ぎ』もすぐに目に入れられるというのに……できない。
首が動かず、目を逸らせない。
音を立てることが憚られ、満足に呼吸ができない。
足元の水が、凍ってしまったかのように――後退ることもできない。
この感覚を、俺は知っている。仮想世界で二度……一度目は『白座』、二度目は【剣聖】――共に強者という二文字だけでは表し切れない、埒外の存在を前にしたときに感じたもの。
それ即ち、〝畏れ〟の心。
「――――――」
晴れゆく視界に、青銀が映る。
「…………そう」
透き通るような桜色の唇が上下して、甘やかな鈴鳴りが耳朶を打つ。
ジッと俺を見つめるのは、どこまでも澄んだガーネットの瞳。およそ同じ種族とは思えない、『人』を越えた美の鋳造品――
「来たのね」
アルカディア最強のプレイヤー。
一騎当千の体現者。
仮想世界の寵児。
【剣ノ女王】――アイリス。
『――――おう坊主、まだ生きてるな?』
「……あぁ」
視線を切らせないまま、呼吸を戻せないまま……頭に響いた呼びかけに辛うじて返事を返す。掠れた声音に俺の様子を察したのか、《念話》の向こうで【総大将】は忍び笑いを漏らしていた。
『助けてもらっといて悪いが、俺はここまでだ。奥の二人がそろそろ限界だからな――入り込んだ敵を一掃して、ついでに拠点を閉じる』
「なに、閉じる……?」
『言葉通りの意味だ、完全に封鎖する。加減が利かないデカいのをぶっ放すから俺も巻き添えだが……どうせもうガス欠だ、大して戦力にはならん」
――指示は飛ばした、後はアイツらがなんとかしてくれるだろ。
と、信頼が大きいのか無責任なのか軽く言って、
『だから、そいつは任せた』
「――――――」
こっちに関しては、もう全く――無責任極まるオーダーを下してくれる。
左手に握られた、意味がわからないほどの情報圧を叩き付けてくる『剣』は下げられたまま。こちらの会話が終わるのを待ってくれているのか、静かに佇み続ける少女と視線を交える俺は――
「………………ま……任せると、申されましても……」
もう既に、この領域へと飛び込んだことを後悔し始めているというのに。
「いや、待て待てストップ……! 流れがおかしい! 後は任せたって、むしろ俺の台詞のはずだったんだが!?」
とにかく司令塔を引き摺りだし、俺が時間稼ぎなり何なりをしている間に『外側』を立て直してもらう――そのつもりで臨んだ決死行だ。
だというのに、なぜ『内側』で〝決着〟を付けろと言わんばかりの――
『――ハル』
「っ……」
文句を遮った声音は、これまで聞いたことのない……何がしか、大きな感情が込められていて、
『期待させてくれ――頼むぜ、新入り』
黙らされた俺が、願うような言葉に思わず振り返った瞬間――
「――――――ッ、なんっ……!?」
『外』の世界を、光が呑み込んだ。
――否、それは光そのものではなく、月光を映して輝く貴石。
天まで届くであろう大響音を轟かせながら、隔離された《強制交戦》の円場だけを残して……拠点の城から迷路の入口へと至る通路全てが、瞬時に顕現した金剛の波濤に飲み込まれる。
その瞬間、障壁を隔てた通路の向こう側で、夥しい量の赤い燐光が爆発して――こちら側……俺の背後からは、一本の光柱が立ち上がった。
自滅点、にはならない。視界に表示されている得点表が動き、『大将の撃破』及び『序列持ちの撃破』を示す計1300Pが南陣営に加算される。
「………………おい、マジかよ大将殿……」
言うだけ言って退場しやがった……!
期待させてくれって? 全く、どいつもこいつも――!
「期待は、慣れてないんだっての……!」
首を戻し、向き合う先。静かに俺を見つめ続けるガーネットの瞳から目を背けるという選択肢は、毟り取られてしまった。
光り輝く絨毯の先、遺言通りに迷路の入口までもが金剛の大壁によって封鎖されたのを確認している。ああも当然のように「拠点を閉じる」と言ったからには、あの『壁』はそれだけの代物なのだと推測できた。
援軍の望みは、ほぼ絶たれたと思って間違いないだろう。一般プレイヤーの死に戻りに期待はできるが……目の前の少女を相手に抗し得る序列持ちの助けは、以降ないものと考えた方がいい。
そしておそらく、外のアレをぶっ放した二人は既に行動不能状態――
「……そろそろ、いい?」
つまり、コレを俺がどうにかできなければ……東の負け。
更につまり、その状況において「任せた」という言葉が意味するのは――
「倒せ……ってか……? なに考えてんだ……‼」
揺らされた『剣』の鋒に反応して、咄嗟に両手に喚び出した小兎刀は正しく〝畏れ〟の表れだ。全く、意味がわからない。分からないけれど、得物を交える前から理解できてしまった。
――勝てない。少なくとも、今の俺では。
予感? あるいは直感? およそ言い表せない感覚がもたらす確信が、俺にその『結論』を示している。構えた刃が震えていないのが、逆に不自然で――
「…………………………そう、やっぱり」
そこで、ようやく、気付く。
「あなたも、違うのね」
無表情に見える彼女が、顔一杯に浮かべているその感情に。
無理と決めてかかる俺を見つめる――〝諦観〟を湛えたその瞳に。
「――…………」
あぁ、ちょっと待ってくれ。
俺は、それをよく知ってるんだ。
昔から……小さい頃から、何度も見たんだ。
――努めて薄れさせていた記憶の中にある、『誰か』の姿が脳裏を過ぎった。
「…………なあ」
「…………」
俺のほうから声を掛けられると、思っていなかったのだろうか。表情は動かさないまま、僅かに首を傾げた【剣ノ女王】に……一人の少女に、問いかける。
「……寂しい、のか?」
僅かに――本当に僅かだけ、目を瞠った彼女から、返事はなく。
「そっか」
きっと、なんでも叶えてしまえて、
「つまらないんだよな」
きっと、並ぶ者がいなくて、
「張り合いがないんだよな」
わかるよ、なんとなくさ。
そして、数年前までは並べない者として、そんな人間の傍で過ごしてきた俺だからこそ――人よりも少しだけ、そういう奴を笑わせるための心得があったりする。
「…………?」
両手の小兎刀を放った俺を見て……そこに至る妙な様子も含めてだろう、怪訝そうに目を眇めた少女に、
見せるのは、笑みだ。
畏れも確信も結論も、未だ変わらず――しかしながら、ちょっとばかり気が変わった。序列持ちの責任とか、とりあえず一旦どこかへ放り投げるとしよう。
いやもう、知らんよ。囲炉裏もゴッサンも、好き勝手に後輩へ期待ばかり投げ付けやがってからに……そしたら俺だって、少しばかり勝手にさせてもらう。
この世界における俺の大目標は、ただ一つ――全力で楽しむこと。
〝楽しむ〟ってのは千差万別だが、その中でも『誰かと一緒に』ってやつには、最高に楽しむための必須条件があると俺は考える。
それは自分だけではなく、相手も楽しんでいること――そしてソレを互いに確信できるほどに、揃って遠慮なくぶち上がること。
……つまりまあ、ダメなんだよ。そんな、つまらなそうな顔されてたらさ。
だから悪いけど……勝ち負けとか、もうどうでもいい。
原点回帰だ――楽しむ以外の些事など、ここらで一度投げ捨ててしまうとしよう。
空いた手を持ち上げて、視界を開く。僅かに怪訝な色を浮かべた少女の瞳に映るのは――フードを取り、灰黒の髪を晒した、凡庸な男の顔。
顔バレなんかもう知ったことか、変装でなんとでもなるだろう。
ほとんど妨げにもならない極僅かとはいえ、視界を遮る布にこれから先の〝決死行〟を邪魔されては堪らない。
今更ながらに顔を晒したことで湧いた気恥ずかしさも、叩き付けられるプレッシャーも、脚を縫い付ける畏れも――全部全部、塗り潰せ。
俺を誰だと思ってやがる。三年間の青春を勉学と勤労に捧げたバイト狂戦士にして、高校首席卒業かつ現役の難関大学合格者。
更に仮想世界においては天使を体現する相棒殿のパートナーであるだけに止まらず、東陣営序列第九位を叙された【曲芸師】だ。
そして肩書きならば、今はもう何より重いこれがある――
「……《ブリンクスイッチ》」
喚び出すは、師より授けられた一振り。
「さて……悪いね『お姫様』。随分待たせた挙句、そっちの詳しい事情はよくわかってないし――知ったこっちゃないんだが」
元々、口数の多いタイプではないのだろう。静かに俺の言葉を受け止め続けるアイリスを真直ぐに見据えて――俺が浮かべるのは、自分勝手な笑み一つ。
そしてそれを、勝手な笑みではなくすために、
「――笑わせてやんよ」
ただ、俺が楽しむために――彼女にもまた、『楽しい』と言わせて見せよう。
「遅ればせながら、ご挨拶を――イスティア序列第九位、【曲芸師】ハルだ。以後お見知りおきを、お姫様……いや、アイリス」
もう女王様扱いなんざ、する気はないぞ。天上に一人、暇で暇で仕方ないと言うならば――今から俺が、極大のズルをもって飛んで行ってやろう。
音高く翠刀を抜き放った俺に応じて、アイリスもまた『剣』を持ち上げる。
相変わらずその顔に浮かぶ表情は薄く、先程から好き勝手を宣い続ける俺を怪訝な様子で見つめるままだが……
そしたらとりあえず、景気付けに一度驚かせてみるとしようか? お披露目にしても、これ以上の舞台はないだろうから――然らば、名乗りをもう一つ。
「――松風が派流」
見やる先、少女がピクリと頬を動かし、
「――結式、一刀」
『師』の構えを写す俺の立姿を見て、初めてその瞳に明確な色が宿った。
右手に刀を、左手に鞘を――しかしこの身の脚に、かの【剣聖】の絶技たる『縮地』を宿すことは叶わず。
だが、ここは夢の世界。身一つでは越えられない崖を越えるための架け橋が、当たり前のように存在する世界である。
俺も、囲炉裏に同感だ。
システムの思惑だの、スキルが与えられることの意味だのに、興味はない。『才能』でもなんでも、与えられるのであれば全てを掴んで進むのみ。
ならばこの写し身に宿った、不可能を覆す『魔法』であれど。
皆等しく、誰がなんと言おうが……〝俺の力〟として存分に振るわせてもらおう。
《極致の奇術師》――起動。
虚空より現れるは、細く細く青い糸。魔力で構成された実体なき光が繋がれる先は――『操り人形』に見立てられた、俺の身体だ。
さあ、制限時間は三百三十三秒、一秒たりとも無駄にはできない。
しからば、今の俺が持ち得る全てをもって、
「―――――さぁ、行くぞ……アイリスッ‼」
それはもう――死ぬほど楽しいって、言わせてやる。
お姫様「急にどうしたんだろうこの人」
観客「急にどうしたのコイツ……」
読者「急にどうしたんだコイツ」
作者「気持ちは分かるけどさぁ……」
察しがいい人には、今回の独白で主人公の背景ある程度バレたかな?