れっすんわん
「……っすぃいー――――――」
朝。鏡の前で怪しい呼吸法の如く長々と息を吐き出すコイツは、断じて不審者などではない。あれこれ完全防備を施した、現実世界における「俺Ver2.0」である。
これまでの人生では一度も弄った事など無かった髪をセットして(ワックスのベタつきがどうしても許容出来なかったのでヘアスプレーで妥協)
これまでの人生では一度も装備した事など無かった伊達メガネをかけて(自分のセンスで買った楕円型が死ぬほど似合っていない事に気付き、店員のススメで買い直したスクエア型のハーフリムを着用)
そして特徴の無いシャツに特徴の無いズボン、更には特徴の無い薄手のカーディガンでモブコーデをキメた俺の姿は―――
「誰コイツ……」
鏡の中から極大の違和感を与えてきて―――つまりそれは、ある程度はこの「変装」が意味を成していると考えて良いのではないだろうか。
結局あれから、俺は仮想世界の【Haru】がどの程度の注目を集めているのかを調べられていないままだ。
昨夜もゴッサンが帰ってから午前二時手前まで狩りを続け、ある程度の素材を集めた後はログアウトからの即就寝。
最終的にはやはり無知を貫いたまま、こうして旅立ちの朝を迎えてしまった。
ガイダンスやレクリエーションを終えての休日越し、本日から本格的に講義を含めた大学生活が始まる訳だが―――不安しかねえ。
具体的に何がどう不安なのかも言葉に出来ないが、とにかく不安だ。
まだ大々的にアバターが現実世界に放映されたわけでも無し、そんな速攻でバレる訳ないと思っちゃいるのだが……もしもの想像はどうしても浮かんでしまう。
それでなくとも、大学生という新たな環境に対する不安というか落ち着きの無さを抱えてるというのに―――!!
「ええい! もう知らんッ! 知るかッ!!」
こちとらイスティア序列第九位の【曲芸師】!!
現実世界の有象無象など何するものぞッ!!
「何かあったらダッシュで逃げる……!! 何かあったらダッシュで逃げる……!! っしゃ行くぞリアルッ、かかってこいやぁッ……!!」
……などと、仮想世界の知り合いに見られたら物凄い勢いで幻滅されそうな様相を呈したまま。
俺は決死の思いでドアノブを捻り開け、覚悟のままに現実世界のフィールドへと飛び出していった―――!!
「―――ッ靴履いてねぇ!!」
落ち着けェ……!!
◇◆◇◆◇
「…………ハル君? もし体調がすぐれないようでしたら」
「いえ、大丈夫です……ちょっと世間の荒波に揉まれて来ただけなんで…………」
半日後。どっちがホームなんだか分からないほどに現実世界で消耗した後、俺は午後に帰宅後即ログインの流れで剣聖様の元を訪れていた。
隠す事も出来ずに疲れ切った顔をしていたのだろう。「とりあえずお茶を」ともてなしてくれたういさんから、心配そうに様子を窺われてしまった。
いやなんというか……これまでの俺って、やっぱ意識して関連情報をシャットアウトしてたのが大きかったんだなって。
一度でも気になってしまえば、世間にはそりゃもう【Arcadia】の情報が溢れていること溢れていること……勿論、そこら中で会話のネタになっている仮想世界の話題の中には、どこぞの新序列称号保持者の名前も混じっており―――
「ウイサン」
「はい?」
「シュギョウ、シマショウ、オネガイシマス」
……正面から受け止めるには、まだ時期尚早だ。
幸い、今の俺にはやる事がある。死ぬ気で剣聖様の太刀から逃げ回ってりゃ、そのうち憔悴したメンタルなぞ気にしている余裕すら無くなるはず……!!
あからさまに様子はおかしいが、修行を求める熱意は伝わったのだろう。ういさんは不思議そうに首を傾げながらも、
「―――では、まずは身体をほぐしましょうか」
ふわりと微笑みながらそう言って、俺を武闘場へと誘った。
「小兎―――ッとぉ!?」
反撃のタスクを破棄して十割反射の回避行動。ベタンと張り付くように地に伏せれば、瞬間的に距離を詰めてきた気配と共に、目視の叶わぬ一閃が浮いた髪の毛先を掠めて―――
「一の太刀―――」
「んがッ……!」
宣言と共に間近で揺れる大太刀が、続く必殺を予感させて、
「《飛水》」
起こりの見えない、正面からの奇襲を実現する一の太刀。
俺は反応しかけるも、
「―――はい、ここまでです」
間に合わず。ヒタと首元に突き付けられた銀鋼の刃に動きを止めて……深く息を吐き出しながら脱力した。
「ダメだ……見えん……!!」
一の太刀が対俺特攻過ぎる……! どう足掻いても対処が追い付かねえ……!
構えの無い、脱力した状態から放たれる瞬息の剣《飛水》―――起こりが無くとも直前で察知出来るようにはなってきたが、直前の時点でもう回避が間に合わないのだ。正直対処不能である。
……いや、別に《飛水》に限った話じゃないんだけどね? 特にキツいというだけで、その他の型も一つ残らず俺にとっては必殺である事に変わりは無く―――
「ひとつひとつ、ですよ。焦る事はありません」
「はは……」
焦っている……まあ、否定は出来ないか。
何だかんだ、四柱戦争の本番まではあと半月しかない訳で―――
「……っし、もう一本お願いしまっす」
何にせよ、弱音を吐くにはまだ早すぎる。
立ち上がり一礼、再び両手に小兎刀を喚び出してやる気を見せる―――が、ういさんは何事か思案した後。俺とは逆に鞘へ納めた大太刀を、そのままインベントリへと仕舞い込んだ。
「っと……?」
「少しずつ課題が見えてきましたので、一つ趣向を凝らしてみましょうか」
首を傾げる俺にそう言ってから、彼女は周囲を見回して―――昨日も見た、見事な拍手を一つ打った。
システム通知は……無し。しかし、変化には気付くのはすぐの事。
「うぉっ、と……!?」
足元が揺れて、グンと下から持ち上げられるような感覚。油断していた俺は足元をふら付かせて―――恥ずかしながら、傍に寄ったういさんに支えられてしまう。
「―――ぅ…………す、すみませ……!」
「私がいけませんでした。注意もせずに、ごめんなさい」
と、至近距離から微笑まれて致命傷を受ける俺を他所に。
もうお馴染み白円の武闘場中央が俺達を乗せたまま隆起して、直径五メートル程の小さな台地を創り出す。それだけには止まらず、石畳を破って現れた竹木の柵が周りを囲んでいく。
そうして出来上がったのは、これまでの開け放たれた武闘場とは真逆の閉鎖された舞台で―――
「さて……それではハル君」
「は、はいはい?」
スッと離れていく体温に安堵しつつ、動揺を誤魔化しながら返事を返す。
一歩、二歩、三歩と離れ、互いに手を伸ばせば触れそうで触れないそんな距離。振り返った剣聖様は、無手のままの両腕を広げて―――
「―――れっすんわん、です。この中で、鬼ごっこをしましょうか」
困惑する俺の顔を見て、珍しくほんのりと揶揄いの色を交えながら。
どこか楽しそうに、一つ目の『修行』を言い渡したのだった。
モブ変装伊達メガネ 〜今から始める大学生活〜 なんて描いてる場合じゃない。