遠く離れた場所で
「―――…………っあ゛ぁ゛あぁぁああぁああ……」
現実時間の午前十一時過ぎ。剣聖様の「お昼の用意をしなくてはいけないので」というほんわか家庭的な一声から、一時解散&ログアウトを経て俺は自室へと帰還した。
上京学生の一人暮らしらしく、立って座って寝られりゃ良い程度のワンルーム。
狭い代わりに割と綺麗で気に入ってはいるのだが、その狭い室内の三分の一以上を【Arcadia】の筐体が占有しているため圧迫感がヤバい。
いやまあ、三日と経たずに慣れたけどさ。
そんな我が物顔でスペースを食っている筐体の上、死にかけのオッサンみたいな声を上げるまま動けずにいる部屋の借主が一名。
最後の方はもう麻痺していたのか、疲労を意識すらしていなかったのだが……選抜戦の四回戦、囲炉裏とやり合ってから今に至るまで二時間少々しか経っていないってマジ?
仮想世界換算では三時間だがそれがどうした。どちらにしたって二、三時間の間に起こっていいイベント密度じゃないだろうよ。
「もうこのまま泥のように寝るのも……」
アリっちゃアリ。
ういさんからも「お疲れでしたらそのままお休みになってくださいね」と言われているし、どの道この後は特に予定も無い。
稽古を付けてくれるという話も、明後日以降でスケジュールの擦り合わせは済んでいる。ソラからも、出来れば身体を休めるようにと心配された事だしなぁ……
ここ三年の経験から体力だけには自信があるのだが、仮想世界特有の幻感疲労に限っては如何ともしがたい。
【神楔の王剣】戦然り、【螺旋の紅塔】攻略での無限アタック然り。一度どぎついのを向こうで発症すると、ログアウトしてからこっちでも引き摺ってしまう。
初めて経験した際には「なにこれやべぇ」と大いに焦ってスマホに飛びついたものだが……
サービス開始から三年。仮想世界のアレコレが常識として根付きつつある世間一般では、幻感疲労の現実反映なんて気にする程でもないとの事で。
脳の錯覚がどうのこうのと難しい理屈は並べられていたが、ダルさに耐えきれず二行半で読解を投げ出してからそれっきりノータッチである。
コンコンと【Arcadia】の『蓋』をノックすれば、半透明の謎素材が音も無く持ち上がる。そのままゴロンと横に転がり、7~80センチほどの高さから予め敷いておいた布団へレッツダイブ。
序列持ちと戦り合うとなれば当然こうなるだろう事を見越しての、我ながらナイス采配である。
旅館のバイトで培ったベッドメイキング―――ならぬ布団メイキング技術には一家言ある。さすが俺、「さあ寝ろ」と言わんばかりの良い仕上がりだ。
一家言もなにも、短期だったから勤めたのは一週間程度だけど。
しかしながら、布団に飛び込んだのは即寝かますためではない。お目当ては、その枕元にセッティングしておいたスマホだ。
死ぬほど鈍重な思考に引き摺られるようにノロノロ動く指を操って、呼び出した検索ボックスに一つ一つゆっくりと文字を打っていく。
『ア』
『ル』
『カ』
『デ』
『ィ』
『ア』
スペースひとつ。
『曲』
『芸』
「―――いやいやいや無理無理ムリむり……ッ!!」
スパーン!! と再び枕元へスマホを叩き付け、俺は防壁を張るが如く布団の中へと引き籠る。
エゴサッ……!! これがかのエゴサとかいうやつッ……!!!
瞬時にアホみたいに暴れ出した心拍を宥めながら、ドッと噴き出した嫌な汗を余裕無く拭う。いや、無理、怖過ぎ……!!
あの場ではゴッサンが口止めのような事もしてくれていたが、いかなカリスマスキル持ちの序列第三位と言えど、不特定多数のゲーマーたち相手に如何ほどの効果があるものか。
てか、そもそもだ。選抜戦の様子は来場したイスティアプレイヤーしか知らないとはいえ、俺が―――【Haru】というプレイヤーが東で序列入りした事実は、まさかのシステムアナウンスという形で全プレイヤーに通達されてしまっているのだ。
これで騒ぎになっていない方が可笑しいというもの。まず間違いなく、数時間前より世間は大荒れなのだろう。
おそらく、二週間前の【螺旋の紅塔】攻略騒ぎと同等か、それ以上に。
それはまさに今この瞬間にも、気が遠くなるほど膨大な人々の間で、他ならぬ『俺』が話題に挙げられているという事で―――
「寝よう」
そして忘れよう。
今はまだ、俺はこの途方も無いプレッシャーなど許容できそうにないから―――
おっと、目覚まし。
流石に昼過ぎから丸一日爆睡までは行かないだろうが、寝坊なんて以ての外。
可愛い相棒がノリノリでな、明日の待ち合わせは朝一番からなんだ。
◇◆◇◆◇
「―――……」
世界が移り変わる、もう随分と慣れた感覚。
身動ぎを検知して身体を起こしてくれる紳士な機械を、いつもの如く労わるように優しく撫でながら。
機械仕掛けの大きなベッドから降りた少女―――ではなく女性は、著しく変化した体感覚をものともせず、淑やかな足取りで真直ぐに部屋を後にする。
襖を開け、一人で使うには広過ぎる部屋を出て……これまた長い長い廊下を迷わず歩いていく。
やがて一つの部屋から人の気配がして―――彼女の目指す場所は、まさしくその調理場だった。
「―――お祖父ちゃん」
顔を出しながら女性が声を掛ければ、竈―――ではなく。古めかしい和風建築に似つかわしくない、最新鋭のシステムキッチンの前でウロウロしていた人影が、驚いたように振り向いて口を開く。
「―――あぁ、優衣。もうそんな時間か」
剣道着姿の老人―――祖父と呼ばれた彼が、まるで悪戯を見つかった子供のように誤魔化しの表情を浮かべれば、
「もう、気付かなかったフリをして……お腹が空いたから、何か摘まみに来たのでしょう? すぐにお昼を用意しますから、少し待っていてくださいね」
綺麗な黒髪を揺らしてクスリと笑みを零した女性―――優衣にそう宥められて、歳に似合わぬ愛嬌を見せて恥ずかしそうに笑った。
「いやぁ参った……また恥ずかしい所を―――」
孫娘に年甲斐もない悪戯を見つかり、かたなしと言わんばかり頭を掻いて見せる彼は、ふと言葉を切って優衣の顔を見つめる。
「おや……何か、良い事でもあったのか」
いつも通りの穏やかな表情。その中に僅かばかりではあるものの「何か」を感じ取った彼は、おそらくは機嫌が良いのだろう彼女へ優し気に問いかけた。
優衣はといえば、自分では意識していなかったのだろう。
見られていた事に気付いて自らの頬に手を当てながら―――すぐ、素直に頷いて見せた。
「稽古を付けて欲しいと、頼まれました」
一瞬、彼女の言葉に微かに表情を硬くしたものの―――その楽しげな様子を見て、老人はすぐに頬を緩める。
「ほお。それはまた、どんな相手なのかな」
「どんな……そうですね」
問いに、ほんの少し思案して、
「素直で、元気な、可愛らしい男の子でした」
そう言って優衣は―――【剣聖】の名を持つ彼女は、髪と瞳それぞれの色を除けば仮想世界のものと同じ顔に微笑を浮かべて。
どこか嬉しそうに様子を見守る祖父を相手に、今日訪れた思わぬ出会いについて語り始めるのだった。
剣聖様はお綺麗でお強くてお祖父ちゃん子。
あと小っちゃい。