プロローグ
――ついに、このときが来た。
ごくわずか、けれど確かな作動音を響かせて起動する機械仕掛けの寝台。
夢にまで見たその機体に横たわった俺は溢れんばかりの興奮に支配され、発狂寸前と言っても過言ではなかった。
VR――仮想現実を世界で初めて、そして唯一実現させたゲーム機器【Arcadia】が発売されてからおよそ三年。
世界に激震をもたらした仮想世界の実現から今日に至るまで。我慢と努力の日々を送ってきた俺はついに、焦がれ続けた夢の世界への切符を手に入れたのだ。
【Arcadia】が発表された当初、それまで二次元媒体で散々〝VRゲーム〟という架空存在に対する憧れを募らせてきた全世界の少年少女たちは、熱狂と同時に絶望を与えられることになる。
完全受注制での販売が発表された【Arcadia】の筐体は、発売から三年が経った今でも「数世紀は先取りしている」などと言われる技術力に比例するように、その価格もまた埒外のものだったのだ。
そのお値段、一台でなんと三百万円。
発表当時まだ中学生だった俺も含めて、「欲しい! 買った!」などと欲望のままに振舞うことのできた一般学生などまずいないだろう。
販売と同時に手に入れることができたのは、趣味に惜しまず大金を投じられる余裕があった大人たちだけ。夢見る子供は、諦めざるを得ないのが現実であった。
だが、VRである。
物語の中にしかなかった、誰もが欲して止まなかった夢の世界である。
ならば当時、ドンピシャでゲーム沼にハマっていた俺に『大人しく諦める』という選択肢などあるはずがなかったのだ。
――故に、俺は高校へ入学してからの三年間をアルバイトに捧げた。
学校が終われば、校則の許す限界の時間までバイト。
休日は朝から晩まで掛け持ちでバイト。
長期休暇は時給のいい短期バイトを片っ端から網羅――
と、そんな友達付き合いもクソない生活を送る俺に、学友から贈られた渾名はバイト狂い、金の亡者、社畜戦士エトセトラ。
ドン引きした両親に「学生らしくしてくれ」と説教されてからは、強引に納得を引き出すためにバイトと並行して死ぬ気で学業にも励んだ。
結果、学年トップという何かもう逆に頭の悪い成績を叩き出した俺は、親と教師から『処置なし』なんて不名誉な評価まで拝領する有様。
日の平均睡眠時間は四時間フラット。
捻出した小遣いでエナジードリンクを買う日々。
そうして学友の名も教師の名もろくに覚えられないままに迎えた高校卒業間近のこと――ついに目標金額の三百万円を達成するに至る。
親たちを説得するために学業を並行する必要がなければもっと早くに達成できていたのだが、こればかりは仕方なかった。
まだまだ世話になっている子供の身で、流石に両親には逆らえないから……ある意味で、真っ向から逆らっているのでは? と言われたらそれはそう。
ともあれ、通帳に記された血と汗と涙とエナドリの結晶を優に二桁は見返した俺は、三年間ですっかり見慣れた諦観の表情を浮かべる両親に手伝ってもらい【Arcadia】の発注を行った。
組み上げの際に個人のパーソナルデータに合わせた最適化を必要とするため、地元の片田舎から東京まで出向いて手続きやら検査やら測定やらを済ませ――
あとついでに大学受験も済ませ――その辺りからは正直もう、自分が残りの日々をどう過ごしていたのか記憶が定かではない。
ありあまる期待から常に興奮状態でいたのだろうと思う。それから高校卒業までに〝やべー奴〟を始めとした、不名誉な渾名がいくつも増えていたらしいから。
中学までの友人や親の信用、人としての尊厳なんかも粗方失ったかもしれないが……――どうでもいい。
片手間で受験を済ませた難関大学からの合格通知ですら、
今の俺にはもう、
どうでもいいんだよッ……‼
ただ一つ、重要なのはそう――今から一カ月弱……!
「入学までのあいだ……‼」
待ちに待った――仮想世界三昧という事実のみッ‼
「……ッッッしゃいくぜおらアルカディアァッ‼ ドライブ・オンンンィェアアアアアアアッッッ‼」
そうして、音声認証の起動キーを荒ぶる魂のままに叫び放った俺は……
「――ぅうるっさいんだよこのバカ息子がぁあッ‼」
ドアを蹴り破らん勢いで突入してきた母親に、小一時間ほど説教を喰らわされる羽目になり……テンション及び、滑舌の双方が著しくぶっ壊れていたせいだろう。
雄叫びの如き起動キーも機体からスルーされ……仮想世界への箱舟は、いまだ虚しく沈黙を保っていた。