48 進展と留守番
「クロ、あなたの呪詛への対抗として新しいアプローチに目途が立ちましたので、すこし試してみました」
「……え」
なんの準備もないままに、突如として霹靂のような衝撃的発言がやって来た。
まだパジャマ姿だ。
寝起きの一杯も頂いていない。
目をこすって洗面所からやっとダイニングに顔を出したところである。
そんな油断し切ったタイミングでもたらされたその情報は、出し抜けの右ストレートにも似ている。
クロは寝ぼけた頭をなんとか必死に駆動させ、打ち込まれた言葉の意味合いを飲み込む。
しっかり三十秒の時間を使い理解が行き届くと、目を輝かせる。
「ほんとなの、先生!」
「ええ。とはいえ、やはり解呪ではなく抑制の方向での進展でしかありませんので、根治策というわけではないのが申し訳ないのですが……」
「なんで謝るのよ」
「それは……」
「先生はわたしのためにがんばってくれたんでしょ? だったらそれだけでじゅうぶんうれしいわ、そんなに謙遜しないで」
「……恐縮です」
アカとしては半年もかけてこの程度しか進展できていないことに不甲斐なさを覚えているのだが、クロはまるで気にした風もない。
自分のために努力をしてくれたことこそが、彼女にとって一番の幸福だ。
「……」
ふと、そこで無邪気に笑っていたクロは口を閉ざして表情を消す。まじまじとアカの顔つきを見遣る。
不意の変化に、なにかまずいことを言ったかとアカは変に身構えてしまう。
していると、ひょいと言葉が飛んでくる。
「先生、もしかして昨晩寝てないんじゃないの?」
「……その。わかりますか」
「わかるわよ!」
なぜか非難の感情のこもった断言だった。
さほど疲れた顔もしていなかったはずだが……アカはすこし驚いたまま、そう心配せずともいいと笑う。
「いえ、私は睡眠をとらずとも別段に問題はないので――」
「でも寝たほうが体調はいいんでしょ? すこしでもつらいんでしょ?」
「それは……そう、ですが」
嘘をつくことはできなかった――弾かれたようにクロは声を荒げる。
「じゃあ寝たほうがいいじゃない!」
「今回の発想が思いのほか上手く進みそうだったんです。書籍を手あたり次第にひっくり返して術式を煮詰めてとしていたら気づけば夜遅く、とはいえ中途半端に止めるよりもこのまま勢いで、と思いまして」
「無理しないでよ、先生」
「無理というほどでもありませんから」
このくらい大したことじゃない。この程度で参ったりはしない。
クロの過ごしてきた不幸の日々に比べれば、本当に些細なことなのだから。
わずかなりともその不幸を削り取ることができたのなら、アカはきっとなにより心安らかになれる。
なんとも反省の色が見えない師に、クロはもの言いたげに睨むも、あまり効果はないように思えた。
ため息ひとつで、改めて。
クロは両手を広げて目を閉じ、さあどんと来いと受容の姿勢をとる。
「じゃあ、先生お願い」
「……え」
「え?」
なんでそこで首を傾げる。
思わず目を開けて問いを続けようとして、それより先にアカがあぁと得心を。
「いえその、もう済んでおりますので」
「えっ……あ」
そういえば先ほど、アカは「試してみました」と過去形で言っていた。
今からなにぞするではなく、もう終わってるのだ。
外した感じが若干恥ずかしい。クロはなんとか羞恥心を抑え込み。
「そっ、そうよね。そういえばわたしにかけられてるのは……えっと、受信機みたいなものなんだっけ」
「ええ。本質は私であり、この屋敷に刻んだ術式です。そちらに、昨夜一晩をかけて改良を施しました」
「……前もだったけど、ほんとに実感がわかない」
いや、前回は身体の気だるさや頭痛に気分悪さなどなどの症状改善があった。
今回は本当になにも感じられない。朝起きて今になっても、なにか変化があったなんて思えない。
いつも通りで、平常運転。
目に見える部分が焦点ではない。
アカはわかりやすく説明を――の前に。
「まぁ、立ったままではなんですし、朝食をとりながらにしましょう」
「そうね。お腹すいたわ」
お茶を淹れ、席に座り、パンをかじる。
いつもの朝である。
そして、これまたいつも通りに新たに声が届く。
「おはよー」
「おは……よ……」
あくび混じりのキィと、半分寝ているアオである。
ふたりは自分の席にそれぞれ座ると、パンをつまんだりミルクを飲んだりと朝食をはじめる。
冬休みのため、ふたりとも急いた風もなくのんびりと。
「あ。こないだ買ったジャムってどこに仕舞ったっけ」
「出しますよ」
「センセ、ありがとー」
「む。せっかくだしわたしも使おうかしら」
「…………」
「こらアオ、寝ないでください」
「寝てない。机に突っ伏してるだけー」
「まったく」
「……」
「クロ、どうしました。手が止まっていますが」
「ん。なんでもないわ」
いつも通りも悪くない。
平穏な毎日が続いていくことが、なによりも幸せなのだから。
◇
「増設した機能を説明しますと、こまごまと更新してありますが大きくは二点」
朝食も済めば、各々が好きに時間を使う。
キィは最近読み始めた小説をリビングで熱心に読みふけり。
アオは寒空でも慣習的にランニングへと出ていった。
そして、アカとクロだけはテーブルに座したままで中断されていた会話を再開する。
アカは人差し指を立てる。
「ひとつに、隠蔽機能の強化。
これは以前、ジュエリエッタさんに一目で呪われていることを看破されてしまいましたよね? ですのでもうすこし隠蔽力を高めて、おそらくこれなら見抜ける者はほとんどいないかと思われます」
「うーん、べつにそこまでほしい機能ってわけでもないわね」
「いちおう、呪われ子は疎まれることもありますから。隠せるに越したことはないはずです」
「……そうなの?」
「ええ。特にあなたの呪詛は他者を巻き込む。それを読み取られてしまえば、避けられてしまうかもしれません」
「そっか」
被呪者は往々にして他への被害を与える災難の発生地、多くの心無い者から迫害されることは多い。
彼らになんの非がなくても、自らを守るためには傍に寄り添うことはしない。
そうした孤独の増長が被呪者の心を弱らせ、さらに呪いの効能を加速させる悪循環。
クロの周りに優しいひとたちばかりだから気づけなかったが、そうした悪意に晒すことも呪詛の質の悪いところなのだ。
いつも通りが幸せ、である。
ふわりと自然に笑みが浮かぶが、その筆頭であるアカは気づかず続ける。
「もう一点は有効範囲の拡大です。
これも以前、学園での襲撃に際して危なかったので広げました」
「? 危なかったの?」
「ええ。学園敷地の端と真ん中ほど私と離れてしまいまして、有効射程のギリギリでしたよ。もうすこし距離が離れていたら抑えが効かなくなっていました」
「そう、だったんだ……」
思いもしなかった危機一髪に、クロは愕然とする。
目まぐるしく流動していく事態にたじろぎ、目の前の少女に怒り、目下の危機感を忘れていた。
常に苛まされていた不幸を、忘れていた。
すこし、油断していたのかもしれない。
アカと出会って、姉妹ができて、魔術を覚えて。
それらが全部、身に余る幸福だったから、辛いことを放っておいてなかったことにしようとしたのかもしれない。
クロは目を伏せる。
「ごめんなさい」
「謝る必要はありませんよ、結局なにごともなく終えましたから」
「それは結果論でしょ? 不注意が、大変な事態を招いていたかもしれない」
「かといって、知らなかったことを後悔しても無意味でしょう。するのならば、建設的な反省をしましょう」
師として諭すように言うも、クロは頷かないで顔を逸らす。
「アカの力を過信して、あいつの力を見くびって、それでなにかあったとき一番後悔するのはアカじゃない」
自分の愚かで自分が痛い目を見るのは道理である。
だが、クロの愚かでアカが胸を痛めるのは道理にそぐわないであろう。
呪詛を起点に最悪の顛末がそこかしこに存在し、それを想定して警戒して回避して歩む。それが、クロのすべき歩き方。
「だから、謝るわ。ごめん、アカ」
「……ええ。謝罪、深く受け止めましたよ」
頑固なところは相変わらず。
とはいえ、その自らを不運の根源として貶め続ける自己嫌悪の渦は、どうしても悲しく思う。
禍根を断つべし――アカは何度目になるかわからない兄弟子の打倒を胸に誓うのだった。
◇
「以前に言いましたが、みなで極北地へ行こうと思います。あなたは行かないのでしたね、シロ」
着々と遠征の準備を進める中、アカは念のためにシロの部屋を訪れていた。
留守番の返事は聞いているが、あのときはすこし慌て気味で深く事情を聴けていない。
シロは間延びしたいつもの調子で。
「んー。シロはー……」演出的に間をおいて、にっこりと「行かーん」
「答えは変わらないのですね」
すこしだけ意外に思う。
ここ最近は割と外出も増え、前ほどに寝こけて過ごしていないようだったのだが。
そのためちょっと気になってしまって再び問いを向けたが、やはり返答は変わらなかった。
でも、それはまたどうしてだろうか。べつだんに共に来てほしいというわけでもないが、なんとなしに興味を惹かれて。
「理由は、ありますか」
「行かん理由?」
「はい」
「んー」
とぼけたように上向いて、人差し指を顎に触れさす。
「ほうじゃね。もしもの話なんじゃけど」
ふと笑みの質感が変わる。笑顔であることは変わらないのに、どこまでも透徹とした儚いそれ。
紡がれる声音のトーンもまた息詰まるほど低くなり、まるで魔女のごとくに囁いた。
「もしもー。
もしも誰も帰ってこれんくなっても、せんせーを独りにせんようにー、とか?」
「……っ」
一瞬、呼吸を忘れる。
そう、極北地は危険地帯である。
この世の常識、誰もが知っている当たり前の知識。
誰が赴いたとしても帰ってこれない可能性は充分に考えられる。アカという例外を除いて。
弟子も友人も、連れだって行く。
それは心強くて力強い。確かに生存率を高めてくれる。
だが逆を言えば――そんな大事な人たちをまとめて失うかもしれないということ。
どれだけ周到に用意をしても、どれだけ心構えを整えても。
人間、死ぬときはあっさりと死ぬ。誰であっても死は等しく訪れる。
そして、もしも今回、最悪の目がでて自分を除く誰もを失ったとしたらアカは。
アカは自分を保っていられるだろうか。
誰もいない世界で、それでも蹲らずにいられるだろうか。
無意識的に避けていたそんなわかりきった事実に、アカは返す言葉もない。
か細く蚊の鳴くような声を絞り出す。
「……やはり、無理にでも私ひとりで行くべきなのでしょうか」
「んん。それもどうじゃろな」
むずかしそうに腕を組んで。
「基本的にはぁ、シロの言うとることは考えすぎっちゅうもんじゃ。どんなトラブルがあっても、せんせーがおればまず間違いなく切り抜けられるじゃろ。安心してええち思うとるよ。みぃんなそう思おとるはずじゃ。
じゃけど」
「ゼロではない。どうしたって可能性は残り続ける。それが未来の事柄である以上は絶対に」
「ほーじゃね」
あっさりと頷く。
未だ来ないから未来であり、未だ来ないのであるならば不確定だ。
「じゃけぇ万が一の保険にシロがなっちゃろうって、そういうわけじゃ」
「……いつも、苦労をかけます」
「えへへー。ほんと、せんせーはシロがおらんとだめなんじゃからー」
「そうですね……」
いや、きっとアカは本当にたくさんの人々に支えられている。
今回の件だってハズヴェントやジュエリエッタの助力なくば立ち行かなかっただろう。
日常に目を向ければ弟子らに何度助けられたことか。
三天導師だとかいう称号に、なにほどの力があるというのか。
アカはこんなにもちっぽけで、誰かの助けがなければ歩むことさえできないのに。
「……せんせー、いまなんかいらんこと考えんかった?」
「え? いえ、感謝の念を抱いておりましたが」
「ほんとかいのー?」
「嘘偽りなく」
真っすぐと告げるも、シロの意図するところとはびみょうにずれているのだからタチが悪い。
このひとは、まったく。
シロは私情を胸に留め置いて、姉として目を細める。
「それに、アオはそろそろ決着をつけるべきじゃとおもう」
「それは」
「さいきん、キィはなんか吹っ切れたみたいじゃけど……やっぱいらんことでうじうじしとるんはよくないじゃろ。もっと気楽に生きてええ」
「シロらしい意見です」
苦笑してしまうほどに、それはシロにしかだせない結論に思えた。
過去の傷は痛むだろう。
呪詛の影響は未だ心に刻まれていて。
だからって、俯いて生きるのは違うだろう。
気負わず前を向いて生きる。
それがシロの持論であり、アカに救われた生き方だった。
「じゃけぇ、アオが精霊と会って話してみるちいうのはありじゃと思うん。それを本人も望んじょるならなおさらな」
「それからのことは、アオ次第ということですね」
「うん。じゃけぇ、せんせーはそうなるように尽力せにゃね」
「ええ、わかっておりますとも」
不測の事態も。最悪の可能性も。アオの決断も。
すべてまとめてなんとかしてみせる――そうでなくば、なんのための三天導師か。なんのための師であるか。
弟子のためになるのならばどんな無茶もやり遂げてみせる。
アカにとって、それが先生と呼ばれるための最低限の矜持であった。