45 北の果てへ
「アオ」
いつもどおりの夕食後のひと時。
全員の食事が済み、それぞれがまったりとしだしたタイミング。
キィは率先して食器洗いをはじめ、クロはリビングのソファで小休憩。最後に食べ終えたアオが食器洗いを手伝おうと立ち上がった。
――そこで、雑談のようにあっさりとその問いを渡された。
「なに、アカ」
「あなたは未だ……精霊に会ってみたいと思っていますか」
「!」
驚いて動きが止まったのは、アオだけでなくキィもであった。
水を生む魔術と洗う手を止め、振り返る。
常より険しく真剣なアオの表情が、一番に目に映る。
アオは、その視線に気づくこともできず、ただ問いを発したアカを見つめて。
「それって、もしかして」
「はい。噂話、といった程度ですが精霊の目撃を小耳にはさみました」
「行く! 会ってみたい!」
「……」
場所も情報の出どころもその確度さえあやふやであるというのに、その間髪ない二つ返事はよほどに食い気味。
どこまでも前のめりなその感情の強さを物語っている。
突如の大きな声で、今度はクロもまた何事かと顔を向ける。
穏やかなはずの食後の空気がどこか緊張感を帯びてしまったように思えたが、クロには未だ話の芯を掴み取れていない。
耳を傾ける傍で、アカの言葉は続く。
「問題は場所です。話によれば――極北地、そこで、目撃されたらしいのです」
「極北地……」
重く含むような物言いは口慣れぬ単語のためか、それとも気おくれか。
北の最果て。未開領域にして最上危険地帯。竜の巣。
その地の恐ろしさは一般常識として誰もが把握している。
アカはそれを明確に言葉として示す。
「およそ並大抵の魔術師では、上陸して戻ってくることは叶いません。当然、アオ、あなたがひとりで向かったとして生還できる可能性はほとんどゼロと言ってしまえるでしょう」
「っ」
かつて名うての冒険家がチームを組んで長い年月を準備に費やし極北地に挑んだことがあった。誰も帰ってくることはなかった。
かつて一国家がその地を制圧せんと大規模な軍隊を派遣したことがあった。わずか数名の生き残りがこの地の危険を叫んだ。
――北の果ての大地には竜が住まう。
世に蔓延る魔獣のなかでも最も有名にして凶悪と名高い怪物。
魔術に抗する竜鱗を備え、周辺一帯を消し炭と化す火炎を吐き出す。
世界で最も厳しい環境下で平然と生き抜き、たった一体でもって国軍を滅ぼした。
そんな化け物が無数に犇めく恐るべき土地、それが極北地であり竜盛巣と呼ばれる場所だ。
現在、極北地は禁足地として指定され、例外は魔術師協会の案内人を伴う場合のみとされている。
「それでも、行きたいですか、アオ」
「……」
沈黙は、ほんのわずかだった。
決意はもとより固めている。恐ろしいからと怖気づいたりなんかしない。
「行くよ――だからアカ、お願い一緒に来て」
「ええ、わかりました」
アカもまた、きっとアオの返答をわかっていた。わかっていて、それ以上を告げてくれたことが嬉しかった。
険しく問い詰めるような目つきをふっと緩め、かすかに笑う。
なりふり構わず目的のために傾倒する姿勢は危うく、だがそれを自覚した上で力不足を理解して他に助力を求める。
アカを頼るという選択は、この場において正解だ。
「――センセ」
ふと、そこで別の方向から声が届く。
キィが、もはや体ごとこちらに向けて真っすぐにアカへと。
「わたしも行きたい。なにか、手伝いたいよ」
「あ、じゃあ、えと、わたしも……!」
それに乗っかるようにクロも声を張る。
ふたりがそう言うだろうとは、なんとなしわかっていた。
アカは困った風に額に手をあて、
「ふたりとも、いまの話を聞いたうえで申し出ているのですか」
「もちろん。アオが、アオのためにがんばりたいって話でしょ? じゃあ、わたしも手伝いたいって、それだけだよ」
「大変危険であるという点については、どうお考えですか」
「そこは先生に守ってもらうわ!」
「……そう、ですか」
アオがしたいのなら手伝いたいとキィはキィらしく言う。
清々しいほどの断言はクロらしい。
どちらも、師の勝手で折り曲げていいような心意気ではなかろう。
アカは、彼女らの熱意ある瞳に弱かった。
観念したようにちいさく息を吐き出し、それから苦く笑いながら言う。
「わかりました。ではみなで行きましょうか、極北地へ」