クロ4 変わるということ
「クロ、すこしいいですか」
昼食を終えて一番に、アカは慎重を期してそう告げた。
今日の昼食はクロが作ってくれた。
まだまだ未熟ながら、簡単なスープの作り方を覚えたのが三日ほど前のこと。
その練習とここ三日の昼食はずっと同じ味付けのスープであったが、アカは特に文句もなく頂いていた。作ってもらえるだけで充分にありがたいことだ。
時折り、煮込みが甘くて野菜が硬いところがあるとか。味付けが遠慮しすぎて薄めだとか。
僭越ながら感想を述べているが、最後には必ずおいしいですと伝えるのだから、弟子に甘い師である。
食器を下げようとしていたクロは、一旦動きを止めて顔をあげる。
「いいけど、どうかしたの?」
「座ってくれますか」
「えっと、でも食器が……」
「それなら、私が」
ふわりと指一本動かせば魔法陣が開く。
見えない手が食卓の皿を持ち上げ、洗い場へと運んでいく。そしてそのまま水を生み出し、洗い出す。
クロが掴んでいた食器もまた運ばれていき、その行く末を見守りながらわずかに不満げ。
「こういうことに魔術を使うのは、よくないんじゃなかったの」
「今は、クロとのお話が大事ですので」
――自らの手足でできることを魔術に頼るのはあまりよくない。
アカの教育のひとつに、そんな言葉があった。
自らの足を動かし手で働け。魔術とは、手の届かないところへと伸ばすための手助けに過ぎず、頼り切るのは魔術師ではなく怠け者だ。
そう教えられ、だからこの屋敷の子らは魔術を使わずできることなら自らの身体を動かす。
それを真っ向から破ったアカの行動に、クロはちょっとだけ鼻白む。
とはいえ、それ以上は口にださず、静かに椅子に座りなおす。
「それでアカ、なによ、話って」
「……」
向かい合うふたりの横合いで、魔術が食器洗いをしている。
アカにとってそんなものは当然に片手間でできる作業であり、返答に沈黙を保っているのは思案しているからに他ならない。
――ここのところクロの様子がおかしいというのは、屋敷の住人全員の一致した意見であった。
どこがおかしいと明確に指摘できるようなものではない。
ただ「あれ?」と感じることが多くて、「おや?」と思う頻度が常より増えた気がするのだ。
ひとりが感じただけなら勘違いを疑えるが、アカもシロも、アオもキィも違わず同じ思いを抱いているというのだから首を捻る。
一体、どうしてしまったのか。なにかあっただろうか。
キィの発案で、他の子らのいない昼間に腹を割ってふたりきりで話すことした。
ふたりきりなら意地を張ることもなく、変に気負わず話せるじゃないかと言っていたが、どうだろう。
わりと、既に不機嫌にさせてしまった気がして、今日はよしたほうがいいかなんて弱気が巡る。
沈黙が続くだけ、クロのへの字に結んだ口端がつり下がっていくのがわかる。
これはまずいと、アカは意を決して。
「クロ。さいきん、なにかありましたか」
「……なにかって、なによ」
「日常を楽しめなくなるような、なにかですよ」
「…………」
そのとき、クロは泣いてしまったのかと思った。
それくらい、泣き顔に似た悲壮感が少女の面立ちに浮かび上がっていた。
問うたアカのほうが慌てて椅子から立ってクロに駆け寄る。傍らで背を撫でて、不安げに顔立ちをうかがう。
クロは泣いていなかった。儚げに笑っていた。
「うん、やっぱり、アカは変わってない……」
「……なにがありました」
「ごめん、ごめんねアカ。ちょっとだけ、不安で……」
「話ならいくらでも聞きます。あなたの不安がすこしでもなくなるように、私にも手伝わせてください」
優しく言い含めると、クロが小さく頷いたのを確認する。
話を聞かせてくれるのならと、アカは再び正面の席に戻り、顔を突き合わせる。
クロはか細い声をだす。
「きいて、先生」
「はい」
「わたし、嫌味な女と戦ったわ」
「ええ。伺っております。ミーティさん、でしたね」
それは過日のこと。
例のガクタイに乗じた塊坤のバルカイナの襲撃。その時に、クロは彼の弟子のひとりと対決、これを撃破したという。
そこまでは伺っていて、けれど、そこであったふたりの会話についてクロはなにも言わなかった。
なにも言わないから、なにもなかったと――そういうわけではなくて。
「わたし、彼女に聞いたわ。なんでそんなバカなことしてるのかって。そしたらあの子、師のためだって言うの。師匠の言うことならなんでもやるって」
「それは……しかし彼は」
「うん。あの翠天の悪趣味で正気を失ってたんでしょ?」
「はい。ですので、彼は本質的には被害者です」
そこについても弟子らには説明しておいた。
バルカイナを協会や官憲に突き出すこともせずにセーフハウスのひとつに匿うような真似をしたのだ、その理由を問われるのも当然だ。だから、事実をそのまま話した。
クロも、そこには思うところはない。そうではなくて。
「だから、そこは問題じゃないの。問題は、言い合ってるうちに、あの子はこう言ったの」
――あなたの大好きな先生がある日とつぜん変わってしまったら、あなたはどうするの?
「って」
「それは……むずかしい質問ですね」
誰も同じままであり続けることはできない。
生きるということは変わるということで、良くも悪くも留まることは不可能だ。
特に、心というものは無色無形であるが故、些細な出来事で劇的な変化に見舞われることもある。
「そのとき、わたしは引っ叩いてでも正気に戻すって答えたけど」
「それは……なんともあなたらしい勇ましさですね」
苦笑してしまう。
しかし、クロは笑わなかった。
「でも、たぶんほんとのほんとは違うのよ。わたし、だってすごく怖いもの――先生が変わってしまうの、怖いもの」
「……ここ最近の様子は、それについて考えていたからですか?」
「やっぱり、わかっちゃう?」
「ええ。みな、心配していましたよ」
「そっか……悪いことしちゃったな」
そこですこしだけ、クロは笑ったようだった。繕った、無理した笑みだと思った。
本質的にクロの不安を解決したわけでもなく、ただ心配をかけたことを責めたような物言いになってしまったせいだ。
失敗したとアカは頭を振る。
クロは悪くない。
この手の不安感は、人生に真面目に向き合っていれば必ず陥るもの。
「クロ」
「ん。なに、先生」
なにかを言おうと思った。
なにか、変化を恐れる彼女を勇気づける言葉を探してみた。
たとえばここで無責任に自分は変わることなどないから安心しろと、そう伝えるのは容易かろう。
けれど、それは薄っぺらな台本に書いてあるような、嘘くさい台詞にしかならない。
本当に相手を思いやった言葉ではない。
だから発する言葉は嘘偽りなく、心に浮かんだそのままで。
「人生は変わることの連続でしょう。それは、私にもどうにもできない真理であり、もしかしたらその不安が完全に解消されることはないのかもしれません」
「……」
「しかし変わることは恐ろしいばかりとも限りません。望む場所に至ることも、願う夢が叶うことも、全ては変化。変わって欲しくないものだけではなく、好意的な変化だってあるはずでしょう。
だから、変化に恐怖だけを思ってはいけません。不安と、それから期待を抱きましょう」
そっとクロの髪にふれ、優しい手つきで梳く。
「だって、数多にある選択を常に選び、無限とも思われる可能性を自らが望むべく方向に至らんと願う。それが人生でしょう?」
「それは、自分のことで……」
「ええ。ですから、信じてください。私もまた人生を生きていると。私の目指す方角が、あなたを悲しませないものであることを」
「先生を、信じる」
繰り返す言葉を聞いて、アカはふと自嘲気味に顔を伏せった。
「……あー」
「?」
不思議なのはクロ。
アカは顔を持ち上げると、誤魔化すような苦笑を作っていた。
「すみません。言っておきながらなんですが、私のほうがあなたがたを信じ切れていないのかもしれません」
「……それはわたしが未熟だからじゃない」
「違います。ひとを信じることが、苦手なのです」
「あ、そっか。先生は、誰より強いもんね。だから、わたしたちなんか随分もろく思えちゃうのか」
それをすぐに納得できてしまう辺り、薄々とクロも勘づいていたのだろう。
つまり、心の距離というやつを、アカは無言でも表明してしまっていたのかもしれないのだ。
だから、では。
彼女の不信感はアカのせいなのではないか。
「私があなたがたを信じ切ることができていないから、あなたがたが自分を信じ切れていないのではないかと……最近、シロに指摘されてしまいまして」
「んー」すこし考えると、クロは「そうかも」
「やはり……」
「でもそっか。じゃあわたしと同じなんだね。先生も、わたしと同じだ」
落ち込むアカに反して、クロはなぜか晴れやかだった。
ひとを信じることは難しい。
そのつもりであっても、心のどこかで疑う欠片が残っていて、一片の曇りなくとはいかない。
そうでありたいと願ってもできないでいることに自己嫌悪していた。
けれどそれは自分だけじゃなかった。
信じてくれるひとを信じ切れない申し訳なさは、すくなくとも互いに抱いていたものだった。
たぶん、まだ距離感が掴めていないのだ。
互いへの配慮と遠慮が妙に噛み合わず、空回りして結局どちらにも苦いものが残ってしまう。
要は不器用なのだろう、ふたりして。
そして些か性急だ。
その性急さは、とりもなおさず相手への気遣いでもあって。
こちらの配慮が下手で不快な思いをさせたくないという焦燥が強く、それが内心を急かしてただちに不快をなくしたいと考えてしまう。そうして気遣いが過剰になる。
心の在り方なんてもの、すぐさまわかることではないというのに。
ハリネズミのジレンマにあるように、時間をかけ手探りで、互いの距離を探っていかねばならないのだろう。
ふふ、とクロは微笑する。
「じゃあ一緒に信じあえるように、がんばりましょ」
無論のこと、互いに互いを信じていないのかと言えばそうではない。断じて違う。
ただ、信じるという言葉であり感情に関する比重が他者より重く、深く、変にこじらせている。
だからこそ理想の信頼関係という偶像を信奉してしまい、それをなしえない自分が不甲斐なくて、相手に申し訳がないと思ってしまう。
他者から見れば、それは随分と馬鹿げた落ち込みだろう。
相手を思い遣るからこそに信じると言い切れないだなんて、そんなのは本末転倒だろうに。
それが、一方的な感情ではないと気づくことができると、ひどく腑に落ちた。
ひとりじゃないと、それだけでなんだか安心するのだ。
この不安感も共有できて、一緒に寄り添うための努力をできる。
それは、なんとも心強く思う。
「ええと……はい?」
当のアカは、クロの得たひとつの答えに気づくこともできず、ただなんだか解決したことを察せられて頷いた。