アオ4 好きなひとがいるから
「アカ、入るよ」
ドア越しに声がかかって、アカは読みふけっていた書物から意識を現実に戻す。
少女の声を聞いていると、なんともなしに考える。
これまで幾人もの弟子を育ててきたが、こうも気安く扱われ、挙句に呼び捨てで接する弟子というのはこのアオ以外にいなかったように思う。
べつだん、それに怒ったりはしないし、むしろ呼びやすいようにして欲しいと思っている。
だが同時にこうも思う。
自分は、彼女にとって、敬称をつけて呼ぶような相手ではないのだなと。
威厳のないほうだということは自覚していたが、師として、ちょっぴりヘコむ。
「アカ?」
「ああ、すいません、どうぞ」
ノックはしないのに、返答があるまでは待つ。
チグハグのようだが、彼女にとっての規範があるらしい。
返答があれば途端遠慮なくドアが開き、アオは足を踏み入れる。印象的な二つ結いの髪の毛が跳ねる。
「あのさ、アカ、ちょっと話があるんだけど」
前置きもなく、アオは入室してすぐに切り出す。
勧めてもいないのに部屋のソファに座り込み、このまま居座ることを示している。
なんなら、お茶を差し出したほうがいい気にもなるくらいに、彼女は尊大に見えた。
とはいえ、師としての立場からすると、それは強がりにしか見えなくて、どちらかと言えば微笑ましい類の行動だった。
自らの臆病さをひた隠しにしているような、言うなら張り切った態度を努めている。
なにかに負けたくない、そういう曖昧ながらも確固たる意志があって。
屋敷で一番の負けず嫌いは、間違いなくアオである。
実際、しっかりとふたりきりと把握すると、すぐにそうした強気は吹き飛んで、指先を絡め合って俯いてしまう。
内気そうな仕草のまま、アオは不安そうに切り出す。
「ちょっと、相談があるんだけど」
「それはまた」
こみ上げてくるものを押し殺し、表情を真剣なそれと保ちつつ。
「なにかありましたか?」
ナイーブな部分は非常にナイーブ。
純朴だからこそ、それを覆い隠す必要がある。
そして、それを隠す必要がない相手には、かと言ってあっぴろげも恥ずかしいというチグハグになってしまう。
つまり、アオは未だにアカへの対応を決めかねているのである。
それはアカにとって非常に微笑ましいのであった。
「えっと、学園でさ」
「はい」
「その、けっこう、仲のいい男の子がいたんだけど」
「ほう」
すこし反応に迷う。
割と男勝りなところがあるアオだし、男友達がいてもおかしくはない。けれど女所帯の屋敷の生活を見ると、男友達というのはちょっと驚く。
というか、なんともいえない不思議な危機感がせり上がってくるのを感じる。
「そいつに告白された」
「……は?」
――は?
心と言葉が完全に一致して意味不明を表現する。
大慌てしかけて、だがアカは慎重だった。慎重に、言葉の正確な意味を探る。
「告白って、なんのですか」
「そりゃ、その……すきだって」
「愛の告白!?」
なぜか物凄く激しい動揺に襲われるアカ。
足が笑い、顔は青ざめ、痛む額を手で押さえる。椅子に座っていなければ崩れ落ちていたであろうことが容易に想像できた。
なんということだ――云百年生きてきたが、もしかして人生トップテンに入るくらいの衝撃な気がする。
これが思春期の娘をもつ男親の気分なのかと、ひとつの真理に辿り着いたと思えた。
とはいえそれは、あんなに小さく可愛らしかった子がもう巣立ちの時期に入ってしまったのかという寂しさから来るものであるが。
いや、アカも大人だ、アオの保護者だ。
毅然として振る舞い、その旅立ちに涙は流すまい。成長を喜び、親離れを言祝ぐべきだ。
「アオ、おめでとうございます。できれば結婚式にはお呼びください。大丈夫、泣かないと約束はしますので」
「……はぁ?」
急になにを言い出すんだとアオは大層怪訝な顔になる。
告白されたの報告で次が結婚式って……いつもの勘違いにしてもはじけ飛び過ぎだろう。
なんか面倒そうなので率直に否定をぶつける。ため息とともに。
「誰が告白に応じるって言ったんだよ、断るつもりだよ」
「え」
なぜか間抜けみたいに驚いてるうちに素早く事情を並べてしまう。
「でも、あたしも驚いちゃって、すぐに断れなかったんだ。で、また明日返事をくれって言われてて……どう断ればいいのかって相談したくて」
「あっ、あぁ! そうでしたか、そうでしたか。申し訳ありません、早とちりをしてしまいました」
またいつもの勘違い。
アカは気恥ずかしげに縮こまり、けれどすぐに切り替えて。
「それで、どう断るかですか」
「うん」
「……そういうのはキィに聞いたほうがよいのでは?」
「それはそうだけど……」
正論に、アオはどうしたものかと腕を組む。
彼女なりの理由はあるのだが、それを言葉にして説明するのは難しく、伝わるように整理するのも難儀に思えた。
なんとか、言葉を振り絞る。
「なんていうかな、こういう告白とかはアカの言う通りキィの領分なんだよ。
あの子はかわいいし優しいし、みんなに人気でけっこうな頻度で告白されてる」
「そうなんですか?」
「アカには言ってないんだ」
「はい。初耳です」
「そっか……」
話好きのキィと世間話はよくするし、様々な話題を提供してはくれるが――その手の話題はそういえばなかった。
いや、待てよ? 話さないのはまさか――
「私の知らないところで――」
「それはない。キィも全部、断ってる」
雪のように冷たく断ぜられ、アカは沈黙した。
やれやれとばかりにアオはいう。
「話、戻すよ?」
「はい、すみません……」
どうにも今日はあまり考え込まないほうがいいのかもしれない。
アカはともかくこれ以上、アオの話の邪魔にならないように相槌を優先することにした。
「あたしはかわいくないし無愛想だし、告白とかはじめてだったんだ」
「そう、なのですか?」
口を挟まないと決めた手前、あまり言えないが、アカはアオも負けないくらいに美人だと思うし、優しい子だとわかっている。
だからこそ、アオに告白した少年の気持ちは理解でき、はじめて告白されたという発言にいまいち納得がいかない。
あぁそうか。
気づきがあった。
人当りがいいキィと違って、アオは高すぎるのだ。
他の学生たちにとって、アオという魔術師は高位であり驚異であり、遠い。
キィだって随分と高くにあるだろうが、彼女はそれを感じさせないほどに人懐っこく、笑顔が可憐で素朴だ。
とても、近くに感じる――親近感というものだ。
アオにはそれがあまりないのだろう。
高嶺の花、と言い換えることもできよう。
だからこそ、むしろ今回アオに告白したという少年はとても勇気ある少年なのではないか。
本当に本気で、アオが好きなのではないか。
そんな熱意ある好意を断る――アカではどう言ったものかわからない。
「はじめてなら、やはり経験者に聞いたほうがいいのでは?」
「はじめてだから、すぐに妹に頼ったら姉として格好悪いだろ」
「はぁ、そうなのですか」
アオのなかではそういうことらしい。
だからこそアカを頼った。頼られるのはアカとて嬉しい。
とはいえ。
「私もそうした経験はありませんし、適切なアドバイスを送れる自信がありませんが」
「え……」硬直は数秒で解ける「アカって、ないの? 誰かと付き合ったり、告白されたりとか」
「ありません。その手のことは、一切合財無縁に生きていましたよ」
なにせずっと魔術の修行、修行だ。
プライベートその他諸々を犠牲にするくらい、天位の魔術師には当たり前であった。
「そっか、そっかぁ」
なぜかどことなく嬉しそうに頷いて、アオは笑った。
なにが嬉しいのだろう。
だから突っ込まないように、と自戒しアカはいう。
「経験皆無の私のアドバイスでいいのなら」
「うん」
「ええと、まず、アオは相手のことが好きではないのですよね」
「そりゃ、友達としては好きだけど、そういうのとは違うよ」
断言されては相手の子もすこし可哀想である。
まあ、もともと断り方の話だから、さもありなんではあるが。
「では、そのままそれを伝えればいいのでは?」
「まあ、悪くないけど保留かな」
「どうしてですか」
本気でわかっていないアカに、アオはそれだと付け入る隙が残ると言う。
「じゃあこれから仲良くなろうとか、付き合ってみて変わるかもとか食い下がられるかもしれない」
「なるほど」
頷いたが、アカはそうなのかとむしろ感心していた。
相手が諦めきれない余地があると、きっぱり振れない。そういうことか。
では未練なく断ち切るためにはどうすべきか。
……難しい。
「きっ、キィは、なんと言って断っているか知っていますか?」
けっきょく弟子に頼る情けない師である。
こうした人間関係において、アカはまるで役に立たない。
往時は厳しい師と悪辣な兄弟子くらいしか関係がなく、人の一生くらいはほとんどたったふたりの人間としか深く付き合っていなかったのだ。
その後はふたりから解放されて旅をして多くの人々と知り合ったが、それでもあまり踏み入った関係にはならなかった。
不甲斐ないとばかり落ち込むアカだが、アオは割といいアドバイスをもらえたと思っていた。
ただ、ちょっと、いいづらい。
「ん。キィは」躊躇いがちに「いつも、好きなひとがいるからって、そう言って断るって」
「好きなひと……」言葉の意味を呑みこんで「え、キィには好きなひとがいるのですか?」
「さあ」
そこは、アオは曖昧にぼかした。
「そういう断るための方便かもしれないし、もしかしたら本当に好きなひとがいるのかも。そこは、知らない」
ちょっと嘘が混入したかもしれないが、いつでも正直であることが正しいわけでもない。
なにせそこはキィの心に秘めた本音だ。それを本人の許可もなしに暴露するような恥知らずにはなりたくない。
アオはこれでもいちおう、お姉ちゃんなのだ。
「そう、ですか……」
すこし納得いかないようではあったが、追及するのも踏み入り過ぎだと判断した。
というか聞いてしまうのが震えるほどに恐ろしかった。
「それで、どうですアオ。そういう断り文句はどうでしょう」
「それは……」
ふと、アオはなんだかアカの顔をまじまじと見つめてしまう。
見つめられたアカのほうはよくわかっておらず、小首を傾げている。
アオのほうはなにかを納得して、首を横に振った。
「やめとく」
「それはどうして」
「誰が好きなの、とか聞かれたら困る」
「そうですか。まあ好きなひとがいないのならそこからボロがでますかね」
「いや、好きなひとはいるんだけど……あ」
「え」
ぽろっと漏れた言葉、アカがそれを理解し驚愕とともに疑問を発する――より前に。
「違う! 違うぞ、アカ! 違うんだ……!」
「ええと?」
アオが顔を真っ赤にして否定を叫んだ。今まで平静だったぶん、大パニックだった。
「今のは言葉の綾とかいうあれで! あたっ、あたしは! 好きなひとなんていな――いな……ぅぅ」
何故か否定途中で言葉に勢いは失われ、萎んで掠れて聞き取れない。
あんまり焦り慌てふためくアオに、アカのほうが落ち着いて、下から窺うように。
「いません、か?」
「……」
アオは黙ってしまう。
いないと、断ずることができない。
けれど、じゃあいるのかといえば――
「わかんないんだ」
なんとか選び出した言葉は、どこか草臥れた調子で吐き出された。
「わからない。好きって気持ち――恋って言えばいいのか? それと家族を大事と思う気持ち、なにが違うんだ?」
「それは」
アカにだってわからない。
心は目に見えず、感情は数値で計れない。
いつだって不定形で不可思議で、云百年生きていても正しく理解できた試しがない。
それが他人のものならば、なおさらに。
「離れたくない。傍にいたい。ずっとずっと。家族のみんなにそう思う。でも、それは恋じゃないんだろ? じゃあそれとこれとを分ける線ってどこだ?」
「それはおそらく、自分で線引きするものだと思いますよ」
この返答が正しいのかはわからない。
けれど、アカなりに考えて、すこしでもアオのためになればと考え出した結論。
「自分の感情に名をつけるのは、自分自身に他なりません。アオ、あなたが思うままに、その感情を呼んでみてください。あなたにとってきっと、それが一番正しいと私は思います」
「……自分で名前をつけるか」
「焦らずとも構いません。ゆっくりと、納得いくまで考え抜いて、そして大事なひとを見つめてみてください」
「あ」
――なにか胸の奥の方で、とくんと脈打ったのが聞こえた気がした。
その一言で疑問は氷解し、アオはすべてを理解できたと思った。
だって、ずっとずっと見つめていたいのは――
「ありがと、アカ。もうだいじょうぶ」
「……そう、ですか?」
なんとも晴れやかな顔でそう言われてしまうと、アカからかける言葉はなくなる。
それはアオの側も同じらしく、とても気分よく立ち上がった。なにもかも解消されたと言わんばかりの清々しい破顔だった。
「あたし、もう帰るね。相談に乗ってくれてありがとう!」
大事なひとと恋するひとの違い。
告白の断り方。
そこら辺に、アオはもう答えを見つけたようだった。
けれどどうにも腑に落ちない。
なにかを見つけたようだが、アカの言葉のどこに結論へと至るヒントがあっただろう。
尋ねたい衝動にかられるも、それは野暮であろうこととも承知していて。
「あの、アオ」
「んー?」
去りゆく背中をなんとか呼び止めたが、言葉がでない。
なんでもないと言うのは容易いが、それはどうにも憚られた。なにかを聞きたいという感情だけが空回りしている。
振り返る少女に、野暮にならない言葉をなにか発さなければと頭をひねり――ふと思いつく。
「どうして、アオは私のことを名で呼ぶのでしょうか?」
「え」
思わぬ方向から来た問いに、アオは一瞬だけ困惑して、けれど答えは既にもっている。
「だって、呼び捨てのほうが、その……」
「はい」
「きょりが」
「きょり……距離ですか?」
「うん。距離がちかい気がするから……」
それに。
好きなひとの名を呼びたいから……。
「それだけ! じゃあね!」
「……」
去っていく背を見送りながら、アカはなんだか無性に口もとが緩もうとするのを自覚した。
師の威厳とか、敬称とか、実にどうでもいいことであった。
そんなことを気にして距離を離していたのはアカのほうだ。
気安い扱いの、なんと心地よいことか。
きっと、本人にはなんということもない発言だったのだろう。
けれど人によっては、そこに青天の霹靂の如き衝撃的な気づきがある。
アオも、アカの何気ない言葉から感じ入るものがあったのだろう。
それを問いたださないでよかったと、改めて思う。安堵する。
なにせ、それは自然体だからこそ紡がれた言葉。知った上で再び自然に振る舞える自信はないし。
なによりも――きっと、それは知ればとても恥ずかしいだろうと思うのだ。