37 緑魔術師ミーティ
教本魔術に『活性』という魔術がある。
これは最も簡易で弱小の強化系の生命魔術であり、付与者の肉体性能と体力をすこしだけ向上させる効能をもつ。
クロが唯一習得している強化の魔術であり、同時に、クロが常に身に纏っている魔術である。
それは術の発動、制御、維持の練習として恒常的に行っている行為。
しかしなによりも、病弱な彼女の体力を補うための措置でもあった。
とはいえそれは最下級の魔術である。
効果は微々たるものであるし、そもそもクロの弱りっぷりは相当で、強化してようやく同年代と同じか少し下回った動きが可能というていど。
そのため。
年齢にして五つほど離れ、手足の長さで劣り、瞬発力においてまるで敵わない相手には、先手を奪われるのは必定であった。
「かは……っ!?」
クロは渾身の力で殴り飛ばされた。
ゴミのように転がり、壁にぶつかり止まるクロの姿は、ミーティの溜飲をすこしだけ下げてくれた。
――クロが昂る魔力をそのまま魔術として転用せんと術式を編み出して、それとほぼ同時に対面するミーティは気づいた。
遅すぎると。
まず肉体的にも動作が鈍い。術式の選択と決定もテンポが遅れ、術式を組み上げるスピードなど牛歩としか言いようがない。
理論を学び、師に教わり、教室の中でゆっくりと確かめながら術を練習しているような鈍足だった。実戦どころか実践にさえ及んだことのない者の馬鹿馬鹿しいほど無警戒な遅さ。
きっと彼女はまだまだ魔術に不慣れで、術式構築に集中し切ってようやく整うような経験不足。魔術を成功させるという前提が、妨害もなく精神的に安定していないと叶わないような、そう。
そうこれは――丸きり素人の不様。
「よくもまあ、そんな雑魚がアタシに対等の口をきけたものね」
呆れるほどの鈍足は、ミーティが初手で選んだ術をとりやめ、また別に構築を変更して発動するというロスをも許してしまう。術を押し付けるついでに鬱憤晴らしの拳まで叩きこめた。
それで、決着ついたと言ってもよかった。
もちろん、魔術師である彼女の殴打ごときで勝利を見越しているわけではない。
あんなのは単に接触ついでの憂さ晴らしに過ぎない。
むしろあんなに景気よく吹き飛ぶとは思ってもみなかった。あの少女は軽すぎた。なに食べて生きてるんだ。
そうではなく、魔術師なのだから魔術を仕込んでこそ。
未だ壁のそばで横たわる少女に、ミーティは得意満面で勝利宣言のように言い放つ。
「「封魔逸失の呪い」って知ってるかしら?」
それは魔術を奪う呪いであるとされ、魔術師に嫌悪される最悪の呪いとさえ言われる。
今、クロに仕掛けた祝呪魔術がそれ。
つまり、もはやクロは魔術師ですらなくなったのだ。
しかし。
「……知ってるわ」
「っ」
予想外の返答に、ミーティは目を見開く。
痛む腹を右手で押さえながら、輝く緑色の魔法陣を恨めしそうにしながらも、クロはゆっくりと立ち上がった。
「魔力を封じ込めて放出を阻害、それをそのまま放っておくと封鎖の永続化が完成してしまう……だったわね? 先生に聞いたわ」
「ふぅん、じゃあもうこれで勝負はついったっていうのも、わかってるわよね」
それには答えず、クロはどこか胡乱な目つきでミーティではないなにかを見つめる。
「そっか。学園の生徒が呪いを負ったって聞いたけど、それってもしかしてあなたの仕業なんじゃないの?」
「……っ、そう。そうよ、それがどうしたの! あんな出来の悪い奴らに魔術師を名乗らせることが不愉快なのよ!」
なぜか、ミーティは忌々し気に吐き捨てた。
クロは反して特に感情を見せることもなく続ける。
「そう、あなた、祝呪魔術を使うくせに、呪いを受けたひとの気持ちがわからないのね」
「当たり前じゃない! アタシは虐げる側なのよ、雑魚の気持ちなんて知らない、知りたくもない!」
「……」
クロはなにか言いたげに口をもごつかせ、けれど言っても無駄と判じて閉じた。
代わりに、無言で開いた手のひらをミーティへと突きつける。魔術の、発動姿勢のように思えた。
ミーティは酷薄に笑う。無駄な足掻きだと。
「はっ。無駄よ。聞いてなかったの? 封魔逸失よ、あなたは呪われてもう魔術を使えないの!」
「やってみないとわからないわ」
実際、戦闘という緊迫した状況下において、呪詛を刻み込むのは至難とされている。
魔力を高ぶらせている対象に呪詛は通りづらいし、逆に魔力消費がある者にも上手くいかないことが多いからだ。
呪詛とは対象に常態であることを求め、できるだけ波のない平坦な魔力容態であることが望ましいとされる。
戦闘という場においては、それはまずありえないことだろう。
戦場にあるだけで気は荒ぶり、心は幾ら冷静を強いても揺れ動く。攻撃には敵意や害意がこもり、ダメージを負うことには恐怖と苦痛が伴う。
そうした心の動きは魔力の流れを容易く乱す。
また、魔術師が戦うとなれば魔力の消費は必定だろう。常とは違う魔力の量に変化するということだ。
しかし、それは実力の拮抗した間柄での話。圧倒的な実力差があればそうもいかない。
難しいであり、不可能ではないのだから。
また魔力量の多さも裏目にでた。
クロの魔力量は底知れないが、そのために臨戦態勢になってもそれによる魔力の荒れが薄かった。
凪いだ湖に小石を投げても、全体に比して小さな波紋が生じるだけ。大きすぎて多少のことでは揺らぐことがないのだ。
そしてミーティは確かに魔術の成功を感触として受け取っていたし、術がクロに纏わりついて深くに這入りこもうとしているのがわかる。
確実に、呪いはクロに刻まれたのだ。
「……」
クロは一向に気にせず、集中して魔力をかき集める。術式を脳内で組み立てる。
さきほどは、ここに最も時間をとられた。嘲笑うミーティが無意味を悟るまで眺めてくれていなければ、今回も完了しなかっただろう。
だが、ともあれこうして完成した。
あとは、魔法陣を作成するだけ――しかし。
「封魔逸失の呪い」は魔力が外に漏れ出ることを完全に塞ぐ。
内々で魔力を練っても、術式を組んでも、それが外部に発露しなければなんの意味もない。
クロの腹部には、煌々と緑に輝く魔法陣が強く主張している。
魔法陣は発現しえない。
「できるわ、わたしは――魔術師だ!」
そして付与された緑色の魔法陣が――耐えかねて崩壊した。
「……え?」
「呪いをひとりにふたつ刻み込むの、高等技法なんだってね」
「まさか、お前! お前、既に呪われて……!」
どんな隠蔽力をもった呪詛だ、直接触れても一切勘づくこともできなかったぞ!?
驚いている合間に――緑に替わるようにクロの手のひらには色なき黒の、整然たる魔法陣が開く。
それを一目見ただけで、ミーティはさらに愕然とする他なかった。
「な……っ!? 嘘でしょ!?」
ほんの二か月前に見た時は、たしかに素人だった。
魔術師とも呼べない雑な魔力を垂れ流し、臨戦態勢だというのに指向性なく、足は震えていた。
今だって魔力を練るのにいちいち意識を集中して、魔法陣を構築するのに手間取りすぎ。発動を決めてから術に至るまでの鈍重さは呆れ返るほど。
なのに、なのに。
――クロ、その魔術を完成させた時、あなたは――もはや天上七位階における人位を名乗ってよいでしょう。
そうだ、これはもうわたしだけの魔術。
わたしが作った、わたしの色に染まった、わたしだけの――
「――『黒雷』!」
そして、それは眩く輝くこともない漆黒のままに伸び――ミーティを捉えて雷撃として弾けた。
◇
明らかに素人だったのだ。
どこか良家のお嬢様が手慰みに家庭教師にでも習い、思った以上に上手くやるものだから両親が調子に乗って次は学園にでも入れて箔付けでもしようか。
なんて思いあがった親バカを真に受け、自分は魔術師だと一端を気取っている。
そんな雑魚だと、思ったのだ。
一方でミーティは自分に才能があると信じていた。
尊敬すべき兄弟弟子や師も、お前には才があると言ってくれたし、彼らのことは信じている。
この年頃で裏四色を使いこなすのは並大抵ではないし、師のバルカイナの教えもしっかりと吸収して成長していた。
才能ある魔術師であることに、きっと誤りはないのだろう。
しかし。
そんな些細な才能で舞い上がっていたのが滑稽に映るほどに、それは恐ろしい存在だった。
思いあがっていたのは自分で、目の前の少女は雑魚などではなかった。
まるで才能の化け物だ。
彼女はミーティよりも五つは年下であろうし。
魔術という学問に向き合いはじめて一年も経ってはいまい。
感知不能の強大な呪いを刻まれるというハンデを背負い、なのに。
なのに――なんて精度だ。
魔法陣を見ただけでわかる。その精度の凄まじさや綿密さが。
まるで異次元の構造だ。なのに、ところどころで汎用的な部分を読み取れるのだから混乱してしまう。まるきりオリジナルではなく、元の式が存在してそれを応用改良しているだけなのがわかってしまう。
では、骨子に基礎的な様式を残しながらもここまで隔絶した結論に至ることができるのか。それがまた驚愕させる。
ミーティら凡人が石をひとつずつ積み上げて地面から高みまで到達しようと積み上げているのに。
その横で、さも当たり前のように羽をはやして飛び立って、雲ですやすや眠っている。
それほどに異様。断絶した才覚の違いを思い知らされた。
理不尽という言葉の意味を、生まれてはじめて知った気がした。
◇
「……え」
死んだと思った。我が身を貫いた衝撃は激甚で、生存など考慮にも及ばないほどだったのだ。
生きていた。目覚めて、そのことにまず一番驚いた。
とはいえ、全身が痺れ切って指一本も動かないが。
倒れ伏したミーティを、クロが上から覗き込む。
「死にはしないわ。そんな出力ないもの」
実際、クロが全力で魔力を注ぐと、魔法陣のほうが受け止めきれずに崩壊する。それだけ法外な魔力を所有しており、それをつぎ込むことが彼女にはできた。
頑丈でしなやかな魔法陣の上手な構築がこれからの課題として上がっていた。
今は加減に加減を重ねて、ようやく魔術として成立させている。威力のほうも、大分の調整をして殺傷力は低い。
なにせ、クロとしては別に殺すほどの怒りはなかったし、それに。
「あなたには言ってやりたいことがあったわ」
「……なによ」
痺れながらも、なんとか舌は回った。
掠れた声に、クロは容赦せずに上から声を降りかける。
「さっき、あなた師匠が死ねって言ったら死ぬって言ってたじゃない?」
「……」
「わたしは死なない」
心の内を見透かすように、目を見つめる。
純粋でひた向き、ただ真っ直ぐな子供の瞳に、ミーティはなぜか怯えてしまう。
「先生は大好きよ、尊敬もしてるし沢山沢山恩もある! けど、死ねって言われても死んだりはしないわ!」
「その程度ってことじゃない」
「なにがよ。
そもそも、先生はわたしを死なせないって約束してくれたの、そんなひとが同じ口で死ねなんて言うはずがないわ!
だから、そんなこと言うひとは、わたしの先生じゃない。どこか別の誰かに決まってるわ!」
信じている。
クロの大好きな先生が、クロに死ねだなどと言うはずがない。
それはきっと、ミーティの大好きな師匠だって同じはずだろう。
「ねぇ、あなたの師匠はちがうの? あなたに、こんなことさせるようなひとだったの? 大事な弟子に死ねって言うひとだったの!?」
「それ、は……」
「ちがうでしょ、違うから大好きなんでしょ? だったら――!
だったら上っ面の期待に縋ってないでぶん殴ってやりなさいよ!!」
「っ」
まるで。
まるで頬を引っ叩かれたような衝撃を、ミーティは確かに感じた。
見ないようにしていたこと、考えないようにしていたこと。
そういう、そう――上っ面の期待で隠した核心を、思い切りストレートに突かれてぐうの音も出ない。
ミーティは、もうどうしようもなくて泣いてしまった。
「あのひとは、変わってしまった。アタシでは止められなかった……!」
「……」
やっと顔を出した本音に、クロはやれやれと思いながら静かに聞き入る。
「そもそも今回の作戦だって、あの会場を吹き飛ばす程度のはずだったのに……あの時に発動した塊坤はそれどころじゃなかった」
おそらく、王都を半壊させるほどの威力だったはずだ。
あれでは一緒にいた弟子三名すらも巻き込んでいた。
誰かが邪魔立てしなかったら――塊坤のバルカイナは弟子をその手にかけていた。
「その衝撃が、あなたにわかる!? 大好きな師匠に、殺されかけた気持ち、わかるっていうの!?」
「わからないわよ、そんなの」
突き放すような言葉に、ミーティは歯を軋ませる。
だがそれは、クロにとっても想像すらしたくないこと。問われても返答などしたくはなかった。
それを察しとったのか、ミーティは最後に呪いのようにこう言った。
「ねぇ……あなたはどうなの。あなたの大好きな先生がある日とつぜん変わってしまったら、あなたはどうするの?」
「……」
一瞬、それを想像するように思案気な顔になり、けれどすぐに答えは出た。
笑顔だった。
「決まってるわ! 引っ叩いてでも正気に戻してあげるのよ!」
「……ちくしょう」
それができれば苦労はしない……恨みがましさと羨望と、複雑に絡み合った心はただ悪態となって噴出した。
きっとそれは、敗北を認めた自らに許した、ミーティの最後の意地だったのかもしれない。