31 塊坤の
唐突だった。
本当に唐突に。
誰に予想されることもなく。
――空が塞がった。
陽光は遮られ、天上は急激に暗闇に包み込まれる。一筋の光すらも届かない。
雲よりも大きく密度あるなにかが天上に出現し空を覆っていた。彼方先のどこまでも。
それは昼にさえ夜をもたらす天を塞ぐ巨大ななにか。
一体どれほどの質量がそれには備わっているのだろう。
一体どれほどの魔力がそれには込められているのだろう。
それの大きささえ、見上げた人々には把握しきれない。視界の端から端までで収めることのできない全容をもつ巨大さは、もはや規模の想像すら許さない。
だから、それのサイズと本質を正しく理解できたのは、魔力感知の範囲が広大なアカだけで。
通路を抜け出て、客席にまで踏み込んで、再び頭上を見上げる。
天に見上げるそこにあるのは――
「学園敷地と同サイズの――岩」
そう、それは突如、上空に生み出された巨大すぎる岩塊だった。
アカにはわかる。
あれは造形魔術によって、今今この時に造形された物質であると。
アカにはわかる。
あれが地上に着弾したその時には、この王都が中心から半壊しかねないことを。
誰がこんなことを? どうして? このタイミングに意味はあるのか?
様々な疑問が巡るも、それら全てを棚上げにしてなすべきを選び取る。
周囲を見遣れば全員が全員、驚愕に硬直し能動的な行動がとれていない。
魔力を探ってみても、この会場中で魔力反応を昂ぶらせている者もいない。
ここであれを破壊せねば、どれほどの命を奪い去るのか――それはアカにもわからない。
弟子や友、多くの無辜の民が死んでしまう。
それは嫌だった。
けれど、ここまで派手な攻撃に迎撃をしてしまえば――同時にアカも目立ってしまうだろう。
この規模の破壊を巻き起こせるのは少なく見積もっても月位、いや月位の中でも九曜クラスなのではないだろうか。
そんな攻撃を、真っ向から粉砕する魔術師とは?
下手をすれば正体を勘ぐられるかもしれない。
まかり間違って弟子にまで迷惑がかかるかもしれない。
最悪の場合、月位九曜を屠る力とだけ情報が伝わり――翠天の男に興味を抱かせるかもしれない。
そうなってしまえば――
「いや、いや」
そんな先のことよりも、現在に死が間近にまで迫っている。
岩の落下は止まることもなく大虐殺へと急ぐ。
迷っている内に、誰も彼もが死んでしまう。
アカは迷いを振り切るように錫杖を虚空より取り出して――
『せんせー、五秒待ったって』
その声を聞いた。
◇
時は数分だけ遡る。
クロとアカが席を立ち、お手洗いへと向かって、しかしシロは寝転んだまま動かない。
周囲の観客たちは舞台で繰り広げられる学生にしては随分と高レベルな戦いに目を奪われ、大いに盛り上がっている。
シロは、世界から切り離されたかのようにひとりぼんやりと眠りに就いていて。
しかし突如ぶん殴られたような激しい魔力反応に飛び起きた。
寝ぼけ眼で空を見上げれば超巨大質量の岩塊が見える。
大き過ぎて遠近感が掴めない。全体を見ることもできない。なんだあれは。
シロは半瞬だけ絶句する。
だが、それは一秒にも満たない。
この程度で絶望したりしない。諦めたりはしない。
なぜならこの場にはどんな最悪だって打ち砕くなにより尊敬すべき先生がいる。
その先生の一番弟子たる自分がいる。
このくらいのハプニング、どうということはない。
シロは魔力を練り、術式を構築。己にしか染められない唯一無二の固独を編み上げていく。
彼女は正しく理解している。
あれをなんらの犠牲もなく粉々に破砕できるのはアカだけだ。
彼女は正しく理解している。
彼にいま最も邪魔なものは衆人環視の目である。
彼女は正しく理解している。
自分ならば、彼の枷を外してやれると。
その魔術を組み上げながら、シロは器用にも同時に自然魔術。
自身の声を風で運んで該当人物へ送る。
「せんせー、五秒待ったって」
刹那もなく同じように風が声を届けてシロに聞こえてくる。
『っ、シロ? 五秒って……可能なのですか』
「任せんちゃい。シロはせんせーの一番弟子じゃけぇね」
『……わかりました、お願いします』
続けてもうひとり。
「アオー、上のあれ、五秒止めといてー」
『軽く無茶いうなぁ!?』
「でも、せんせーに渡すバトンじゃ、できんとは言わんじゃろ?」
『あったり前! やってやろうじゃんか!』
◇
「あったり前! やってやろうじゃんか!」
アオは強気にシロに返して、すぐに声伝えの魔術をとりやめる。
今はそんな些細な魔術にさえ、気を割いている余裕はない。
なにせ、今より相手取るのはあの天を塞ぐもの。
「大きいな、ほんと、大きすぎだろ」
見上げれば巨岩は今、会場の外壁結界を打ち破ったところだった。
すぐにつぎ、舞台結界に阻まれるも、突破されるのは時間の問題だろう。
急いでなにか手を打たなければ、アカに回すどころかシロにも託せず終わってしまう。
「じゃあ、失敗はできないよね」
「……キィ」
その圧倒的な存在感に、一瞬だけ俯きかけたアオの背を優しく叩く手があった。
振り返れば、キィは苦虫を噛み潰したような顔つき。
「ごめん、手伝えることがなくて」
「……いいよ。大丈夫。あたしに任せとけ」
「うん、そうだね。見届けるよ――アオなら大丈夫!」
「ああ!」
決意とともに足元に展開される魔法陣は、無論に自然。
アオの使い慣れ、最も得意で信頼する――象徴たる魔術。
それの名を『雪遊び』と、アオは名付けている。
だがいつも通りではあの頭上の巨石は止められない。
だから、術式をさらに書き込む。魔力を代償に威力を増大させんと魔なる式を拡張する。
円形は広がり、収束していく魔力は増していく。魔法陣の輝きが迸る。
そして。
「『雪遊び・雪柱』――!」
叫びとともに、魔術は完成する。青から現象が発現する。
それは膨大な雪が積もり積もって塔のごとくに伸びていく――雪の柱。
魔法陣から外には一切漏れ出ることのないよう制御され、それ故にどんどんと上方に積み上がって長大に昇る。
柱とは真っ直ぐ伸び行くことで天にある重さを支え、地にある者たちを守るための根幹。
地の安定をもって天へ挑む支柱である。
――落下する巨岩と、伸び行く雪の柱。
――その両者が宿命のように結びつき、そして静かに衝突する。
雪であり氷、なによりも魔術である魔力の産物だ。折れないように曲がらぬようにと築き上げたそれは、ただひたすらに真っ直ぐ頑丈。
膨大な質量の巨石を確かに雪柱は受け止め、その降下を緩やかに失速させ、押しとどめ――
「く……っ!」
とどめることはできない。
止まらない。
柱を崩して巨岩は落つ。
確かに速度は遅くなり、勢いは削げた。
しかしそれでも落下そのものは止まらない。その重量と、なによりも魔術の精度がアオを超えている。
地上で雪柱を維持するアオは秒間でごりごりと失われていく魔力を感じながら、それでも笑ってのける。
「五秒……だからな! シロ!」
◇
「んじゃ、こっちもぼちぼちやってこー」
積み上がる雪の柱を見届けて、シロもまた閉眼して編んだ術式を魔法陣として展開する。
その魔法陣は――白い。
それは、シロだけに許されたシロだけの固有孤独の魔術。他の誰にも使うことのできない唯一無二。
――それをして固独魔術『白痴遊夢』という。
睡眠と夢とを司るその魔術は、たとえば夢の中の世界を如何様にでも操作できる。他者を夢に引きずりこんだり、他者の夢に這入りこんだり――他者を強制的に眠らせたりすることさえ可能だ。
その中でも、今回のそれは広範囲に作用し大人数をまとめて術中に嵌める夜そのものたらんとする恐るべき術。
シロはそこでかっと目を見開く。
いつも眠たげなはずの銀瞳は、その時だけはどこまでも鋭く世界すら射抜くかのよう!
「――『白痴遊夢・夜曲』」
瞬間、シロの足元の魔法陣が会場全体へと拡大した。
夜曲は静かに奏でられる。
◇
「素晴らしい」
周囲でばたばたと人が倒れていく。眠りに就いていく。
この会場の全域に白い魔法陣は及んでおり――アカや姉妹たちだけを除いて、全員を強制的に昏睡させてしまう。
見上げれば雪の柱は岩塊を失速させ、猶予を伸ばしてくれている。
そのどちらもが尋常ならざる術の規模であり、術師の腕の高さをこれでもかとアカに教えてくれる。
なんとも素晴らしい。心の底から、導師は二人に賛辞を送っていた。
故だからこそ。
「師たる私が彼女らの尽力を無為とするなど、断じてありえない」
迫り来る大いなる巨岩を見上げる。その底深い赫の瞳は、彼には珍しく細く鋭く睨むよう。
右手には錫杖。
練り上がる魔力は絶大。
構成されていく術式は精密にして理解に及ばぬ複雑さを持つ。
二秒とかからず準備は万全で――とん、と錫杖で床を叩く。
常より力強く、故に甲高い打音はどこまでも響き渡る。
地面に展開する魔法陣の色には藍と橙とが混じる二色。混色魔術。
対抗魔術で消し去るにしてはあの巨岩の質量は大きすぎる。完全消去は難しい。
破壊魔術で破壊し尽くすにはあの巨岩の密度が高すぎる。破片を散らす恐れがある。
だからその両色による消失と破壊の同時進行こそが、アカのあの――塊坤の魔術への対応の答え。
開いた魔法陣は鮮烈に輝き、どこか毒々しい。アカという魔術師には似つかわしくないほど、凶悪な風情が発動せずとも伝わって来る。
もう一度、石突を鳴らす。
すると魔法陣が回転しながらアカの身体をせり上がっていく。円形が縮み、しかし記載された術式は一切劣化せずに維持して――腰を通り、肩まで昇り、左腕を通過して――手のひらに到達する。
「我が見上げたるは果てなき空の先――不粋に覆い塞ごうとも、高き天は不変にそこに広がっている」
二色の魔法陣から出現したのは、小さなガラス玉のような――魔力の結晶だった。
出現と同時、魔力結晶は引き寄せられるように高速で天へと上昇。落下する岩塊へと一直線に駆け抜ける。
そして衝突し
――無音無形の大爆発が巻き起こった。
目に見えはしない。音に聞こえもしない。
けれど破壊されていくそれを見ることはできた。崩れていく岩の悲鳴が聞こえてくる気がした。圧倒的な爆圧が地上まで届いているように思えた。
否、それすらも消し去って魔力へと還元する。
真実――なにも残らない。
一体どれほどの質量がそれには備わっていたのだろう。
一体どれほどの魔力がそれには込められていたのだろう。
それの大きささえ、見上げた人々には把握しきれない。視界の端から端までで収めることのできない全容をもつ巨大さは、もはや規模の想像すら許さない。
そんな巨大なる山の如き大岩はただ魔力による壮絶な破壊と消失が齎され、塵も残さず消滅した。