プロローグ・黄
その日はべつに、なにも変わらず目を覚ました。
飽き飽きしたくらいにいつも通りで、些細な違和感だって覚えなかった。
――しかし確かにその日から、少女の日常は地獄にすり替わっていた。
「おかあさん、おはよう!」
最初、朝に起きてリビングに顔を出し、母に挨拶を無視されたのはあまり不思議には思わなかった。
なにか疲れてるのかな、とか。忙しいのかな、とか。
それくらいにしか思わず、いつも座っている自分の席に座った。
あれ、と思い始めたのは、席に着いたのに母がなにもしてくれなかったとき。
いつもなら、まずはミルクをだしてくれて、それからパンやサラダ、果物なんかを朝食にだしてくれるはず。
なのに、母は洗い物に夢中で、気づいた様子もない。
さらに、正面に座る父も黙々と食事をしていて、挨拶のひとつもしてくれない。
どうしてだろう。
不思議に思っていると、「おはよー」と気だるげな声が響いた。
妹だった。
嬉しくなって、おはようと返そうとして――妹は少女の座る椅子にぶつかった。
「痛った。なんで誰も座ってないのに椅子下がってるの?」
「……え?」
誰も座ってない。
確かに、妹はそう言った。
けれど、自分が座っているじゃないか。
声を出すよりも、母と父の妹への挨拶のほうが早かった。
そして混乱している間に隣の席に座る妹へ、いつもの調子で会話がはじまる。
母が妹にまずはミルクをだして、それから果物を朝食にだして。
父がぶつかったことを気遣って、それから自分のぶんの果実を一切れあげて。
全部、いつも通り。
少女がいないことを除けば。
茫然としていると、ふと母が口を開く。
「そういえば、お姉ちゃんはどうしたの? まだ寝てるの?」
「んー? ベッドにいなかったから、先に起きてると思ったけど」
「いるよ! わたし、ここにいるよ!」
思わず叫んだ。
いつも元気いっぱいとみなに可愛がられ、大きな声だと父に言ってもらったそのノドで、全力で声を張り上げた。
しかし。
「なっ……なんで?」
誰にも聞こえていない。
少女の声は、誰にも届かない。
それから何度も何度も、声が枯れるまでひたすらに叫び続けた。
ここにいると主張して、足を引っ張り、腕にしがみ付き――けれどさっぱり、気づかれない。
少女は怖くなった。
どうして誰も自分に気づかないのだろう。
声も聞こえず、触れても感じず、その瞳に映らない。
恐怖をごまかすためにまたさらに声を張るのだが、すこしして声が掠れてしまう。
声が嗄れ、ノドは痛み、疲れ果て体中から力が抜ける。
ふらりと、少女は倒れてしまい――
「どうしよう! どこにもいない! どこへ行ってしまったんだ!」
そんな少女の不在に、家族たちは慌てふためいていた。
昨日まではいたはず。
ベッドに寝かしつけて、寝顔を眺めた。たしかにそのはずだった。
ではひとりでどこかへ行ってしまったのか。そんなはずがない。
あの子はとても賢く、優しく、誰にもなにも告げずどこかへ行く無茶なんてするはずがない。
あんなにいい子は他にいないのだ。
じゃあ、と最後に思い至るのは最悪の可能性。
「誘拐されてしまったのではないか」
父の言葉に、母は顔面蒼白になって、妹は泣いていた。
それを床に倒れ伏したまま眺める少女は、うわごとのように「ちがうよ、いるよ」と繰り返す。誰にも聞こえない。
どうしたらいいのだろう。どうしてこんなことになったのだろう。
突然すぎる災難に、少女はわけがわからない。
何か悪いことをしてしまったか。
そんな覚えはないけれど――ごめんなさい。
きっとわたしが悪い子で、これは天のかみさまがバチを与えているのだ。
だから、ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……。
「憲兵に話してくる!」
そうこうしている内に家族は少女が連れ去られたと結論付け、父が急いで詰所に探してもらうべく駆けだす。
そのとき。酷く無造作に。
足を踏みつけられた。
「あっ……がっ、ァアァァぁぁぁあアアアァあぁ!?」
なんの遠慮もなく、加減などあろうはずもない。
だって彼は踏んだことにすら気が付いていない。
大の大人の体重が乗った足だ、幼く細いその脚は簡単に折れ、激痛が駆け巡る。
痛くて泣き叫んでも、誰も反応してくれない。
大好きなお母さんも、優しかったお父さんも、一緒に育った妹も、誰も。
「あぁ……ァァ……」
誰も少女を見ていない。
心配してくれない。駆け寄ってくれない。一緒に悲しんでもくれない。
その事実を強く理解しながら、少女はあまりの痛みに気を失った。
◇
たぶん、気絶していたのはほんのわずかだった。
少女はそれを自覚することもなく起きてすぐ、すすり泣きながら、なによりまず動かない足を引きずり這いつくばってその場を離れる。
狭い家屋の中では、いつ何時また踏まれてしまうかわからない。気絶していたときに踏まれなかっただけで幸運だ。
それにさっきは足だからまだマシ――これが顔や胸部であったのなら、それだけで……
恐怖から逃れるように、少女は泣きながら痛いのを堪えながら進んだ。
それは一縷の希望もあった。
家族は、みんな気づかなかった。
けれど、もっと多くの誰かなら。
たくさんの町の人々、そのひとりくらいなら、少女のことを見つけてくれるひとがいるかもしれない。
もしかして、きっと、万が一。
そういう儚い希望。けれど、それに縋りつかなくては、もう少女の心がもたなかった。
「……なさい」
それに……後ろから聞こえる母の泣き腫らす声が、沈痛にすぎて聞いていられなかったのもある。
父の聞いたこともないくらい怖い怒声、もう声すら出ない妹。
なにもかも、見たくない。聞きたくない。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
自分のせいで優しく暖かかった家族が壊れていくのを、見ていたくはなかった。
それから結局、半日ほどかけて家から外へと這い出た。
玄関を抜け、外へと出て、家の前の通りが見える。
人がたくさんたくさん行き交っていた。
たくさんの人、その誰かひとりでもいい。なんなら助けてくれずとも、ただ気づいてくれるだけでもいい。
なんでもいいから、少女は自分を見てほしかった。ひとりぼっちは嫌だった。
願い――遮二無二、声を上げる。
「――――!」
少女にとっては全力を賭した声量。
けれど、ノドが潰れひもじく体力を失った幼い身から出たそれは、か細い無意味な音にしかならない。
たとえ呪いがなかったとしても、誰にも気づかれることもなく、誰の耳にとまることもない。
「――――!」
何度叫んでも。
「――――!」
何度訴えても。
「――っ ……っ!」
声は届かない。
誰にも。
誰にも。
声は届かない。
こんなにも人はたくさんいるのに、少女は孤独だった。
涙が再び湧き上がってくる。
抱いた希望は木端微塵に砕け散った。家族とは離れ、見知った通りのはずが、どこか異界のように不気味で恐ろしい。
絶望と、孤独と、恐怖と。
ぼろぼろと泣いて、蹲って――なにも変わらない。誰も見ていない。
世界は彼女を放置して、勝手に歩き去っていくだけ。
少女ひとりの不在などなんの関係もなく。少女ひとりの号哭などなんの意味もなく。
声なき声に、お前は不要だと言われたような気がした。
けれどそれでも少女は確かに生きていて、だからこそ他の情動が湧く。
……お腹が空いた。
どれだけ悲嘆に暮れようと、誰にも認識されなくなろうと、空腹は容赦もなく追い立ててくる。
夜を待って、人通りが減ったころに、少女は身を引きずって通りを行く。
なんとか夜明けまでに近くの露店に辿り着き、朝早くに開店したその店から果物を盗み取る。
そして夢中になって貪り、また盗む。目の前で堂々ととっているのに、その場から動いていないのに、バレたりはしない。
罪悪感が胸を刺したのが、すこしだけ意外に思えた。
そんな風にして、少女は生き延びることができた――できてしまった。
砕けた脚の傷口もいつのまに出血はなくなり、痛みだけは訴えているものの急速に傷が塞がっているようだった。
空腹といっても死を覚えるほどでもなく、日に何度かのつまみ食いでなんとかなった。
思い返すと、それは奇妙としか言いようがない。
後に知った事実だが――殺害を目的とする呪いには二種類あるという。
それは殺すことだけを目的にしたものと、苦しめてから殺すことを目的にしたもの。
後者について、場合によっては被呪者の死を設定したタイミングまで保護しようとすることがあるのだという。
少女にかけられた呪いはまさしくこれで、長く苦しめるよう怪我を癒し空腹も魔力で補っていた。ただし彼女の潜在魔力が高かったために可能だったことで、低魔力だった場合はその機能は作動しなかっただろう。
それが幸か不幸かは、誰にも判別できはしないが。
すくなくともそのときの少女にとっては、そんなことを考える余裕はなかった。考える力がなかった。
ただひたすらに誰かに助けを求め、飢えから逃れ、苦痛と悲嘆を我慢するのに精いっぱい。
そんな生活が、一体どれだけ続いたのだろう。
過ぎ去った日々は艱難辛苦ばかり。
激しい雨に見舞われた。
身を叩くような雨粒が痛くて冷たくて、涙さえも押し流してしまう。
強い日照りが続いた。
そのせいで不作となり、いつもくすねていた店から果物が大きく減った。ひもじさが気力を奪い去る。
雪が降れば町は静まり返ってひとりきり。
切り裂くような寒さも堪えたが、それ以上になによりも痛いほどの静寂が恐ろしかった。
夜が訪れる度に。
天候が移ろう度に。
季節が巡り進む度に。
世界が彼女を放ったまま変わっていく、その度に。
――心が死んでいくのが自覚できていた。
ふと気づけば、少女はもうほとんど声を発さなくなっていた。
祈るようにぼそぼそと、たとえ呪いがなくても誰にも届かないような声で助けを求めるばかり。
もはやそういうルーチンとして身体が勝手に繰り返しているような、行動への自覚が薄れていた。
思考が回らない。
心が動かない。
自分を――忘れていく。
そのころにはもはや痛みすら感じず、悲しいとさえ思えなかった。なにも、感じなくなっていた。
唯一ただそうすべきだと弱弱しく願う最後の自我が口を動かし、完全なる自己の消滅をぎりぎりで防いでいた。
むしろ少女の精神力は極めて強いほうだと言える。
少女に刻まれた呪詛の本質はその精神を殺すことにあり、未だに――実に一年近くの間――自我を保っているのは驚嘆に値する。
だから。
だから少女がそのときその声を聞いたのは、少女自身が呪いに打ち克ったからに他ならない。
「――見つけた」
その。
そのことばは。
少女がずっと――ずっと欲しかったことば。
最初は、まさか自分に向けられたことばだとは到底思えず、けれど声を発したその青年は、一直線に少女に駆け寄る。
真っ白なローブを纏った、どこまでも輝かしいひと。
その純白は、汚れた少女には眩し過ぎた。
けれどそんなことはお構いなしに、彼は少女のもとまでたどり着き――ぎゅっとその身を抱きしめる。
確かに少女を認識し、触れ、声をかけてくれる。
「やっと、やっと見つけましたよ。あぁよかった……生きていてくれて、本当に……よかった……。
もう大丈夫、私はあなたを助けに来ました。もう大丈夫です」
「……ぇ」
わけがわからない。
どうして、どうしてこの青年は自分を見つけられたのだろう。どうして優しく抱きしめることができたのだろう。
わからない。
そもそもどうして突如、自分は世界から爪弾きにされたのかも、少女はわからない。
なにもわからない――けれど。
声が通じた。
汚れた身体をなんの躊躇いもなく抱き締めてくれた。
助けてくれると、言ってくれた。
「……ぁぁ」
心を失ったと思っていた。情動は失せ、もうなにも感じないのではないかと。
なのに、噛み締める都度に込み上がって来るものがある。
赤いぬくもりが全身を覆う。
痛みは消えて、悲しみは溶けて、ただひたすらに優しい感触が心地よい。
なんて――暖かいのだろう。
その暖かさに、少女はもう我慢できずに泣いてしまった。
「ぁあっ、ああぁぁぁぁあああああああああああ……っ」
わんわんと泣きわめく少女の声に――何事かと周囲の誰も振り返る。
それは、少女の存在がようやく世界に帰ってきたことをなにより雄弁に語っていた。
◇
「半年ほど前に捕らえたある緑魔術師の犯罪者がいました」
そこは少女の家。
アカは少女の呪詛を解き怪我を治し――足をも再生させ――落ち着くまで抱き締めて、そのあととりあえず少女に家を聞いてみた。
けれど少女は首を振るばかりで、それだけでアカは全てを悟る。
憲兵の詰所に赴き、事情を説明し、一年ほど前から行方不明の届けをだしていた家族のことを知る。
アカはすぐさまその家族の住まうという家に――少女の家に向かう。
家に辿り着くと幾らかの悶着を経て、なんとか家族の方々を落ち着かせ、アカが少女を救ったことを説明できた。
けれどのその間ずっと少女の反応は酷く鈍く、虚ろな顔つきをしていた。
そのことについて、ことの真相を語るために少女を含めてテーブルを囲む。
アカはこの事件とも呼べない不幸な出来事の経緯を、知りうる限り伝える。
「彼は特に意味もなく自らの魔術のほどを確かめるよう、通りすがりの者に呪いを施していました。無論、そんな迷惑な輩は捕縛され、現在は監獄で死刑を待つ身です。そして、彼にばら撒いた呪いとその被害者の所在を詰問しました。
ばら撒いた呪詛、そのほとんどを彼は答えました。各地で被害を受けた方を見つけ、解呪し、救い出すことができたのです」
しかし、とアカはいう。
「ひとつの呪詛だけ見つからなかった……それが『不可知の呪詛』。あなたにかけられたおぞましき呪いです」
「……」
ぼうっと虚空を見つめるだけの少女が、その言葉にはすこしだけ反応を示した。
「その呪詛は世界の誰からも認知されなくなる呪い。
被呪者は誰の目にも映らず、声を発しても聞こえず、触れても無感。完全に他と切り離され、いずれ孤独に死する、そういう呪い」
家族たちは絶句する。
そんな恐ろしい呪詛を、誰彼かまわず施した外道がいて、まさかうちの子がそんな孤独の地獄に叩き落とされていただなんて。
「不可知の被呪者を見つけることができるのは、呪詛をかけた魔術師よりも相当に格上の魔術師だけ。そのため、それの捜索のために、国は魔術師協会に応援を要請しました」
そこにはすこしだけ虚偽が混じっている。
たしかに国は協会に協力を求めたが、アカは別に協会の魔術師ではない。
彼は別口でこのふざけた愉快犯のことを知り、それで取り残された被害者を思いひとり探し始めただけだ。
けれどここで協会との繋がりがないことを説明しても不信を招くだけなので、わざとすこし誤解されるように言い含めた。
まあ、このあとで知り合いの協会所属の術師には報告するので、問題ないだろう。
「それで、本題はここからなのですが」
これまででもショッキングに過ぎ、母など泣いてしまっているというのに、まだあるという。
もうやめてくれ――そう思っているとわかっていても、アカは止まらなかった。
「この呪詛の本当の恐ろしい点は、もうひとつあるのです。
『不可知の呪詛』は世界の誰からも認知されなくなる呪い――誰からも。故に、果ては自分自身からすらも認識されなくなってしまう」
それがこの呪いの最も厄介なところ。
自分で自分すらも知ることができなくなり己を喪失する。己の認識たる記憶を、失う。
しかし自我もつ者であるのなら、己を見失わせるのは難しい。魔術は心をもって発動するが、それゆえに心への干渉がほとんどできない特性をもつ。
そのためしばらくの間は抵抗できる。心を強くもち、自分を貫き、呪いに抗うことができる。
とはいえ、他者から感知されず孤独に苛まされると、ひとの心は削がれていく。自我がすり減っていく。
抵抗力が――心が、日に日に薄れてしまう。
そしていずれは己を忘れ、自己を失う。
いまのこの少女のように。
「おそらくですが、この子はほとんどの記憶を失っています。自分の名前すら、覚えていないようでした」
とはいえむしろ、一年近くたったひとりで寂しく呪いと戦ってこの程度で済んでいるのは上等で、アカなどは痛く感嘆していた。
助かれば涙を流し、話しかければ言葉を返す――おそらく他の者ではこうはいかない。
一か月ももたず廃人になっていて普通、半年もてば御の字。一年だなんて、規格外と言える強靭な精神だ。
そんな少女を――ようやく地獄から帰還することのできた少女を、アカは見捨てることができそうもない。
「そこで、ひとつ提案なのですが――この子を私が預かりましょうか」
疑問と驚愕、それからかすかな安堵が両親たちから漏れ出る。
予想通りの反応にアカは事前から考えておいた言葉を並べる。
「記憶の混濁。呪いの後遺症。こうしたものに、おそらくこの町では対処できないでしょう。私は魔術について専門家ですし、呪詛についても研究しています。
もしかしたら、失った記憶を取り戻す手立てを見つけ出せるかもしれません」
それに、アカはあえて口に出さなかったが。
やっと見つけた最愛の娘が自分たちを覚えていなかった。そんなの、両親の側からすると絶望に他ならない。
心の整理が必要なはずだ。
それに、少女の不在によって発生した多くの問題、悲劇、衝突。それらが落ち着くまでにも、時間が必要だろう。
少女の両親は、消沈したままにただ強く「お願いします」とだけ告げた。
虚ろな少女は、それを聞いてもなんの反応も示さなかった。
◇
「そういえば」
「……」
少女の手を引き、アカはゆったりとした速度で歩く。
少女は無表情で促されるままに歩み、無感情でなにも見てはいない。
呪いが解けても未だに心は止まったままで、灰色の世界に取り残されてしまっている。
他者に自分を見つけてもらうことができても、自分で自分を見つけてあげることが、まだできていないのだ。
だから、アカは――少女に。
「名前が、思い出せないのでしたね」
「……」
立ち止まり、向かい合い、無反応の少女に言葉を綴る。
声が届いていないわけじゃない。ただ底まで響いていないだけ。
手の暖かさが感じ取れないわけじゃない。ただその喜びを外部に出力できていないだけ。
「であれば、本当のそれを思い出すまでのあいだだけでも、私やみなと繋がるための名を授けましょう」
「……っ」
ほんのわずかに目が広がった気がする。
かすかすぎて、気のせいかと思った。でも、気のせいじゃない。そう信じる。
アカは膝を折って目線を合わせ、まっすぐと少女を見つめて。
「――キィ。あなたの仮の名を、キィとしましょう」
「ぁ」
――名前は自己認識の第一歩。
どこかの誰かではなくて。忘れ去られたかつての自分じゃなくて。
今、只今このときの自分――自分の名前。
自分が誰であるか自覚することで、止まっていた心が動き出す。跳ね起き、沸き立ち、心躍る。
自分はキィ。わたしの名はキィ。思い出せないだれかじゃなくて――キィというひとりの人間である。
それを何度も何度も繰り返し、自分を見つけ出していく。
失われた記憶が戻ったりはしないけれど、まだそこにある自我が虚ろから目覚めていく。
心が色づき、自らの魂を染めていく。
「わた……わたしは。…………わたしは、キィ?」
「はい」
確かにアカがうなずき肯定することで、少女は今ここにキィとなる。
それを祝福するように笑って、アカはおどけるように手を差し出す。
「もう一度、自己紹介をし合いましょうか――私の名はアカと申します。あなたの名前は?」
「わたしは――キィ」
少女は握り返してくれなかった。
だからこちらから――そっと、キィの手をとり優しく優しく握りしめる。
暖かいとアカは感じて、たぶんきっと、キィも同じように感じてくれている。
「キィ。私はキィを、ちゃんと見ています。声を聞いて、その手に触れています」
「……」
「あなたがどこへ行っても見つけます。消えてしまっても取り戻します、なぜならあなたは生きている」
「でも……」
否定はさせない。
絶対に、それだけは否定させない。
「何度でも言いましょう。何度でも確かめましょう。
恐れるあなたを、何度でも私は見つけますから」