24 黄金色の今から見る灰色の過去
「キィ、話があります。すこしお時間よろしいでしょうか」
そう言ったアカの口調は、いつもと違ってすこし硬さがあった。
なにか、嫌な予感がキィにはあって。
けれど断るほどのものではなく、いつものように笑顔で頷いた。
では私の部屋へ――そう言われて、予感が確信に変わった。
他愛のない話なら、リビングでしてもいいはずだ。
わざわざアカの部屋で他の子に聞かれぬようする話が、あまり楽しいものとは思えない。
なにかあっただろうか。
なにかしてしまっただろうか。
悪い想像が渦巻いて、胃がきりきりと締め付けられたように痛む。
不安になるということ自体が、キィは嫌いだった。
不安は、嫌な記憶を引き寄せるから。
だから自然と安心を求めて、手が伸びた。アカのローブを指が摘まむ。
触れると、アカは振り返ってどうしましたと目線だけで問い、キィは首を横に振るだけでなんでもないと答える。
それだけのやりとりで、ほっとできる。
あぁ、自分のことを彼は認識してくれている。
自分はここにいる。アカに見つけてもらっている。
結局そのままアカの部屋でソファに座るまで、キィは手を離すことをしなかった。
向き合って座り、真剣な眼差しで見つめられる。
キィは不安に凍えそうな心を奮い立たせ、できるだけいつも通りに微笑んで見せた。
それがキィの処世術。
見えない悪意が怖くって、誰かに嫌われることが恐ろしい。
嫌われないよう振る舞って、好かれていくよう立ち回る。
相手が望む答えを考えて、演じてほしい役割を請け負う。
すこしでも多く、誰かの記憶に残って忘れられないように。
「キィ、手紙が届きました。私と――あなた宛てに一通ずつ」
「……わたし宛て?」
それは本当に予想外な切り出しだった。
キィに手紙を送るようなひとなど、いただろうか。それも、アカの言い方からするに、アカにも宛てている。
キィとアカに同時に、しかし別々に手紙を用意するような相手。はて思いつかない。
疑問に首を傾げるキィに、アカはおもむろに懐から二通の封筒を取り出すと――衝撃的な事実を回答として持ってきた。
「これは、あなたの妹さんからの手紙です」
「っ!」
跳ねるようにして背もたれに逃げた。
座っていなければ、もっと離れようとしていたかもしれない。テーブルに置かれたその手紙から。
妹。
キィの、妹。
それは彼女の認識からすると、存在しない人物だった。
強いて言えば、最近になってアカに弟子入りしたクロが妹弟子であり、妹のように可愛がっているつもりだ。
けれど、事実を言えばキィには血の繋がった妹がいる……らしい。
母も父も存命で、ある離れた町に住んでいる……らしい。
らしいというのは、キィにはその事実がどうにも現実感を持っていないがため。
そう伝え聞いているし、本人たちにも対面でそのように告げられている。
けれどそれを覚えていないのだ。
――キィは一度、ほとんどの記憶を失っている。
自分の本当の名前すら、覚えていない。
アカにつけてもらったキィという名前だけが、彼女を示す名称だった。
そして、忘れ去った過去について彼女の思うのは――恐れ。
「……ごめん、読みたくない」
随分と時間がかかってから、ようやくキィはぽつりと言葉を漏らした。
否定だった。
アカは、それを承知していたかのように頷いて、けれどだからこそ些か強引に。
「そういうだろうと、私の手紙に記載されていました」
「え」
「『お姉ちゃんは、怖がりだから』」
「っ」
きっと、それはアカに宛てられた手紙の一節。
だがキィは言い当てられて身が竦む。
見知らぬ誰かに心の内を見抜かれるのは気味が悪い。理性で身内らしいという知識はあるが、感覚が追いついていない。
アカは怯える弟子に、できるだけ優しく。
「だから、私のほうから説得してほしいと、私にも手紙を宛てたようです。聡い――いえ、あなたをよく理解した妹さんです」
「……わたし、でも」
「はい。そうですね。そんなことを言われても、あなたには覚えなどありませんでしょう」
すべて承知している。
キィの呪いのことも。キィの失った記憶のことも。キィの家族への複雑な感情も。
その上で、かつ手紙の送り主の気持ちもわかってしまう。言葉を続ける。
「キィ、その手紙には、妹さんがあなたに会って謝罪がしたいと綴ってあります」
「べつに」わずかに鬱陶しげに「謝ってほしいなんて、思ってない」
「……」
キィにしては非常に珍しいこと――アカの言葉に苛立ちが混じって返すなど。
感情が抑えきれずに膨れ上がって言葉の端々に噴出してしまう。
「自分の罪悪感が辛いから謝らせろ、許せって、そんなのずるい」
「はい」
「勝手、勝手だよ。抱えたものが重いのは、そっちだけじゃないのに」
「はい」
「だって……わたし、なにも覚えてない……謝んなきゃいけないのは、わたしなのに、覚えてない……」
「いいえ」
そこは否定をする。
罪がそこにあるとして、しかし在り処はキィではない。そこだけは断ずる。
「あなたはなにも悪くありません。もちろん、あなたのご家族も」
本来ならば謝る必要性などどこにもない。
なにせ悪い奴は明確に他にいて――既に死んでいる。
誰が悪いの話は既に終わっていて、次にどうすべきかを論ずるべき。
「ご家族に会うのは、怖いですか」
「こわいよ、こわい。とっても……こわいよアカ」
「当然、私も同伴します」
「……」
「なんなら、妹さんだけを私がこちらに連れてきても構いません。彼女も、会うのは自分だけと仰っています」
「…………」
わかっている。
辛かったのは、苦しかったのは自分だけではない。
顔を合わせることを恐れているのは、きっと向こうも同じなのだ。
なのに、こうして手紙をだしてくれた。
会おうと、自ら寄り添ってくれた。
わかっている。
その尊い気持ちに泥を付けるのは酷いことだと。
アカに育ててもらった正しい心が、善悪を誤りなく理解させてくれている。
既に正解はわかっている、わかっているのだ。
けれど。
どうしても――怖い。怖いのだ。
「…………」
「……キィ」
俯くキィと、気遣わしげに見つめるアカ。
そんな状態がどれだけ続いただろう。これからどれだけ続くのだろう。
――寸断したのは、ドアの音。
「あの……先生?」
ノックとともやって来た声は、クロだった。
実は彼女、廊下で深刻そうに歩くふたりを偶然にも見かけてしまったのだ。
そしてアカの部屋に入ってしばらくして物音ひとつない。
ちょっと不安になって、思わず声をかけてみたのだが。
「ごめん!」
どん、とドアを開いてキィが走り去ってしまった。
その勢いにクロは思わず尻餅ついてしまい、けれど痛みなどよりすれ違った悲痛な顔のキィに意識がもっていかれる。
一体、どうしたのだ。
「クロ、大丈夫ですか?」
「うん、わたしは大丈夫だけど、キィはどうしたの? ぜんぜん大丈夫そうじゃないけど」
「……すこし、嫌なことを思い出させてしまいまして」
手をとりクロを立たせてやりながら、アカは憂鬱げにそう答えた。
もっと、優しい言い方があったのではないか。
もっと、上手いやり方があったのではないか。
そう考え出すと止まらない。
キィにあんな顔をさせたのは、間違いなくアカの失態だった。
「もしかして、呪いのこと?」
「はい」
「そう……」
なにを言うでもなくすぐにその可能性に思い至る辺り、クロにとってもそれは未だに心に刻まれた大きな瑕疵。
日常は楽しい。
姉妹弟子は優しいし、師だって大好きだ。
今というこの時間がなにより愛おしく、ずっと続けばいいと思う。
けれどふと後ろを見遣れば悪しき思い出がすぐ傍にあって離れやしない。ひとりになるとどうしようもなく嫌なことが思い浮かぶ。
眠る前にちょっと振り返るだけで眠れなくなるし、眠っても悪夢としてそれがいついつだとて苛んでくる。
だからこそ、クロは真っ直ぐにその結論に辿り着くことができた。
「わたし、キィと話してみる!」