83 天業・命ある心、心ある命
「……んー?」
絶望に打ちひしがれて慟哭するクロの横で、エインワイスはどこか不思議そうに首を傾げていた。
なんだこの結果は――予想通りに過ぎるじゃないか。
じゃれ合い様子見に術合戦。
それでは勝ち目の薄いアカが天業を発動し、押され始めたルギスが怒り狂って天業でひっくり返す。
そのすべてが彼らが戦う前に予測できた展開であり、まず間違いなくアカも頭に思い描いていた予定調和であった。
この決戦を仕掛けたはずのアカが、自らの敗北を理解して負けに来た――というのは流石に馬鹿馬鹿しい。
なにか想定外があるはずだった。そうでなければ馬鹿だ。
そして、エインワイスはそんな馬鹿に育てた記憶はない。ありえない。
もしも彼女との断交の四百年がアカをそこまで馬鹿にしていたのなら、もはや人類など滅んでしまえとエインワイスは本気で思う。
果たして――
「ふん。そうかよ」
対抗魔術の結界を展開し続けているエインワイスだから、それに最初に気づけた。
空間に漂う魔力の質、その色相は未だに赤く染まっている。
彼の天業は、終わっていない。
「死なせません――我が赫天の名に懸けて」
「人の惰眠を咎めておいて寝坊かよ……いいからとっとと終わらせろ、馬鹿弟子」
エインワイスはいつものように皮肉気に、けれどその口元にはほんの僅かに笑みが浮かぶ。
◇
起死回生の一手があるのか――その問いに対する返答が、是であり否であったのは。
「『天業』」
アカには、それがふたつあったから。
「何が……!」
ルギスはありえざる声を聞き、咄嗟にクロへの術を止めて狼狽する。
殺した。
殺したはずだ、間違いなく。
奴の肉体は滅び、その残滓は一片すらも残していない。
確実に殺した。
絶対に殺した。
間違いなく殺した。
絶滅の呪詛だ、絶対に滅ぼすからこその天の御業だ。
だがならば。
天の御業をひっくり返すのもまた、同じく天の業。
「ふたつ目の、天業……!?」
「――『赫離世・黎明』」
それは、規格外の天業のうち、さらに図抜けた規格外。
魔術というひとつの法則のルール違反。ありえざえる矛盾にして理不尽の権化。
つまるところ、心に触れる魔術。
さらに精確に言うのなら、アカの心と呼ばれるなにか不明のそれを自らの肉体という器から一時的に離し、星に漂う外在魔力に預けた。星の命の完全統御をなしていたからこそ、それができた。
その間に肉体は滅びようとも、彼の心は死なず――そして心があるのならば魔術が扱える。
滅んだ肉体を生命魔術で再生し、そこにまたアカの心を移す。
そうして目覚めた、当たり前に――この世界に赫天のアーヴァンウィンクルが蘇る。
「そんな……馬鹿な……っ」
いわばそれは赫天のアーヴァンウィンクル限定の死者蘇生。
幽世から昇る黎明の日差しである。
「馬鹿なありえん! 魔術で、心を捉えるなど!」
魔術は心に触れ得ない。
それは常識だ。それは道理だ。それはルールだ。
けれどそんなルールを破ることができるからこそ――天はある。
否。
天にある者とてそれはやはり不可能だった。
世界で最も優れた魔術師である瑠天も。
世界で二番目の魔術師である翠天も。
できなかった。
ただひとり。
唯一の例外は。
長き時のなか、ずっとひとに寄り添って心というものを身近で感じ続けた天なるものだけが。
天として地上から離れ、見下し、軽く見ていたものには絶対になせない領域に踏み込むことができた。
彼こそは天の異端。
地にある天にして人という矛盾そのもの。
――赫天のアーヴァンウィンクル。
彼は死してなお目覚め、その肉体を再生し――こうして生き返った。
「先生!」
「ご心配をおかけして申し訳ありませんでした、大丈夫……私は死にませんとも。あなたを、死なせはしません。約束したじゃないですか」
「先生っ、先生っ!」
もはやそれ以上の言葉はなく、クロはまた泣き崩れて、けれどそこにあるのは安堵と喜びだけだ。
アカはそれを見届け、再び引き締めた表情で前に向き直る。
驚愕し動揺したルギスを見返す。
「心だと!?」
魔術は心に触れえない――魔術師ならば誰でも知っている基本中の基本。
いや、御伽噺にだってそのことは記載されていて、魔術に縁遠い子供だって知っている。
なにより翠天のルギス、その天たるが不可能であることを誰よりよく理解している。
「ありえん! 心に触れる魔術など、それそのものが矛盾ではないか!」
愚願の呪詛は心以外の全てを特定の精神状態に傾くようにと仕向けた魔術。心とかいうよくわからないものを理解するために、それ以外をもって解明しようとした。
無意味だった。
精霊化の祝呪は人の肉体を全て精霊という別個の存在に置き換えることで、肉体ではない心というものを炙り出すことを目的として開発した。
無意味だった。
悪夢を見せる呪詛すべては、夢という心の剥き出しの状態を観測するために作った。仕組みは幻を見せる類が精々で結局は心に直接触れることは叶わなかった。
無意味だった。
そうつまり、翠天のルギスにもそればかりは――
「ありえていいはずがないのだ! それは、おれにも――!」
不可能だった……と、それ以上の言葉は続かなかった。
続けてしまえば、ある種の負けを認めているように思えて容認ならない。
ルギスは天だ。すべてに優れ、誰にも負けない。負けるわけがない。
あのような塵屑に負けを認めるなど、あってはならない。
「嘘をつくなよ、白々しい!」
だから出て来た言葉は否定の叫び。
子供のように理屈なく理由なく、ただ感情でもってありえないと全否定をぶつける。
「お前はそれを見たことがあるのか? それが発する音を聞いたか? それとも魔力を発していたのか?
人の肉体に宿っているのか? 命に芽生えているのか? 殺せば死体から見つけ出せるのか?
答えてみろ、その心とやらの色がお前にわかるのか? 形は? 質感は? 見えも聞こえもしないものに、どうやって実在を証明するというのだ!」
「――心とは、一体なんなのだ!!」
自らを突き動かし、勝手に乱れ、思うようにならない。
理解不能、意味不明で気味が悪い。
散々手を尽くし、手中に収めんと大勢の犠牲をだして、しかし決して届かない。
ルギスにとって、心とは天の外。
人に存在するあってはならない自らの及ばぬ部分。
どこまでも腹立たしい不定無形の理外の理不尽そのもの。
だからこそなによりも求め、手中に収めて屈従させねば気が済まない。
幾ら呪詛でもって命を奪っても……心だけは奪えない。
その事実こそがルギスにとってなによりも許せない事実であった。
そして。
真っ向対立する赫き天は手のひらを広げて言う。むしろそれは容易くこの手の内に認めることができるのだと。
「見えず聞こえずとも、感じるでしょう。魔力の波動を感知するのと似て、心と心はその発露を捉えうる」
すっと自らの胸元に手を置き、その存在の確かさを感じる。
アカにとっては、見えなくても聞こえなくても存在していることに一切の疑いはない。
「もしもそれを感じることができないのでしたら、それはあなた自身が理解を拒んでいるからに他なりません」
「このおれ自身が、だと」
「利己と排他、それ以外の存在を、あなたは拒んでいたじゃないですか」
在りし日、本当に短い言葉を交わした。
あの時は答えられなかった問いに、今のアカならば答えを返すことができる。
五百年。
五百年もの長い間、アカは地上を歩き続けた。
世界中のあらゆる、多くの誰かと、心を交わし続けてきた。
地と絶した天の者にはありえざること。
「私は魔術による偽りの、それでも生命を見た。その術式を学ばせてもらえた」
「!?」
「精霊と出会い、そして精霊となった青年の死を看取り」
「なにが」
「夢の中で例外的に心に触れる魔術を知った。その術者と長く共にあって、心を交わし合った」
「なにがいいたい、アーヴァンウィンクル!」
「なによりも――」
「私は四度もの奇跡を目の当たりにした」
全てを失っても、自らの足で立ち上がり天に立ち向かう気高さを見た。
誰からも忘れ去られ孤独に苛まされて、それでも歪まぬ優しさを見た。
確固たる自分さえも奪われ、常に自らに疑問を抱きながらも戦い続けた勇気を見た。
実の父親から呪われて心砕くような悪夢に飲まれ、なお揺るがぬ山の如くあり続けた矜持を見た。
それらが人の心が起こした奇跡でなくばなんだという。
いや、誰がなんと言おうとも、アカが絶対に断じてやる。
「その尊さが、その素晴らしさが、貴様にわかるかルギス! もしもわからないのであれば、貴様が心を解することなど永劫ありえない!」
もちろん、心の負の側面だってあるだろう。
彼女らだってかつて抱いた悲しみも苦しみも憎しみも、消えてなくなったりはしないだろう。
翠天のルギスが呪いをばら撒かなくたって、世界は悲劇で満ちていて。
それでも。
人はその歩みを止めない、生き続ける。
天に昇らなくたって、まっすぐ道を前に進む。
些細な言葉が救いになって、小さな祈りが奇跡を生み出す。
――心とは、色とりどりに満ちた可能性そのもの。
「それが私の結論だ――そして、私の天の御業そのもの!」
無論、それはアカの結論であり、他者の解釈とはズレるだろう。
そもそも心を一言で説明することなど不可能で、誰もの中にあって誰ものそれとは違う。
すべてが唯一で、無二である。故、人の数だけ答えがある。
統一した一つの答えを求めた時点で、答えは遠のくばかり。
「おれは認めない……!」
だが彼は多様性を認めない。
なぜなら彼は、比類なき天であるという自負がある。
優劣のなき多数とは――すなわち彼の上位性を脅かしていることになるのだから。
翠天のルギスもまた、心をもったひとつの命であるという、在り来たりにして平凡な事実がどこまでも許し難い。
「認めんぞ、そんなもの!
おれは特別だ、おれは特上だ、おれは特等だ!
お前ら塵と比較することさえおこがましい! 足元で呻いて踏みつけになっていろよ、それがお前ら塵にお似合いなのだ、なぜわからん!」
「人を貶して貶めて、それであなたは高くに昇ったつもりですか」
「逆だろうが! 上にあるから見下すんだ、踏みにじれるのだ!
そうだ、この世など塵芥、人類なぞ塵屑に過ぎん。我が意ひとつで、容易く失せる。
――我が呪詛は世界を滅ぼし、天を落として心も殺す!」
「無駄だ! 既に貴様の魔力は天業により尽きかけている……星と接続した私にはもはや――」
「うるさい!」
ルギスは問答無用とばかりに魔力を高め、再び魔術をくみ上げようとする。
だが天業を使い、ルギスの魔力は減退していた。
星そのものと同期したアカに、勝ち目などあろうはずもない。
「うるさいうるさい、煩わしいんだよ糞塵がぁ! おれを誰だと思っている! いついかなる時であれ、どのような状態に陥っても、おれは天だ! 最強無敵に決まっている!」
それを理解してなおルギスは譲らない。一切の虚飾なしに自らの優位性を信じている。
たとえなにがあっても、天は決して地には落ちないのだと。
「あなたは」
その狂おしいほどの自尊心は歪みなく。他者への蔑視は揺るぎない。
己が上で他者は下と、彼のその決めつけは生れ落ちた瞬間からこの時まで徹底的に狂信している。
アカはどこか物悲しそうに。
「あなたも、天に昇るより以前があったでしょう。只人であった頃が、あったでしょう。どうしてそうにも他を寄せ付けないのです」
「塵が寄り付くなぞ気色悪い! おれはおれのみで完成し完結している! 邪魔なんだよなにもかも!」
「……そうですか」
アカははるか昔から何度も思ったことを、このときまた――きっと最後に、思った。
あぁこの人は自分とは違うのだと。
なにを言ってもなにをしても、総じて無意味。この隔絶は絶対に縮まらない。
「あなたがあなたを至高とするのなら、私はあなたを奪いましょう。
それがあなたがこれまで奪い続けてきたことへの報いであり、罰であると理解しなさい」
ルギスの最期を彩る魔術を、今決めた。
アカは星と接続している。星そのものと化したとさえ言っていい。
ならばこそ。
「天から転げ落ちた時、一体あなたはなにを思うのですかね?」
――魔力は空気に溶けた外在魔力に反応しやすい性質をもっており、そちらに引き寄せられる。
これはすこし言い換えると、膨大な無色の魔力は人の色付けした魔力を溶かすということ。
多量の水に少量の絵の具を垂らすと、薄まってはやがて見えなくなる。消えてしまう。
それと同じく、無色の外在魔力の大海で泳ぐ着色魔力はやがて溶けて消える。
ただ人はその肉体を防壁として自らの魔力が外へ逃げ出すことを防いでいるのだが――もしも。
もしも星の魔力が統一した意志をもった上で差し向けられたのなら。
星という膨大にして無限にも等しい無色の魔力が、意志をもって個人の魔力を溶かそうとしたのなら。
「これ……はっ」
それは肉体という防壁すら無視して、その魔力を奪い去る最悪の津波だ。
ルギスの魔力が、外在魔力に食われて消えていく。
個人由来の魔力を脱色し、外在魔力と同質のものへと変換、外へと還す。溶かしていく。
ルギスという器から、魔力が失われていく。
天位とはいえ天業という大技を使って疲弊した今ならば、無限の魔力でもっての溶解簒奪が可能であった。
「消えゆく力はそのままあなたが天から下っていることを意味します。わかりますか? あなたが忌み嫌ったゴミに、あなたはなっていくのですよ」
「やめろ……! こんなっ、おまえぇ……!」
魔力が失われていく。
彼を天たらしめた力の全てが、色を失い徐々に徐々に消えていく。世界に還元されていく。
真綿で首を締めるようにゆっくりと、しかし確実に、翠天のルギスを消していく。
「しっ、死ぬものか! おれは天だ! 唯一無二の天なんだ!」
死が迫る。
死が迫る。
否応なしに死がすり寄って来る。
「天は死なない! 不死身だ! 故、おれは死ぬことなどない! お前程度に、おれが殺せるわけがない!」
多くの呪いを編み出し、無数の死をばら撒いた最悪の天が、遂にその命に終幕を迎えようとしている。
死神に等しく数多くの死を送った男は、だからこそ自らの不可避の死に直面したことを理解できている。
それでも。
「おれは死なん! 勝利するのはおれだ、おれは! おれは……天……なる、も……の……」
それでも最期の最期まで。
末後の刹那まで。
ルギスは決して自分の死も敗北も認めず、この世のすべてを見下したままに――委細揺るがず己のままに生き抜いた。
そして……生きている以上はいずれ死ぬ。
なにひとつ省みることもなく、自らを疑うこともなく。
だからこそ欲したものも手に入らず。
翠天のルギスはその存在を消滅させた。
「さようならルギス、我が兄よ」
どうかせめて安らかな……いや、悪夢に落ちて底に眠れ。