第六話 父の背中
俺は今、親族主導の葬儀に出ていた……父が死んだのだ。
不幸だとは思わなかった。いや、不幸だとは思ったが、仕方のないことだと許容してしまえた。憤りとか、悲しみとか、喪失感とか……普通なら抱くそういう感情も、まったくないというわけではない。
でも、小さい……涙は出なかった。
何の情も持たないのであろうか? 俺の心は凍るように冷たく、全てを俯瞰的に眺め、どうでもいいと言っている。「生きる」なんてこんなもんだと思ってしまっている。どこもおかしくないだろと。
別にいきなり死んだわけじゃない……兆候はあったのだ。
高校生になった俺は通学のために近場の安アパートを借りた。言ノ葉ちゃんと同棲……一人と一匹暮らしだ。だから最低でも月に一度は、父の様子を見に行っていたのだが……明らかに異常と言える量の酒が転がっていた。どれだけ片付けても、次また様子を見に行く頃には同じ光景が広がっていた。
アルコール依存症。
最初の内は『やめなよ』と何度も言った。飲み過ぎは体に悪いのだから、控えた方がいいに決まってるじゃないかと。だが段々と、そんな単純な話ではないと気づいた。これは唯事ではないと、俺は肌で感じていた。
――なぜ自分から人生を捨てるような飲み方をする?
俺はその理由を想像することができなかった。どんな最悪の状況でも、せめて衣食住足りて平和に生きられるなら、希望はあると思っていた。
『世界は目まぐるしく変化している。待っているだけでも、自分の想像を超えた未来が訪れるかもしれないじゃないか』と。
その可能性を放棄して寿命を縮めるようなことをするなんて、視野狭窄に陥っているとしか思えない。いつも冷静だった父らしくない。
――もしかして、俺が未熟なのか?
俺は自分の若さを痛感した。何も理解できないことが悔しかった。掛ける言葉を見つけられないのが悔しかった……己の無知さに気づき、恥じた。
強引にやめさせるという手もある。でもそれは、下手な延命措置に過ぎないのではないだろうか。父の意志を無視してはいないだろうか。
俺は言ノ葉ちゃんに相談した。ずっと一緒にいたのだ。当然俺が父と会話をしている時も近くにいたのであり、父の言葉も紐解いてくれていた。言ノ葉ちゃんはその存在こそ周囲には伏せているが、俺の理解者であり、父の理解者でもあった。しかし言ノ葉ちゃんから告げられた父の悩みは、俺の理解力を超えていた。父は賢かった。
それは生きる意味の問いに、極限まで迫ったゆえの苦境。自分は何者なのか、何処から来たのか、なぜ生まれたのか。なぜ何もないのではなく、何かがあるのか。今とは何か、今を生きるとはどういうことか。妻の死に悲しむことさえ出来なかった己への失望と、唯一の息子すら生きる理由にはできなかった強い罪悪感……そんな全ての思考から解放されたくて、連日酔いつぶれるまで飲むしかないのだと。
その後の言ノ葉ちゃんの話は哲学の講義に近かった。俺はそれを黙って聞いて、時々質問しながら理解に努めた。それでもまだ……難しかった。ただ一つ、はっきりしたことはある。
これは超常の言霊族にも解決できない問題なのだ。
結局、俺は父をどうすることもできなかった。『生きてほしい』と告げることさえ出来なかった。
俺は正解のない世界で、生を正解として選択し続けていると自覚した。その選択を誇れないことを自覚した。
俺は己の内に、生が正解であるという確信がない。正解であってほしいという、意図すら持てない。ただ漠然と、傍観者のように生きている。
なんで存在しているのだろうか……「世界」。何も無いままの方が良かったのではないだろうか。
……考えるだけなら、いい。でも『世界が悪い』と叫びたくなる自分には――罪悪感を覚えた。
生まれてきたのは自分の意思じゃないという反論も可能だったが……これは、俺が払って返さなければならないツケなんじゃないかという、僅かな直感もあった。
だから、まだ漠然と、生を正解として選択し続けるのなら……、
――知ろう。
父を、人そのものを、世界を、理解しなければ。そうしなければ、心を、生を……「許容」できる気がしないから。
生きることは拷問に近い。人は生きているだけで罪を生産し、清算する。清算しきれなくなったら……死ぬ。
脳裏に浮かぶのは、今を忘れたいかのように酒を呷る父の姿。
意図を紡げなかった者は、そういう生き方しかできなかった。俺が父の背中から学んだ、一番大きなことがそれだった。
それが、傍観者として生きる《オレ》が、道徳の価値を知る《ボク》が……心得なければならないこと。
選択には責任が生じる……が、責任を負わなければならないという決まりはない。人は罪を投げ捨てることもできるのだ。だが投げ捨ててしまったソレを拾いに行かなかったなら、目を背けたままでいるのなら……俺は言ノ葉ちゃんに、胸を張って『好きだ』と言えなくなるだろう。
俺は「非情な現実から目を逸らさない」と決めた――逸らしたくなかった。
「……言ノ葉ちゃん」
『はい』
「俺、人の心を知りたいんだ。それに、科学も」
『はい』
「あと、もっといろんなことを知りたい。可能な限り、自分の視野を広げたい。本気でやりたいことが見つかるかもしれないし」
『はい』
どうせこれらの言葉にも、オレの魂の残滓とやらは宿っていない。
「手伝ってもらって、いいかな?」
『勿論ですよ! 寧ろドンと来いです。言霊族舐めんなですよ!』
「ありがとう」
せめて、願う。
人の心を、科学を、それ以外のことも、何でも学んでいくことが、経験していくことが、吾を探すことにも役に立ってほしいと。
意図の紡ぎ方を知らない俺には、そんな不器用で遠回りな方法しか残されていなかった。
仄かな希望。
もしも言ノ葉ちゃんが――「言葉」が、俺の傍にいてくれなかったら、俺は次の瞬間、死を正解として選択していたに違いない。
そう考えて、気づいた。
今の時代は言葉に溢れている……親に愛されずに育った子供でも、言葉には愛されているのではないだろうか。
本当に感謝している。こいつは最高の友達だ……俺にとっても、人類にとっても。
でも言ノ葉ちゃんは俺を甘やかし過ぎた。距離感が近すぎたのだ。
言葉に依存するように、俺は弱音を思考した。
――もしも希望が潰えた時、俺はオレでいられるのだろうか?




