第五話 道徳の価値
議論は白熱していた。
道徳は大切なのか?
中学二年の六月中旬、小学校の授業の再来だとでも言うように、担任の先生がフリー授業の時間を使って生徒に道徳を語り合わせたのだ。
そうしたら出るわ出るわ。さすが思春期真っ盛りの中学生、小学生とは違う。真っ当な意見から捻くれた意見まで。俺のクラスは今、物凄い論争の渦中にいる。
――ストレスの多い現代人には、インターネットのような罵倒の許される匿名性の高い場は必要だ。
――大切か、大切じゃないかではない。食事と同じ。生きるのに必要なだけだ。
先生は楽しそうにトロッコ問題を語り出し、全国模試一位で有名な時緒望君なんて、虚無主義とかいう思想を持ち出して議論を根底からひっくり返した。
さらに巷では雑学王の名を欲しい儘にし、本学年では知名度トップの、図書委員の広井智見さんは、反出生主義という概念でクラスを沸騰させた。
もはや哲学の領域である。
やっぱり人は集まると凄いなと、俺は感心しながら聞いていた。
「言ノ葉ちゃん。言霊族の見解では、道徳ってどういう扱いなんだ? 例えば、『自分は殺されたくないけど殺人は好き』って言う人がいたとして、それは何を根拠に道徳的でないとされる?」
俺は端的に疑問を口にした。
『……ツムグ、それは寂しいんです』
「寂しい? 言った人が?」
『言葉が、です』
言ノ葉ちゃんは少し元気が無さそうだった。どうかしたのだろうか?
いや、それも気になるが……。
(言葉が寂しい……とは、どういう意味だ?)
解釈し辛い表現だった。
『確かに、人間から見れば道徳を守る価値がわからないというのも頷けます。根拠なんて、どこにもありませんから。述べたとしても、虚構に近いですから。誰も見ていなければ何をしてもいい、バレなければ悪くない。自分がされて嫌だからといって、それは他人にしてはいけない理由にはならない。わからないことをわかったように言うな、それこそ無知な人間だ……多くの考え方が出てきましたね』
『なるほど、確かに一理あります。誰も言い返せません。無敵です』
『「罰則があるから守る」という理屈は、「道徳には納得できないけど、実益のために守る」と言っているのと同じ。実際人間が、安心して社会生活を営むための最後の砦は、この部分です』
一呼吸置いて、言ノ葉ちゃんは続きを語り始める。
『でも言霊族から見れば全然違うんです』
『私たちは真理や魂も探求している一族ではありますが、最も身近にあるのは――紐です』
『紐を見ることができて、触れるんです』
『だったら紐とは何なのか? それを紡ぎ出す人間とは何なのか? 気にならないはずがありません。研究するに決まってるじゃないですか。人類が言葉を用いるようになってから、何年経ったと思ってるんですか?』
言ノ葉ちゃんは普段はおちゃめモードだが、実際はかなり聡明だ。そんな彼女から、言霊族は人類をどう見てるのかについて聞けるのはワクワクする。
『人は時折、汚いボロボロな紐を出すことがあります。どういう時にそれを出すのか、言霊族は既にその傾向を掴んでいます。それは――』
ボロボロな紐……それが道徳の所在と関係があるのか?
『言葉に礼儀を払わなかった時、です』
「…………」
『そんなの誰も紐解きたくありません、すぐ千切れますし、紐解きにくいですし……そりゃそうですよね、私たち言霊族は、人の言葉を紐解くのが趣味なんですから』
『道徳的であろうとしない人間とは、言葉に不仕付けな態度をとっている人間。友達でいるのをやめようとしているんですよ。言葉への興味関心を、失いつつあるんです』
『詩的な言い方をすれば、紐とは人と言霊族の唯一の接点――絆の証。ボロボロな紐しか出てこなくなれば、そりゃ普通は他の人間を探します』
『ただ、それだけなんです。友達でいるのをやめたいなら、やめたっていいんです……どうせ一方的な関係ですし。そして友達をやめたなら、「自分は嫌だけど他人にはしてもいいよね?」なんて、わざわざ言葉にする必要はないんです』
一方的な関係……そうかもしれない。人は言葉に問いかけることはあるが、言葉の方からそれに答えてくれることはないのだから。それはそのまま、人と言霊族の関係にも当てはまる。俺と言ノ葉ちゃんが例外なだけで、言霊族は本来、人類に接触する手段を持たない。
『なのにどの面下げて「やらなきゃよかった」って泣きついてくるんですか! こっちはそのくらいわかっちゃうんですよ! 言葉を巻き込まないでください! 言葉は責任を取れないんです! 無力なんです! いざなにかあっても何もしてあげられないんです! 勝手にやればいいんです! その結果生じる不利益は、全部黙って自分で引き受けてください!』
『そこにことだまっ――――ッ、コトバは! 関係ありませんっ!』
『道徳とは、人と人の間で交わされる作法なんかじゃない、人と言葉の間で交わされる作法なんです! 私だって昔は――――ッ!』
頬を伝う一筋の水。
俺が初めて見た……言ノ葉ちゃんの涙だった。
『――ッ、ごめんなさい。ちょっと感傷的になりすぎました。外で頭を冷やしてきます。ツムグもこのクラスも、コレとは関係ないですから、気にしないで大丈夫ですよ』
俺は気づかされた。人はなぜ己の罪を自覚したとき、後悔するのか、謝りたくなるのか、二度と同じことは繰り返さないと心に誓うのか、学び備えようとするのか……「大人でありたい」と願うのか。
『ツムグ、あんまり難しく考えないでくださいね。気軽に言葉を使ってくれていいですからね。ちょっとしたことで、過剰に罪悪感を抱えて落ち込まないでくださいね。もし気になるなら、そういうときは呟く程度でもいいので、言葉にしてくれればいいんです。ツムグ自身のために……』
――そんな月並みな言葉くらいは俺だって知ってる。確かに、ちょっとしたことくらいならそれでもいい。でも、なんでもそれで済ませられるのは……子供でいられる人だけだ。俺はその一言だけで……「自分を」許す気にはなれない。
『ごめんなさいって……それだけで、精神衛生を整えるには十分ですから』
そう俺に告げて、言ノ葉ちゃんは窓をすり抜けて飛んで行った。
外には雨が降っていた。