第三話 紡の資格、愛の資格
五歳となった紡は今、父と一緒に線香をあげていた。当然言ノ葉も一緒だ。
母が死んだのだ……交通事故だった。
だが紡は死の概念をまだよくわかっていないようで、父の行動を真似したり、時折葬式の雰囲気を不思議そうに眺めたりしているだけだった。
故に紡は涙を流していない。父も……流していなかった。
一日が終わり、これから就寝しようと布団に入った時、紡はまるで日常の延長かのように父に質問した。
「お父さん、ボクの名前の由来って、何?」
「どうした、急に」
「ようちえんの人が、お父さんとお母さんにきいてきてねって」
「あぁ、なるほど」
妻が亡くなってまだ日も浅いというのに、父はいつも通りの平静な声音で答える。
「紡の名前はな、お父さんが考えたんだ」
「お父さんが?」
「そうだ」
紡の父は、まるでそれがとても大切なことだと言うように告げる。
「繊維に撚りをかけて《糸》を作る……それが、紡ぐという言葉の元々の意味だ。繊維っていうのはな、とっても小さな、元になる材料のこと。目に見えないほどの小さなソレを手繰り寄せて、ねじり合わせて、一本に纏める……」
紡の誕生を祝うために、生を肯定するために、父なりに熟考し結論を出した、その最低条件として、せめてもの慰めとして必要なもの――、
「自分の《意図》を、自分で紡げるようになってほしい……それが、紡という名前の由来だ」
それは紡へ贈られた願いであると同時に、父本人の願いでもあった。
近くで紐解きながら見守っていた言ノ葉は感心した。この紡という名前に込められた意味を思いつくまでに、どれほど言葉と向き合ってきたのかと。糸という言葉に親近感が湧いたのもある。言ノ葉は父のその胸中を汲んで、紡を心の中では「紡」ではなく、「ツムグ」と呼ぶことに決めた。いつか紡が、自分の力で意図を紡げるようになるその日まで。
だが、危うくもあった。
紡という名前に込められた意味が父本人の願いでもあるということは、父はまだ、それを叶えられていないのだ。
「言ノ葉ちゃん、わかる?」
『うーん、ツムグにはまだ難しいかもですね。とりあえず、覚えておいたらいいと思いますよ』
「うん、そうする」
紡と言ノ葉がそんな会話をしていると、父はなんだか難しそうな顔をしながら訊いてきた。
「紡、前から訊きたかったんだが……言ノ葉ちゃんっていうのは、誰のことだ?」
「言ノ葉ちゃんはボクの友達だよ。お父さんは見えないの?」
「……見えないな」
「聞こえないの?」
「……聞こえないな」
『やっぱりツムグだけみたいですね、わかってましたけど』
言ノ葉は父の顔の前で手を振っている。
「もしかしたら、イマジナリーフレンドというやつかもしれないな。いや、だが……」
父は独り言を呟きながら思索に耽り始めた。
――気になりますね、ちょっと紐解いてみましょうか。
言ノ葉は先ほどの一件で紡の父に興味を持った。
己の知的好奇心を満たすため、彼の思考を少し本気で読み取ってみることにした。
しかし、紐解いて出てきた思考はとんでもないものだった。
彼は超常存在の可能性をオカルトとバカにしながらも切って捨てず、「もしも存在したら」という仮説を元に思考を働かせる器量があったのだ。
結果、言ノ葉は自身の存在の危険性に気づいてしまった。
一瞬、紡から離れるべきかと考えた。しかしすぐに思い直す。仮に『忙しくなり会いに来れなくなった』と告げるとしよう。それで離れて、紡は幸せになれるのか?
言ノ葉の見立てでは、この父の精神性は危うい。自分の意図がないのだ。妻の死にそれほど悲しんでいないのだって、そこに起因する。それだけじゃない。これまでずっと紡と一緒にいたのだ。暇つぶしに紐解く機会はいくらでもあった。
父の言葉にはいつも愛がなかった。妻に掛ける言葉にも、紡に掛ける言葉にも、愛はなかった。
形だけの結婚だった。形だけの家族だった。
わかるのだ、「言霊族」には。でも彼を非難する気はない。自己を律する道徳性は持っていたからだ。
人は親であろうと未熟だ、未熟で当然なのだ。人は愛する準備が整ってから子を生むのではない。子育てを通して初めて、愛することを学んでいく者がほとんどだ。
この父は今、成長の途中――成長しようとしている。しかしだからといって、期待通りに事が運ぶとは限らない。
母を失い、父も失う未来が待っているかもしれない。
一応父としての体裁は保とうとしている。約束を守ろうとする人間性も具えている。だからもしも紡が、『言ノ葉のことを語らいたい』と思っているのなら……。
『でも……』
相手の心意気を信じることと、能力を信じることは区別しなければならない。守ろうとする気概はあっても、守れる能力がなければ秘密は漏れてしまう。
特に、精神的な危うさを抱えている紡の父は……そうなってしまう可能性は、ある。
言ノ葉を認識できるのは紡だけ、声を聞けるのも紡だけ。もしも超常の存在が明るみになれば……。
イマジナリーフレンド。
さっき父も言葉にしたように、幼い内は、それで周囲を誤魔化せる。但し他人が超常の存在の確信を得ないように、今後は紡が知り得ない情報などにも、気を配りながら関わっていく必要はあるだろう。
それも今だけだ。どうせ常に一緒にいるのだ。分別がつくようになれば、秘密を徹底させることくらいはできる。そうなれば、もっと自由に色々なことを話してもいいだろう。
愛とは何か。それは自分を知るだけでは片手落ち、外にも目を向けなければならない。己の無知さと向き合う決意を、リスクを許容する覚悟を、抗うことも忘れない直向きさを、それらを全て胸に刻んで、初めて紐に現れる。
――ツムグ、私は貴方のことが大好きです。もっと話したいです。色々な表情を見たいです。成長した姿を見たいです。ずっと貴方の傍にいます……今、決めました。私が原因で貴方が父から受け取れるものが少なくなるとしても、私がそれを埋め合わせします。それ以上のものを与えてみせます。私の存在がツムグを危険に晒すようであれば、離れる覚悟もあります。そもそも危険にならないように、もっと人のことを学びます。だから……。
『愛してます、ツムグ』
寝ている紡に掛けられた、温かい熱を帯びた言葉。それは人の営みにも時折見られる――、
魂の残滓を宿していた。