第十一話 傍観者の流儀
俺は全力で走りながら考えていた。
考えているのは、「自殺をどう止めるか」ではない。その程度のことは既に答えを出している。
言葉。
生を正解だと言うこともできず、死を正解だと言うこともできない。そんな、ただ漠然と生を選択し続けてきた人間が、これから死を選択しようとしている人間に掛けられる言葉……それを今、探している。
探しているのは、傍観者が傍観者のまま語れる言葉。つまり「俺から少女へ」ではなく、「言葉から少女へ」、もしくは「俺から言葉へ」紡がれる言葉でなければならない。
これから自殺をしようとしている人間が、見ず知らずの他人に興味を抱く可能性はほとんどない。ほぼ確実に警戒される。そんな俺が物理的にも心理的にも距離を詰めるのは、逆に相手が覚悟を決めるリスクを高めるだけ。
そもそも俺は『生きてほしい』と告げる資格を持たないのだ。ならば興味を俺という人間ではなく、話の内容そのものに向けさせるのが筋というもの。
だから俺は、何を話すべきかを考える。死を忌避している人間は耳を塞いでも、死を見据えている人間なら、思わず耳にしたくなる話を。
それを推考しようとして俺が考えていたのは――言ノ葉ちゃんから聞いた、「魂の悲鳴」のこと。「甲高い軋音を出せるほどにピンと固く張った紐」のこと。言ノ葉ちゃんはどんな凄腕の言霊族にも紐解けなかったと言っていたが、
――もしも紐解ければ悲鳴は止まるのではないか?
それは論理を超えた、反則的な仮説の立て方だった。正当なプレイを楽しむ者なら試そうとも思わない、ゲームの裏技的な失礼な発想。
きっと言ノ葉ちゃんに出逢えていなかったら、閃けなかっただろう。俺にとっては、超常は常識だったのだから。
それはともかく、言霊族は魂の悲鳴を上げている者の言葉を紐解けたことがない。故に伝えるべき思考がわからないから、俺が代弁してあげることはできない。
なら俺が、俺の力で至るしかない。そして伝えるのだ。
当ては……ある。
俺が人生で、一番努力と時間を費やしてきた分野だから。
言霊族にすら無理と言わしめる超難問に、俺は人の身で後一歩のところまで来ている。
人の真意を読みとるのは、なにも言霊族だけの専売特許ではない。人間は洞察によって心の全容に迫り、言霊族は紐解くことで迫ろうとする。
両者の決定的な違いは、観察の必要性。
言ノ葉ちゃんは俺にベッタリなので参考にならないが、本来言霊族は思考を読むのに観察を必要としない。
なぜなら紐解く方が早いから。
つまり努力次第だが、人の身でも言霊族の境地に至ることは可能なのだ。勿論、一定以上の運や才能も必要だ。誰でも出来るなんて言わない。
俺はずっと人を観察してきた。
観察するだけでは飽き足らず、言ノ葉ちゃんの力も借りて洞察力を磨いてきた。
口癖のように『紐解けました!』口火を切り、我慢できないと言わんばかりに、喜々と俺の潜在的な思考を語り出してくれる彼女の恩恵も大きかった。
それらは全て人を理解し、自身の道徳性を高めるため。
そして、吾を探すため……だった。
俺が長年してきたこと。色々なことを学び、探求してきたが……中でも特に力を入れ、独自に体系化してきたことが、
見えない部分も含めた心の全容――心の法則の定式化だ。
心を把握することで、輪郭をなぞるように己を知れるのではないかと推測したから。魂の領域に、その機能に、辿り着けるかもしれないと思ったから。
そんな俺だからほぼ確信していることがある。
この世には物の法則があるように、心の法則と呼べるものも存在する。二つの法則は別々に存在しているモノだが、一部が重なり合っているからこそ、「脳波と思考の同期」という不思議が観測されるのではないか。
でも、そんな探求にも限界が来た。
物の法則に迫るのに似た困難さが、心の法則にもあった。それがこれまでの努力で、至り得た実感。もうこれ以上は無理だろうと、自分に見切りをつけようと思っていたところだった。『諦めよう』と、『有限性を許容しなければならない』と。
しかし今日、進展があった。
《オレ》はなぜ生まれたのかへの答え。俺はその一本の手掛かりを――「繊維」を握っている。
今回の言ノ葉ちゃんと俺の行動原理。
言ノ葉ちゃんは人類が好きだから。その衝動が、愛したいという域にまで「気が変わった」から。
俺は単に「気が向いた」から。ただそれだけの衝動を、魂の残滓を宿す域にまで昇華させたから。
奇妙な符号の一致。
偶然だと切り捨てるのは簡単だが、その裏に共通項がある可能性も捨てきれない。
いや待てよ……「偶然」?
共通項、無限の可能性への思索……「レア先生」?
『ラベルは飽くまで、一つの視点に過ぎない。多角的な視点を借りて洞察しろ、共通項を洗い出せ。それでも無理なら、出鱈目でもなんでもやってみるしかない』
足を止めて思考を研ぎ澄ます。
――負の絶対温度で魂を燃やせ。
すぐさま一本目の繊維と絡ませて、俺はガチャを引くかのように糸を紡いでみた。
言霊族の間では、言葉の紐は魂から伸びてくると言われている。人の思考は脳波と同期していて、それは紐にも反映される。それは心の領域と魂の領域が、一部重なり合っているということ。物の領域と魂の領域も、一部重なり合っているということ。つまり物の領域とも心の領域とも重なっていない《魂の領域》に、
《気まぐれ》がある?
「気が紛れる」――奇跡的にも、ちょうど今欲しいと思っていた概念。俺は思わずニヒルな笑みを浮かべた。
――「言霊」か。まさか俺の方からではなく、言霊の方から験を担いでくれるとは……中々粋なことをしてくれるじゃないか。ありがとよ。だがお前、やっぱり験担ぎしかできないんじゃないのか?
言葉にできない謎の確信……微かな直感、期待。
でも見くびるなよ。験担ぎ程度で買えるほどオレの魂は安くない。ティッシュの一枚くらいは浮かせるようになってほしいものだ。
再び負の絶対温度で魂を燃やす。
幻触していた、ピンと固く張った紐が弛む。
「……………………………………」
俺は足を動かしながら、紐解きの作業に集中した。
屋上につく。鍵は全部開いていた。あの娘が鍵を閉めていたら、それだけで詰んでいたな。ドアを開く音に気づいたのか、こちらを睨んでいる……強く警戒しているようだ。
――質問はしない、必要ない。
俺はすぐに口を開いて、残酷なシナリオを伝える。
「飛び降り自殺はお勧めしない。あー、死ぬなって言ってるわけじゃないぞ。他人に迷惑をかけるからでもない。飛び降りは苦しみながら死ぬリスクもあるからだ」
物の法則から見た非情な現実。何よりも先に、物理的に苦しむリスクを知っておいて欲しかった。
俺の思考は冷たい。常識的な人間が使う論理じゃないから。飛び降り自殺も、電車を止められるのも、天変地異でも起きて死ねないかなと願われるのも……全部仕方ないと思っている。そもそも今更といった感じなのだ。生きる者が自殺者の身勝手に苦しめられるのは、正解のない世界で、生を正解として選択し続けている者に回ってくる……ツケだと思うから。
そう言葉を紡いで、思う……本当に冷たい思考だなと。こんな俺は、クールでニヒルなおっさんを名乗るのが相応しい。もしも俺が自殺者の身勝手に苦しめられたなら、不幸だなとは思っても、仕方ないかと許容するだろう。傍観者だって、正解のない世界で、生を正解として選択し続けてきた者の一人なのだ。最低でもそれぐらいの覚悟はなければ、こんな論理は許容できない。
それが俺なりの、言葉への礼儀作法のつもりだ――のうのうと傍観者を続けるために。
「ここに来たのは気まぐれだ、気が向いたからだ」
「俺はお前が死んでも悲しまないし、生き続けるとしても喜ばない」
「生きた方が良いなんて言わない。死んだ方が良いとも言わない。正解なんてわからない。俺は俺がどうでもいい思っていることを、他人にさせる気はないからな。俺が今生きているからといって、それをお前にお勧めする行為に意義を感じない。疲れるだけだ」
「お前だって同じはずだ。俺がお前をどう思ってるかなんて、俺が何者かなんて、お前にとってはどうでもいいことだからな。だが――」
生きてほしい? 自殺されると悲しい? 心配だ? 辛かったよな?
……くだらない。
ボクならともかく、オレはそんな言葉を口にしない……『だから何だ』と思ってしまう。
そんな言葉は使えば使うほど、寧ろ笑いがこみ上げてくる……茶番だと。
気が向いたから生きているだけに過ぎないオレは、気が向いたなら死んだっていいだろうとしか言えない。
俺はボクとしてではなく、ボクとオレの二人でここに来た。だから傍観者の流儀でいかせてもらう。
「お前は今、俺の言葉を聞いている。俺への関心はなくとも、言葉にだけは、関心を向けている。今お前の傍にいる、唯一の友達だ」
黙って聞いてくれている……と、思う。ここから先は、死を見据えている人間なら興味を持つであろう話をする。あの娘の心を、紐解く作業に入る。
「お前に面白い話を聞かせてやる」
あの娘の友達は言葉だけ。生に繋ぎ止めているのは言葉だけ。俺だって友達は言葉だけ。ならば言葉を話題の中心にする以外あり得ない……あれ、おかしいな、なんか悲しくなってきた。
「それは――」
どう語り始めれば気を引けるだろうか? うーん……やっぱりあれだな。
「人類史上最も偉大な発明について話をしよう」




