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第十話 非情な熱

 見ず知らずの人間の自殺を止めるのか、止めないのか。探吾紡は言ノ葉の声に耳を傾けつつも、突然降り始めた雨に傘をさしながら、二の足を踏んでいた。


 紡という人間はどこか冷めている。普通なら多少なりとも命を案じるであろうこの切迫した状況で、『まるでトロッコ問題だな』と呑気に構えていた。実際あまり似ているとは言えなかったのだが、答えの出ない問いという意味では同じだった。そう、この世はトロッコ問題と同じ、「正解のない世界」だった。


 だが熱情家はそれに抗う。正解のない世界で、生を正解として選択し続けてきた者――その選択を誇りにしている者。彼ら彼女らは生に本気でありたいからこそ、当事者として答えようとする。切迫すれば「導出」をやめて「決断」する。

 自己を《導入》することで、問題を「解く」のではなく「書き換える」。書き換えられた問題の《帰結》から、逃れられなくなるのだとしても。


 だが冷めた人間にとっては、生は罰ゲーム付きの遊びでしかない。導入は無意味に罪悪感を抱え込むだけの自傷行為に等しい。故にトロッコ問題のような遊びを超えた問題には、傍観者の姿勢を示す。


 探吾紡は傍観者だった。


『ツムグ、お願いします! 周囲を見た感じ、この辺に人気はありません。自殺に気づいているのは私たちだけと考えた方が良いです。私の声や姿は他の人には届きませんから、ツムグが行かなければ、どうにもできないんです!』

「他にも人がいれば俺は止めに行かなくていいのか? 俺しかいなければ俺が行かなければならないのか? 周囲なんて関係ないだろ。俺は今、傍観者でいたい」

『ツムグっ!』

「俺は――――ッ!」


 愛らしい言葉の精霊からのお願い。熱情家や無知で素直な子供なら、自殺を止めに行く理由には充分だろう。だが、紡は熱情家でも子供でもない。「非情な現実」と向き合ってきたからこそ、人の生き死になんてどうでもいいと思っている。


 『生きることが正解だ』なんて言えるはずがない。言葉にその責任を負わせたくない。「道徳的な非情家」が気にすることは、生きるか死ぬかではなく、苦しいか苦しくないかなのだ。楽に死ねるなら、死んで楽になれるなら、生きていても苦しみしかないのなら、死は救いであると考える。身の毛もよだつような痛みに苦しんでいる人がいたとして、そこから救い出すのは不可能だったとして、その人の頭に弾丸を打ち込むのを誰が責められる? 超常的な理屈(・・・・・・)を持ってこない限り、介錯も自殺も人が認めざるを得ない必要な選択肢だろう。


 だが言ノ葉は、『助けてほしい』と言っている。


 彼女を言い訳(・・・)に助けに行くのは容易い。だが彼は、そういう生き方(・・・・・・・)は望んでいない。言葉に責任を持ちたい《ボク》と、傍観者としての極端な冷たさを具えた《オレ》。その二者を抱えているのが探吾紡という人間だった。探吾紡でありたかった。


 紡は言ノ葉のお願いなら大抵のことは叶えたいと思っている。だが、なんでもは叶えない。紡にとって人生は暇つぶし。叶えてあげたいとは思うが、それは暇つぶしの範囲に収まるものだけ。今回のお願いはそれを超えている。見ず知らずの他人の生きるか死ぬかの局面でまでお願いを叶えようとすれば、いくらこの愛らしい精霊のためでも気疲れしてしまうからだ。今日あの自殺志願者を救えたとして、それだけで済むはずがないからだ。


 言ノ葉の人類への愛は変わらない。ネットで自殺の記事を見る度に心を痛めるのか? こんな近くだったなら何かできたかもしれないなと嘆くのか? 確かにボクなら、『彼女に好きと言える自分でありたい』と言うかもしれない。だがそんな理由で無理を続ければ、自身の精神は長くは持たないと自覚していた。父と同じ轍を踏むことはしないと心に決めていた。そのために身の丈に合わない責任感は抱え過ぎないように生きてきた。


 今ボクとして自殺を止めに行くことは、オレを傷つけながら生きると決断するようなもの。


 ボクとオレの強烈な不和。探吾紡として生きるには、そんな矛盾した二者でも共存させなければならない。その折衷案としての、苦渋の宣告。



「俺は、精神を擦り減らしながら生きる気はない」



 ふと気づけば、左肩が雨に当たって濡れていた。アパートでパソコンに向かっている時、言ノ葉がよく座っている場所だった。

 大事な場所を濡らしてしまった。自殺という洒落にならない出来事に、注意散漫になっていたようだ。


『ならどうして留まってるんですか』

「えっ?」


 そこにいるのはフィギュアなどでよく見かける八分の一スケール程の大きさしかない小柄な体躯の人型の少女。艶やかなボブカットの白髪に黒色の瞳(・・・・)、白や黒を基調とした服を好む。無色透明な四枚の羽を背中に携え、幻想的な白く輝く粒子(・・・・・・)を纏い、強い意志を宿した眼差しと声音で紡に話しかけている。

 まるでファンタジーの世界から飛び出してきたかのような、天使のように愛らしい風貌のその少女は、この世に似つかわしくない荘厳さと威厳を具えた神秘的な存在感を放っていた。

 人の言葉を紐と認識している一族で、紐解くことで思考を読み取ることを趣味としている言葉の精霊――通称「言霊族」と呼ばれる、言葉を司る神の末裔がそこにいた。


『精神を擦り減らしながら生きる気はない。それだけなら、既に貴方は踵を返している。紐解いたら「俺は帰る」と出てきたのに、貴方は留まっている。私のご機嫌なんて気にせず、堂々と帰路につけばよかったのに。どうしてですか? 帰らない理由があるんですよね? 本気で紐解いている私に、誤魔化しは効きませんよ。もっともっと紐解いて暴いちゃいますね』

 

 「自殺は遊びじゃない」、「傍観者は生きてほしいと告げる資格を持たない」、「それが礼儀だ」、「そうしないと罪悪感に苦しむ」、「心苦しいが、言ノ葉ちゃんのお願いでもこれは聞けない」、「一度でも聞いてしまったら、二度目はどうする、断るのか?」、「死ぬまで心にもないことを謳い続けるのか?」、「何の意味がある?」、「誰も答えられないだろう、ここは答えの出ない世界なんだ」、「だから暇つぶしで生きてるんだ」、「罰ゲームを強制されるとか、まるで拷問だな」、「あの自殺志願者も、そういう現実に疲れたんだろう」、「楽に生きさせてくれ。それが出来ないなら、自滅するだけだ」、「親父の時と同じだ。俺にはあの少女の意志を尊重してあげることしかできない」、「あの時と違っておおよそ理解はできる。だが、掛ける言葉は今でも見つからない」、「助けるべきだという思いと同じくらい、助けるべきではないという思いがある」、「そもそも俺には力不足だ、何もしてやれない」、「生きようが死のうがどうでもいい……そう思っている俺が、どんな理由であの場所まで行けっていうんだ」…………。


 容赦なく紐解かれていく紡の心。それは表層だけでなく、潜在的な部分まで含んでいた。しかし言葉が少なければ、紐の規模も小さくなる。紐はあっという間に細くなり、もはや生糸の一歩手前の域にまで達していた。

 

『あー、糸がほつれてだんだん細く……もうこれ以上は千切れちゃいます。むぅ…………やった! 紐解けました! めちゃめちゃ細いですけど! 一本だけですけど! 帰らない理由を見つけた!』


 それは先ほどまでの、どの帰る理由にも引けを取らない、強靭さを具えた糸だった。



   「自分を知りたい」



 傘に当たる雨音だけがやけに響く。今後の身の振り方を考える紡と、そんな彼を静かに見つめる言ノ葉。ここまで必死に紐解かれて彼が思い出したのは、昔彼女から教わった、人の言葉の正体だった。


   『人の言葉は一意的に定まるものではない』


 いくら超常の存在に思考を白日の下に晒されようと、それによって魂が――答えが出るわけではないのだ。自分を知りたい? ……だから何だ。そんなありふれた言葉が、今更何の導きになる? それは帰らない理由にはなっても、止めに行く理由にはならない。自分の正体次第で行動が変わる。わからないものはわからないまま。ならば彼女の紐解く行為に、何の意味があるというのか?



 極限の問いに言霊の神は答えない。



 だが、愛はあった。「紡へ」ではない、「見ず知らずの人間へ」の愛が。それだけ言ノ葉は、あの少女を助けたかった。


 つい最近まで紡は、愛とは何かを考えていた。正直に言うと、最初は雲を掴むような概念だと感じた。虚構じゃないかと疑った。当然先人の知恵は借りた。書籍やインターネットの記事も漁りまくった。

 だが他人の言葉には納得出来なかった。『答えはコレです』、『人それぞれ』なんて言葉で誤魔化されるほど、紡はもう素直な子供ではなかった。無知でいられる時代は終わっていた。どれだけ高度な言葉であろうと、それらは説明責任を果たせていないと直感していた。


 学習の奥義は「手掛かりにはするが、決め手にはしない」こと。学習を終えたら、次にやるべきことは探求。「自分が納得できる言葉を得るには、現代の愛にも触れて自分なりに言葉を紡ぐしかない」……そう判断した。

 言葉にすると簡単だが、学習の檻から抜け出すのは容易くない。探求とは試行錯誤の積み重ねであり、常に暗中模索。しっくりくることなんて滅多にない。積んできたものを崩して、またゼロから積み上げるのが常々だ。効率が悪すぎて、湯水のように時間を消費する。真っ当な社会生活は諦めなければならない。贅沢だってできない。おまけに実るかどうかも怪しい。リスクを許容する強い覚悟があって、初めて長きに渡り続けられる。気軽に他人にお勧めはできない。


 紡が選んだやり方は、傾向分析からの洞察だった。多くの創作物に触れ、人はどのような時に愛を言葉にするのか、感じるのか。その前例を集めに集めて考察しまくった。そこから洞察すれば、愛の輪郭をなぞれるのではないかと推察した。非効率だが、現代でしかできない。多角的な視点を借りた強引な手法。共通項の洗い出し。

 長期の時間と労力を必要としたが、奇跡的にもそれは上手くいった。紡はこの時、現代に溢れている言葉に感謝した。圧倒的な情報量がなければ、愛の輪郭を言葉にすることなど自分には無理だろうなと思ったのだ……それでも、その感謝の念は、オレにとっての《意図》たり得なかった。「非情な現実から目を逸らさない」と生きてきた紡だからこそ、肌で感じた。


 この世には想像を絶する痛み、苦しみがある。

 リスクは常につきまとう。

 愛だけでは、「世界は『生』を推奨している」と断言するには力不足だ。

 ……一助にはなるかもしれないが。


 愛に関する格言に、『愛されるよりも愛した方が良い』というのがある。最初の内はよくわからなかったこの言葉だが、今の紡ならその価値を端的に説明できた。


 ――愛を言葉にすることは、魂の残滓を紐に宿すに等しい。それも「質量をエネルギーへ」と変えた結果としての、光や熱でなければならない。言外の概念への変遷。


 そしてどういう人間がそれを紐に宿すのかも、紡はとうに理解している。


 ――自分を知るだけでは片手落ち、外にも目を向けなければならない。己の無知さと向き合う決意を、リスクを許容する覚悟を、抗うことも忘れない直向きさを、それらを全て胸に刻んだ者だけ。



 探吾紡は思考する。


 俺には愛の資格を得るのに最も重要な意図が欠けている。

 俺はオレが何者なのかを知らない。

 何に素直になりたいのかという問いに、答えられない。

 それがわからないから、ずっと吾を探してきた。

 やりたいことを、探し続けてきた。


   生きていればいつか見つかる。


 そんな「仄かな希望」に縋って、今日まで生を選択し続けてきたのが俺だ。

 でもこの生き方は、もう限界まで来ている。

 自分は熱情家には向いてないようだと、確信しつつある。

 それでも方向性を変えなければ生きていけないと、ここ最近ずっと悩んでいる。


   でも他の生き方は思いつかなかった。


 そりゃ思いつかなくて当然だ。塞ぎ込んで当然だ。鬱になる奴もいるだろう。

 「生きていればいつか見つかる」以外の生の方向性を、どうやって見つければいいんだ? あるはずないだろう? それこそが傍観者の最後の砦――故に「希望」と呼ばれる生きる意味なのだから。


 親父はこの壁にぶつかって酒に溺れた。

 子は素直になりたい意図たり得ない――十数年の子育てを通して、それを確信したのだ。身の丈に合わない責任感を抱え過ぎたのもあるが、根本的な原因はそんな心的外圧ではなかった。

 もう疲れたのだ。希望に縋り続ける自分を……忘れたかったんだ。

 我が子を祝うために贈った「紡」という名前は、父の内に住むボクが背負わねばならない呪いの言葉でもあった。


   オレは崖っぷちに立たされていた。


 生きるとは何だ? 人はなぜ生まれる? 俺が立ち止まっているのは? まだ生き続けているのは?


   オレはなぜ生まれた?









   『気が変わったんです』









 紡はふと言ノ葉の言葉を思い出し、ハッとする。


「オレは――――」




   「ボクは言ノ葉ちゃんが大好きだよ」

   『……ついて、ないですよ』


 紡は小学生の頃を……将来の夢の宿題を出された日を思い出す。

 あの嫌な感じを……今でも覚えている。

 今だからこそ言語化できる。

 未熟だったボクはあの日、言ノ葉に――「言葉」に敗北したのだ。

 作文を書かされたのだ。

 それがひどく屈辱だった。

 でもオレは違う。

 未だ将来の夢はない。

 それじゃ勝てない?

 いや、勝てる。





 魂の残滓を紐に宿して。





 紡は大きく息を吸い、ゆっくり吐いた後に、落ち着いた、それでいて誰の文句も受け付けない力強い声音で、オレの一人称の続きを紡ぐ。

 己の無知さと向き合う決意を、リスクを許容する覚悟を、抗うことも忘れない直向きさを、それらを全て胸に刻んで――。


「止めに行く」


 《気が向いた》――ただそれだけの衝動を、魂の残滓を宿す域にまで昇華させた。オレに意図を紡ぐ必要はない、《糸》を紡げればそれでいい。





 駆け出した紡に、言ノ葉はその場に置いてけぼりを食らう。

 不意に雨は止み、雲の隙間から太陽の日が射し、辺り一帯を照らし始めた。

 

『子に独り立ちされた親ってこんな心境なんでしょうか。やっぱりちょっと寂しいですね……「紡」』




   「止めに行く」




 これまで彼の言葉ならなんでも紐解いてきた言ノ葉が、初めて何も紐解けなかった言葉。


 非情な熱(・・・・)を帯びた紐。紐解くもなにもあっという間に焼失(・・・・・・・・・)してしまったソレ。長い言霊生の中で、初めて見る現象。


 駆けていく彼の姿に見惚れていた言ノ葉は、その背に冷たく静かに(・・・・・・)燃えている炎(・・・・・・)を幻視した。




 まるで魂の独壇場だった。




 彼女はどこか寂し気な……しかし、とびきりの笑顔を浮かべて、紡を祝福する。


 ――今だけは、言葉は不要だった。

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