観察日記
職員室で自分の席に着いた途端、小暮茜は未だかつてない緊張感に襲われていた。
小学校六年生の頃の作文コンクールで全校生徒の前で作文を読むべく、順番を待っていた時の非でもない。
受験の合否を確認する時の緊張感よりもずっとずっと上だ。
茜にとって、未体験ゾーンの緊張感で、思わず胃がキリキと痛む。
ただ、そこまで緊張をしてもしかたがないと冷静に分析している自分もいた。
なぜなら、今日から茜は一年七組の担任教師になるのだ。
しかも、この学校に来て二年目で、二十五歳という若さで。
中学一年生という多感な時期の年頃の生徒たち、というだけでも自分で大丈夫なのかと不安でいっぱいなのに……。
そこでふと、茜の脳裏に一週間前の出来事がよみがえった。
校長のあの態度と言動から察するに、一年七組はあまり良いクラスではないのかもしれない。
そこまで考えると、学級崩壊、イジメ、自殺などの物騒な単語が浮かんでくる。
「ダメダメ!」
茜はそう言って頭を左右に振って悪いイメージを追い出す。
今日は記念すべき初担任のおまけに初日。
私が笑顔でいなきゃ、生徒を不安にさせてしまうだけだ。
茜はそう考えて、机の下で拳をぐっと握った。
チャイムが鳴り、茜は一年七組へと向かう。
七組までの道のりが、やけに長い気がした。
ようやく一年七組にたどり着き、ドアの前で大きく三回深呼吸。
私は大丈夫、私は大丈夫、私は大丈夫と呪文のように繰り返し、勢いをつけてドアを開ける。
途端に、教室中の生徒の視線が茜に注がれた。
ああ、みんなちゃんと席に着いてるし、普通の雰囲気の子たちばかりだ。
茜はそう考えて安心し、一歩踏み出す。
次の瞬間。
緊張の糸がぷつりと切れたせいで、何もないところで派手に転んだ。
静かな教室にさらなる重い沈黙。
茜が何事もなかったかのように素早く立ち上がると、一番前の席の女子が立ち上がる。
「先生、大丈夫ですか?」
心配そうな表情でそう聞いてくれたので、「大丈夫。ありがとう」と返すだけで精一杯だった。
「何もないところで転ぶだなんて、とんだドジっ子属性の先生だな」
女子生徒の隣の席の男子生徒が、からかうよう言った。
途端に、教室中にどっと笑いが起こる。
「もー! そういうこと言うのやめなよね!」
先ほど心配してくれた女子がそう言って、男子を睨みつけた。
男子はまったく意に介していない様子だったが、二人の様子は険悪という雰囲気ではない。
いつものやりとり、というふうに茜には見えた。
教壇の上までたどり着いた茜は、ホッと胸をなでおろす。
なんだ、普通のクラスだ。
しかし、そう思おうとした途端に、一週間前の出来事を思い出す。
あの不安な感じとか、実際の校長の態度、口調、そのようなものを総合すると、このクラスは『問題児の集まり』という結論になってしまうのだ。
「気は抜けないな」
茜は小さく呟き、心のざわつきを抑えつける。
突然、一年七組を受け持ってほしいと言われたのは、夏休みが明ける一週間前だった。
校長室に呼ばれ、何事かと思えばそんな話。
茜にとって初めての受け持ちのクラス、これは教師としての本当の第一歩だ。
そう思いたいのに、なぜか校長は椅子ごとこちらに背を向けていて、口調も随分と暗かった。
しかも、新年度ではなく、二学期の途中から担任教師が突然、変わるということは……。
茜は校長に「あの、元の担任の先生は」と口にした。
なぜ、そのようにあやふやな言い方をしたのかというと、一年七組の担任教師がよく思い出せなかったからだ。
休みボケが抜けてないかな、と思っていたら、校長は相変わらずの暗い口調で答えた。
「入院をしているんだ」
「それは、産休ということですか? それとも何か病気で?」
「病気だ。詳細は話せないが……」
「そう、ですか」
茜がそう言って頷いていると、校長は「そういうことで、よろしく頼むよ」と話を終えられしまったのだ。
結局、校長は、一度もこちらを向くことはなかった。
そんなことがあったから、『一年七組は問題児の集団なのでは?』という不安が拭えなかった。
周囲の先生に七組の評判を聞いてみたら、『ああ、あのこと。大丈夫ですよ』とか『え? ああ、まあ、色々とあったらしいわよね』という返事が返ってくるだけ。
それが余計に茜の不安に拍車をかけたのだが、蓋を開けてみれば、それは杞憂だった。
なぜなら、七組の生徒たちはとても素直で良い生徒ばかりだったからだ。
朝のホームルームで『今日から担任になりました小暮茜です』と言うと、一部の男子から『先生彼氏いるのー?』とからかわれたが、これは想定の範囲内だった。
すぐに静かになったし、ホームルームが長引くこともなかったのだ。
茜の担当である英語の授業も、七組の生徒は大人しく、そして積極的に質問をしてくれた。
正直、他のクラスよりもずっと真面目に授業を受けてくれたと茜は思っている。
特に問題の報告はなく、驚くほど平和に初日は過ぎていったのだ。
七組は問題児の集団なんかじゃない。
放課後になり、茜は今日一日を振り返ってそう確信した。
今朝、自分が転んだ時に心配をしてくれた女子は藍沢さん。
彼女は成績も良くスポーツもできて、クラスの人気者でやさしく、美人ときた。
さらに彼女の隣の席の男子、茜を『ドジっ子』呼ばわりしてきた井上も、特段、教師に反抗的だとか問題を起こす生徒ではなく、むしろ優等生側の人間。
その二人だけではなく、他の生徒たちも基本的に優等生とか大人しい生徒ばかり。
「もちろん、これで完全に安心したわけじゃないけど」
茜は帰宅途中、自転車をこぎつつそう独り言を呟く。
元の担任教師が病気になったと言っていたけど、校長が詳細を躊躇したのは精神的に病んでしまったからなのかもしれない。
そうだとしても、その原因があのクラスのせいだなんて校長は一言も言っていない。
茜は自分を納得させるように大きく一つ頷いて、はたと気づく。
今日のことが不安で、昨日は買い物がろくにできていないし、朝もご飯を炊いてきていない。
そう思い出すと急に空腹を感じて、大通りを右折する。
スーパーで惣菜でも買って帰ろう。
茜は腹の虫の音を誤魔化すように、自転車のスピードを上げた。
スーパーでおにぎりとハムカツとイカフライ、それから食後のプリンも購入。
店を出たところで喉の渇きを覚えて、ちょうどそばにあった自動販売機に視線を向ける。
『全品110円』と大きく書かれたシールを見た途端、茜はほぼ無意識のうちにコーヒーを買い、その場で一気に飲み干した。
なんとなくどこからか視線を感じたような気がして、辺りをキョロキョロを見回してみる。
しかし、ちょうどスーパーに入っていく主婦ぐらいしかおらず、おまけにこちらを見ている様子もない。
「気のせいか」と茜は呟いて、駐輪場に止めた自転車にまたがった。
アパートの部屋に帰りつくと、狭い台所でハムカツとイカフライをパックのままレンジで温める。
おにぎりをかじりつつ、ハムカツとイカフライを隣の居間兼寝室まで持っていき、ローテーブルの上に乗せた。
イカフライに醤油をかけつつ、茜は眉間に皺を寄せる。
「このおにぎりの明太子、ちょっとしか入ってないじゃないの」
そう言いながら、残りのおにぎりを食べ終えた。
ハムカツを手で持って食べつつ、台所に移動して冷蔵庫を開ける。
グラスに麦茶を注ぎ、ハムカツで油っぽくなった口を麦茶でリセット。
茜は、二杯目の麦茶をグラスに注ぎながらポツリと呟く。
「栄養が偏ってるなあ。まあ、今日はいいか」
グラスを口につけたところで、茜はぴたりと動きを止める。
視線を感じたのだ。
そんなはずがない、と茜はすぐに頭を左右に振る。
なぜなら、ここは茜が一人で暮らしてる部屋なのだ。
視線を感じるのであれば、それは中に人がいる、ということ。
両親がくるという連絡はなかったし、友人が来る予定もない。
何よりも玄関の鍵はきちんとしまっていたのだ。
そう思って納得しようとするものの、やはりどこからか視線を感じる。
茜は不安を拭うために、トイレやお風呂、押入れの中なども確認したが、誰もいなかった。
安堵のため息をもらし、彼女は麦茶を一口飲んで呟く。
「疲れてるのかな」
そう言って、まだ残っているイカフライに手を伸ばそうとするが。
なんとなく食欲が萎えてしまった。
イカフライは冷蔵庫に入れて、その日は早めに寝るべく風呂へと急いだ。
「先生、これ生活ノートです」
次の日の一時限目の休み時間。
職員室に入ってきた藍沢がクラスの全員分のノートを持って、茜の席にやってきた。
「ああ、生活ノートね」
茜はそう言って藍沢からノートを受け取る。
生活ノートとは、簡単に言えば教師と生徒の一対一の交換日記だ。
生徒は家に帰ってから、この生活ノートに今日あったことや今感じていること、はたまた悩みなんかを書き、それを次の日の朝、日直に提出する。
日直がクラス全員分のノートを集めると、一時限目の休み時間に教師に渡し、教師が帰りのホームルームまでに生徒全員分のノートを見て、すべてにコメントをつけていく。
あらためて考えると大変なことのように思えるが、大抵の生徒が日記と言っても一行、せいぜい長くて三行ほどの短い文章を書くだけなので、目を通すほうのも楽だし、教師側のコメントも短文。
それを知っている茜は、ノートの山を呑気に見上げてから藍沢に聞く。
「そう言えば、藍沢さんって今日は日直じゃないわよね?」
「はい。日直本人はすっかり忘れて本に夢中だったので変わりに私が」
「ええ、そうなの? 今日の日直にはきちんと言っておくわ。ありがとう」
「いいえ。先生のお役に立ててうれしいです」
藍沢はにっこり笑うと「それじゃあ、失礼します」と頭を下げて職員室を出て行った。
小さくなる彼女の姿を見送りつつ、茜は思う。
本当に藍沢さんはよくできた子だ。
「非の打ち所がない、ってああいう子のことよね」
茜はそう言いながら、生活ノートにコメントを書く作業を開始する。
生活ノートには案の定、『疲れた』とか『ゲーム三昧だった』とか『彼氏にフラれてもう嫌だ』とか、短い日記と呼ぶにはほど遠い呟きが書かれてあるだけ。
すべてのノートに赤ペンでコメントを入れていき、ようやく最後の一冊。
そのノートを開き、茜は面食らった。
他の生徒に比べて、随分と長文だったからだ。
内容を読んで、茜は思わず声を上げそうになった。
深呼吸をして、冷静になってもう一度、そこに書かれた内容を読んでみる。
昨日はスーパーで買い物。
明太子おにぎりとイカフライとハムカツを購入する。
家に帰ると、おにぎりを食べながらイカフライとハムカツをパックのままレンジへ。
おにぎりの明太子が少ないのが不満。
イカフライは食べずに風呂に入り、それから歯を磨きながらお笑い番組を観る。
22時には就寝。
茜はごくりと唾を飲み込んだ。
これは、紛れもなく茜の昨夜の行動だった。
スーパーで自分を見かけた生徒がいたとしても、家の中でのことまで見えるわけがない。
その瞬間、昨夜、誰かに見られているような視線を感じたことを思い出す。
だが、すぐに「いやいや」と頭を左右に振る。
きっと自分と同じことをした生徒がいるだけだ。
そうだ、そんな偶然があったんだ。
茜はそう思い直し、この日記を書いた人物が誰なのかを確認する。
ノートの表紙に書かれてあった名前は、藍沢愛奈。
「藍沢さんと気が合うのね」
茜はそう言いながら、『先生も似たような夜を過ごしました』と書こうとしてやめる。
それから少しだけ考えて、こう書いた。
野菜も食べましょう、と。
その日も無事に一日は過ぎた。
七組は特に何も問題もなく、むしろ、もう少し手の焼ける生徒がいてもおかしくないと思えるほどに。
気にかかるのは、藍沢の生活ノートの内容だけだ。
ここまで似ている生活を、年齢も生活環境も違う二人が送るものだろうか。
それを考えると、胸がなんとなくざわつく。
なので、茜は「偶然、偶然」と何度も自分に言い聞かせて、学校を出た。
家に帰ると今日も、狭いアパートでは誰かに見られている感覚がする。
べったりとした張り付くような視線を感じ、茜は窓の外を見た。
このアパートの付近には高い建物はほとんどなく、田園風景と遊具のない狭い公園があるだけだ。
だから、そばの家やビル、マンションなんかから覗かれているというわけではない。
そもそも、それは不可能な環境なのだから。
それに、この視線というのは、遠くから感じるものではない。
すぐそばで見られているような感覚。
だけど、もちろん、このアパートには茜一人きりだ。
「なんか嫌だな」
茜はそう呟いて、勢いよくカーテンを閉めた。
それからスマホと財布と鍵だけ持って、部屋を出る。
今日は実家に泊まろう。
実家でのんびりすれば、疲れも取れて、家族の存在に癒されて、きっと視線なんか感じなくなる。
ただの疲れなら、早めに取るほうがいい。
茜はそう考えて、自転車をこいだ。
今日はアパートに帰ってすぐに実家に戻った。
両親は連絡もなしに帰ってきた娘に驚くものの、母はすき焼きを作ってくれた。
牛肉と豚肉が入っていた。
茜は次の日の午前中、そう書かれたノートを読んで、開いた口がふさがらなかった。
これは自分が書いた日記ではない。
生活ノートなのだ。
持ち主の名前を見ると、藍沢だった。
嫌がらせなのだろうか。
それにしても、なぜ自分の行動が筒抜けなんだろう。
頭を抱えつつ、次の生徒の生活ノートを開いて、余計に混乱した。
内容はこうだ。
お風呂に入ってから、缶ビールを飲んだ。
父は今、禁酒をしているそうなので、父が寝たあとで、一人リビングで。
テレビを観ながら、スマホを確認すると、大学時代の友人から着信があった。
酔いが回って眠くなったので明日かけ直すことにする。
これも、昨夜の茜の行動そのものだった。
この生活ノートの持ち主は、鈴木という男子で大人しく真面目な生徒だと茜は把握している。
「訳がわからない……」
茜は小声でうなりつつ、頭を抱えた。
これは教師イジメなのだろうか。
それにしては、自分の生活を淡々と書かれているだけで、悪口を言われているわけではない。
生活が筒抜けだという不気味さ以外、なにもないのだ。
もちろん、プライベートが生徒に筒抜けで、おまけに生活ノートに書かれるというだけで、十分、不気味で嫌な気持ちなのだが。
茜には、あの生徒たちが、こんな陰湿なイジメをするようなタイプには見えなかった。
もしかしたら、これが生徒たちなりのスキンシップ……なわけないか。
茜はそこまで考えて、大きな大きなため息をついた。
「先生、どうしたんですか?」
そう言われて茜はハッとする。
心配そうな表情でこちらを見ているのは、藍沢だった。
茜は無理やり笑顔をつくり、「ちょっとぼんやりしちゃってたわね」と言う。
今が授業中だということをすっかり忘れていた茜は反省した。
「顔色が悪いですよ。大丈夫なんですか?」
藍沢がそう心配してくれるが、「大丈夫。ありがとう」と返すだけで精一杯だった。
彼女の心配そうな表情。
茜にはそれが演技だとはとても思えなかった。
あれから色々と考えてみたものの、スキンシップとは違う。
そういう爽やかさや明るさはない。
だから、 結局は『担任イジメ』という結論がしっくりきてしまうのだ。
それならば、前の担任が入院した理由は生徒からの陰湿なイジメで、尚且つ、校長が自分のような新人に七組の担任を半ば押し付けるようにしたのも、このクラスに問題があるからだろう。
だけど、決定的な証拠がない限り、生徒たちを責めるわけにはいかないし、決めつけるのも良くない。
そう考えるものの、目の前にきちんと座って真剣に授業を聞いている教え子たちが、どうしても敵のように見えてしまう。
茜はその日、家に帰るとあちこちを探し回った。
棚の上、エアコンの上、カーテンレールなどなど。
「小型のカメラってサスペンスとかのドラマでぬいぐるみの目に隠されてたりするよね」
茜はそう言いながら、棚の上のクマのぬいぐるみを見る。
何も異常はない。
茜が首を傾げていると、スマホが鳴った。
ビクッと飛び上がりそうな勢いで驚き、それからバクバクする心臓で電話をかけてきた相手を確かめる。
スマホの画面に表示された名前にホッと安心して、茜は電話に出た。
「考え過ぎだって」
そう言って爽やかな笑みを見せたのは、大学時代の友人の中倉圭一。
先ほどの電話の相手は中倉で、『近くで飲むから来ない? 奢るよ』なんて言われて茜は彼の指定した居酒屋まで来てしまったのだ。
落ち着いた雰囲気の店で、彼と一対一でたわいもない話をしていると学生時代の楽しい思い出がよみがえってくる。
中倉とは、よくカラオケに行ったりカフェに行ったりと学生時代も何かとつるむことが多かった。
そんな彼も今は、県内の別の中学で英語教師をしている。
だから、茜は思わず今までの、生活ノートのことを中倉に打ち明けたのだ。
誰かに話したかった。
『考え過ぎだよ』と言ってほしかった。
そして、中倉は案の定、笑い飛ばしてくれたのだ。
バカにしているわけではない。
本心でそう言っているのは、よくわかる。
茜は変わらない様子の友人にホッと胸をなでおろす。
中倉は笑みを絶やさないままで続ける。
「大方、小暮の生活を適当に想像して書いたら当たっただけだよ。きっとかまってほしいだけだろ」
「そうだよね、カメラ仕掛けてるかも、なんて考えちゃって」
「そこまでするほど暇な奴はいないよ。しかも不法侵入だなんてリスク犯してまでイジメはしないよ」
「そうだよね。そこまでするメリットないもんね」
「うん。ないない。気にし過ぎだ」
中倉はそこまで言うと、茜の頭を手でぐしゃぐしゃと乱暴に撫でる。
茜の心臓が飛び跳ねて、急激に心拍数が上がった。
中倉も我に返り、「あ、なんかごめん。慣れ慣れしいよな」と苦笑いをして手を引っ込める。
そんなことない、と言おうとしたが言葉にならなかった。
言葉にしたって、迷惑になるだけだと思ったからだ。
大学時代からイケメンぶりでモテた中倉には、すでに彼女がいるだろう。
茜はそう思って、俯く。
「なあ、小暮さ」
しっとりとした声色で言われて、茜は顔を上げる。
中倉はから揚げを箸でつまみながら続けた。
「彼氏って、いる?」
「いないけど」
「そっか」
中倉はそれだ言うと、から揚げを口に入れ、咀嚼して飲み込んでから大きく息を吐いた。
それから茜の顔を真っ直ぐに見つめてこう言う。
「俺も彼女、いない」
「そっか」
「なあ、付き合ってくれない?」
「は? 誰と?」
「俺と」
「どこに?」
「そうじゃなくて! 俺の彼女になってほしいってことだよ」
中倉は、耳まで真っ赤だった。
茜は、目の前の彼を見てようやく今の状況を把握する。
宇宙まで飛んでいきそうなほどに舞い上がる気持ちを抑えるのに必死だった。
茜は中倉に向かって、「私で良ければ」と言うので精一杯だった。
こんなに胸の中が幸福で満たされたのは、随分と久しぶりだ。
次の日、寝不足の体は重いものの、心はふわふわと浮ついていた。
学校へと向かう足取りも軽い、軽い。
茜は今にも歌でも口ずさみそうな勢いで、職員室へと続く廊下を歩く。
「小暮先生、おはようございます」
その声に振り返ると、藍沢が立っていた。
いつもならば、警戒する生徒なのだが、今日の茜は違う。
笑顔の藍沢に、茜はにっこりと優しい笑みを浮かべ、それから言った。
「おはよう、藍沢さん」
藍沢は意味あり気な笑みを浮かべてから、踵を返して廊下を歩いて行ってしまう。
小さくなっていく彼女の姿を見ながら、茜は思う。
もうあんたたちなんか怖くない。
そう思えるのは、中倉が恋人になったから、というシンプルな理由だ。
恋人ができたから強気になれるだなんて、まるで十代みたいだなと自分でも思う。
だけど、中倉という強い味方を得た気分になれるのも確かだった。
それに、もしかしたら今日の生活ノートは何も異常がないかもしれない。
茜はそう考えて、晴れ晴れとした気持ちで職員室へと入った。
一時限目、授業のない茜は職員室で生活ノートを開く。
静かな職員室に、ぱら、とページをめくる音だけが響いた。
ごく当たり障りのない、日記のような愚痴のような短文を読んで、茜はホッとする。
次の生徒のも、その次の生徒のも、生活ノートは何も問題がなかった。
「やっぱり気のせいだったのよ、気のせい」
茜はそう言いながら、残り少なくなった生活ノートを開く。
そこに書いてある文章を読んで、凍りついた。
帰ってすぐに部屋の中をあちこち探し回る。
小型のカメラを探していたら、電話。
近くまで来ているという、大学時代の友人の中倉からの呼び出し。
ブラウスにガウチョパンツと、いつもよりオシャレをして家を出る。
それは、まさしく茜の昨日の行動そのものだった。
この日記の持ち主を確認すると、藍沢。
茜は目の前が真っ暗になりつつも、次の生徒の日記を確認する。
居酒屋で中倉と近況を話し合う。
ビール三杯と焼き鳥、枝豆、揚げ出し豆腐、ポテトサラダ、出汁巻卵を注文。
中倉に告白をされ、快諾する。
22時に居酒屋を二人で手をつないで出た。
そこに書かれてあったのは、昨夜の居酒屋の出来事。
これを書いたのは鈴木で、昨日から藍沢とグルになって茜の行動を監視しているらしい。
恐怖よりも怒りが沸いてきて、最後の生活ノートを開く。
居酒屋を出てから少しだけ散歩をする。
ホテルに入ったのは23時近く。
茜はそこで思わず生活ノートを閉じた。
ノートの持ち主は田中という女子で、彼女も優等生で大人しい生徒だ。
見間違いかと思い、勇気を出して内容をすべて確認。
吐き気がしてきた。
なぜなら、そこには昨夜、ホテルに入ってからの中倉との行為がリアルにそして淡々と書かれてあったからだ。
茜はその場から逃げ出してしまいたい衝動に駆られながらも、脳みそをフル回転させる。
そもそも、自分の部屋や居酒屋はともかく、ホテルでのことがなぜ……。
いや、問題はそこではない。
なぜ、こんなことをするのか。
それがまったくわからないし、身に覚えがない。
茜はしばらく考えてから、顔を上げる。
もう、直接、対決をするしかない。
だけどケンカを売るわけにはいかないし、そんなことをしても火に油を注ぐだけになるだろう。
イジメている生徒は、何を求めているのだろうか。
相手の反応? それともひまつぶし?
ふと、中倉の爽やかな笑みが浮かぶ。
ああ、違う。
茜は急に心が穏やかになり、こう結論を出す。
生徒たちに必要なのは、先生という名の敵なんかじゃないんだ。
帰りのホームルーム。
茜は、クラス全員に対して「今日は大事な話があります」と切り出す。
「どうしたんですか?」
そう言ったのは藍沢だった。
不思議そうな表情をしているのが、茜の心をより一層、苛つかせる。
茜は平常心を心掛け、なるべく穏やかな口調で言う。
「前の担任の先生への生活ノートは、あなた達は、どういうことを書いていたの?」
その言葉に、急に教室中に緊張感が走った。
黙りこんだ生徒達の中で、言葉を発したのは田中だった。
「だって! だってまさか入院するだなんて!」
「入院? 田中さん、どういうことなの?」
「生活ノートに少し、イタズラをしただけです……」
すると、その隣の男子も絞り出すような声で言う。
「『やめろ』とか『授業がつまらない』とか、そういうこと書いただけなのに」
「それが本心ならいいのよ? だけど、先生に嫌がらせしてやろうって気持ちで書くのは良くないわよ」
諭すように茜が言うと、「私はやめようって言ったのに、藍沢さんが」と一人の女子生徒が発言する。
途端に、クラス中の視線が藍沢に注がれた。
そして、堰を切るようにして藍沢以外の生徒たちが騒ぎ出す。
「そうだよ! 元はと言えば藍沢が先生をイジメてやろうなんて言い出すからだろ!」
「反対したら、『あんた、先生の味方なの?』って脅してくるし!」
「藍沢、普段はいい子に振る舞うの得意だから、俺らのせいにして自分は『無理に参加させられた』とか逃げるつもりだったんだろ」
「本当よね。ありえない。退屈だから先生をイジメるって発想もどうかしてるわよ」
生徒たちの非難を浴び、藍沢も俯いていた。
茜は彼女の目から大粒の涙がこぼれているのを見て、教壇を降りる。
そして、藍沢の席の前に立った。
「何か、辛いことでもあるの?」
茜はなるべくやさしい口調で問いかけてみた。
黙って頭を左右に振る藍沢に、さらに茜は聞いてみる。
「家とか学校とか、何か不満なの? それとも嫌なことがあるの?」
「ありません」
蚊の鳴くような声で、藍沢が答えた。
顔を上げた彼女は茜を睨んでいる。
しかし、その瞳には『助けて』と書いてあるようにも見えた。
茜は「そう」と頷くと、穏やかな口調で言う。
「ここでは言えないわよね。何か話す気になったら先生に言って。二人きりで話せる場所を用意するから」
「説教する気?」
鼻で笑う藍沢に、茜はにっこり笑って言う。
「違うよわ。私は、あなたの味方よ」
茜の言葉に、藍沢が驚いたような顔をする。
そして茜は、クラス中を見回して、それから続けた。
「私は一年七組全員の味方よ」
次の瞬間、泣き声が聞こえた。
田中が両手で顔を覆って泣いているのだ。
「ごめんなさい、ごめんなさい」と呪文のように繰り返している。
茜はそんな田中の肩にやさしく肩を乗せ、「いいのよ」と呟いた。
教室中はしんと静まり返り、他の何人かの女子のすすり泣くような声が聞こえた。
藍沢は俯いたままだったが、その肩は小刻みに震えている。
大丈夫、と茜は確信し、息を吐く。
長いホームルームが終わった。
茜はアパートの自分の部屋に戻ると、リビング兼寝室に流れ込むように寝転んだ。
体は疲れたものの、心は達成感で満たされていた。
藍沢含め、クラスメイトたちの説得に成功したと確信していたからだ。
前の担任にだって、別に本気でイジメようと思っていたわけではなく、『まさかここまで事が大きくなると思わなかった』とやり過ぎを認めていた。
藍沢が主犯格で動いているにしても、藍沢自身も茜には本気で悪い生徒には思えなかった。
だからきっと、かまってほしい、こちらを見てほしいという気持ちが暴走しただけだ。
茜はそう考える。
そして、何よりも今日のホームルームはうまくいった。
もう明日からは何もないと思う。
ただ、疑問なのは自分の行動が筒抜けだった理由だ。
色々と考えてみるがわからない。
とにかく、明日の生徒たちの反省度合いを見て、それから聞き出せばいい。
そんなことを考えていると、スマホから聞き慣れた音が。
中倉からの電話だった。
高鳴る胸を抑えて、平静を装って通話ボタンを押す。
「はい。もしもし」
『もしもし。今日、会えない?』
「いいけど、明日も学校なんじゃない?」
『それは茜も同じだろう? いや、ちょっとカレー作り過ぎちゃって』
「主婦みたいね」
茜が笑うと、電話口からも笑い声が聞こえてくる。
『俺のアパートに来てくれれば、美味いカレーをごちそうするよ』
「へえ。料理得意なのね」
『ああ、一人暮らしをしてから趣味なんだよ。彼女は無料で食べられるぞ』
中倉の言葉、「彼女」と茜は呟き、頬がにやけてしまう。
「すぐに準備するよ」
茜はそう言うと、電話を切り、勢いよく立ち上がる。
次の日の朝。
ホームルームのため、一年七組の教室に入るなり、クラス全員が立ち上がる。
何事かと立ち止まる茜に、藍沢が言う。
「ごめんなさい」
頭を深々と下げると藍沢に続き、他の生徒たちも「ごめんなさい」と頭を下げていく。
「え? なに? みんなどうしちゃったの?」
茜がうろたえながら言うと、藍沢が顔を上げて口を開く。
「私、先生のことは信じられるって思えました。あんなことをしたのに、怒らずに味方だって言ってくれるなんて思わなくて」
すると、「あたしも」と「俺も」と生徒たちが口々に言う。
教え子たちの屈託のない笑顔に、茜は胸がいっぱいになる。
「だから今日は、生活ノート、普通に書いてきました」
藍沢の言葉を筆頭にクラス全員が机の上に生活ノートを出す。
そして、まるで号令でもかかったかのように教卓の上に生活ノートを置いていく。
みるみるうちに山積みになっていく生活ノートに、茜はごくりと生唾を飲み込む。
「読んでみてよ! 傑作なんだから!」
誰かの声に、茜が生徒たちの顔を見ると、みんなニコニコしている。
茜は、その場で一番上の生活ノートを開く。
そこにはこう書かれてあった。
昨晩はカレーでした。
昨日から付き合い始めた彼氏の手作りです。
隠し味はチョコレート。
「お店が開けるよ!」と言ったら、彼氏は照れたように笑いました。
「これ……」
茜はもう一度、その日記を読み返す。
やはり書いてある内容は変わらない。
これは、昨晩の茜の行動そのものだ。
だが、茜はこれだけでは怯まない。
もしかしたら、まだ反抗的な生徒がいるのかもしれない。
自分の行動をどうやって知ったかはわからないが、ともかく、一人くらいはしかがないと考えた。
しかし、茜の考えは甘かった。
次の生活ノートも、その次の生活ノートも生徒自身の日記ではなかったのだ。
すべて茜の行動だ。
茜の昨日、家に帰ってから朝、学校にくるまでの行動が、克明に記されてあった。
バカにするわけでもなく、ただ淡々と、書かれてあるだけ。
それでも、不気味なほどに茜の行動は正確に生活ノートに書かれてある。
震える手で、目の前が真っ暗になりながら、最後の生活ノートの一冊を手に取った。
持ち主は藍沢だ。
恐る恐るページを開く。
小さく深呼吸をしてから、内容を確認。
今日、クラス全員が生活ノートに自分の日記ではなく、小暮先生のプライベートを書いたので
先生はショックで倒れてしまいました。
英語の授業はしばらくお休みです。
最初、何のことなのかわからなかった。
それでも藍沢が何一つ反省していないことだけは理解できる。
茜が顔を上げると、クラス全員がニヤニヤしながら彼女の顔を見ていた。
昨日の反省した様子も、謝ったのも、演技だったの?
茜はそう確信した途端、急に酷い眩暈に襲われた。
かすんでいく視界に、藍沢の不気味な笑みが見えた。
目を覚ますと見知らぬ天井が視界に入る。
辺りを確認すると、どうやらここは病院のベッドのようだった。
「あれ、私なんでここに」
そう呟いた途端、「小暮先生、おかげんはいかがですか?」と言って病室へ入ってきたのは、校長だった。
「あの、私……」
「廊下で倒れられて、意識不明で救急車で運ばれたんですよ。覚えていませんか?」
「いいえ。覚えていません」
「さっき、担当医の方に聞いた話ですと、検査の結果、体に異常はないようです。良かったですねえ」
校長がそう言ってニコニコしながら袋から何かを取り出し、「これ、おいしいどら焼きです」とベッドのサイドテーブルの上に置いた。
茜は今朝のことを思い出し、校長に聞いてみる。
「あの、七組の生徒たちは、どうしてます?」
「七組?」
「ええ、一年七組」
茜がそう言うと、校長は眉間に皺を寄せる。
それから彼は心配そうな表情と声音で言う。
「あの、我が中学には一年生は六クラスまでです」
「え? そんな!」
「一年七組は存在しないんです。今は」
「今は?」
茜の言葉に、校長は深いため息をついて言う。
「実は、十年前に我が中学の社会科見学でバスが崖から転落した事故がありました」
「他のクラスのバスは無事でしたが、七組のバスだけが崖から転落し、乗っていた生徒は全員死亡したんです」
「え……」
「その事故のあとに、わが校では『七組の幽霊が出る』だとか『七組の教室があった』だとか、そんなタチの悪い噂が広がりましてね」
校長は窓の外に視線を向ける。
茜はまだ信じられない気持ちがいっぱいで、こう聞くだけで精一杯だった。
「藍沢という生徒っていました?」
「え? ああ、いましたよ。勉強もスポーツもできる将来有望な女子生徒だったと聞きいたことがあります」
校長はそこで言葉を切り、続ける。
「十三歳で亡くなるだなんて、皮肉なものですね」
「亡くなった……」
茜はそう呟き、ふと視線を感じて振り返る。
背後の窓には、びっしりと顔が張り付いていたのだ。
叫び声を上げて、「校長先生、」と慌てて校長のほうを見ると、既に校長はいなかった。
代わりに椅子に座っていたのは、藍沢だった。
茜は声も出ないほど驚いて、後ずさりをする。
必死にナースコールに手を伸ばした茜の手を、藍沢が冷たく細い手でつかんだ。
「先生、早く七組に戻って来てくださいね」
そう言って笑った藍沢の額から、赤い血がツーと垂れた。