第七話 少しの希望
自分が異世界に迷い込んだ。
その可能性については、幸樹はずっと考えていた。空から見た風景があまりにも自分の知っている世界とは違っていた。いや、あの時点では、世界の辺境地域を飛行している可能性もあった。
しかし、どちらにせよ。自分の身に何か不思議なことが起こった。あの黒い雲に突入したせいで、謎の場所に飛ばされた。それは事実だとして受け入れていた。……認めたくはなかったが。
地上に降りてから、ここが異世界だというおそれが強くなった。やはり決定打となったのは、魔法の存在。謎の現象を目の当たりにして、それが魔法によるものだと、すっかりと受け止めていた。事前に、シエルとそうした話をしていたおかげもあるだろう。もし、いきなり精霊様の奇跡とやらを見せられていたら、真っ先に何かのトリックを疑ったに違いない。
とにかく、幸樹は今自分が異世界にいる、ということを事実として受け入れることにした。色々な疑問が浮かんだが、どれも口にしなかった。それはあの場所が聖堂という神聖な空間で、礼拝というこれまた厳粛な(実際にはそうではなかったが)儀礼が行われていることが、彼を躊躇わせた。
結局幸樹が呆然としている内に、また聖堂は穏やかな時を取り戻した。祈りを捧げる時間が始まって、彼は完全にシエルと話すきっかけを失った。
それも終わり、姫巫女様一行が聖堂を後にする。礼拝の時間は終わりを迎えた。再び、室内は騒然とした空気に包まれる。
早速幸樹はシエルに話しかけようとしたが――
「じゃ、戻ろっか。これからのことについて、そろそろ本格的に話し合わなきゃ出しね」
幸樹を制するように、シエルが言ってきた。出鼻をくじかれた彼は、早く話が聞きたい気持ちを抑え込みながら頷いた。
それぞれの居場所に戻る人並みに紛れて、二人は聖堂を出た。そして、どこか賑やかな雰囲気の感じながら、シエルの部屋まで戻ってきた。
「さあ、座って?」
部屋の主に促され、幸樹はテーブルに座った。しかし、シエルはすぐに向かいには座らない。ティーカップとポッドを交互に見比べると、「喉乾いたよね?」と有無を言わさない感じで畳みかけてきた。
そうなると彼としては、カップの残りを呑むほかなかった。口に含んだ液体はすっかりと冷めきっている。飲み込むと、その後味はとても苦々しかった。
すかさず空になったカップに、彼女はポッドの中身を注いだ。なみなみとした高さになる頃には、注ぎ口からは水滴が零れるようになっていた。
「なに?」
「いえ、別に……」
恨みがましく睨んでみたものの、幸樹は全く相手にされないのだった。
「さて、そろそろ本題に入ろうか」
向かい側に腰かけながら、シエルは軽く切り出してきた。
「これからどうしよっか? とりあえず、グライダー……だっけ? あの空飛ぶ乗り物についての話を――」
「待て待て、ちょっと待ってくれ! その話の前に、さっきのことについて確認したいんだけど」
慌てて幸樹は話を遮った。
「礼拝? それとも風の精霊様のこと? あっ! 魔法のことか!」
シエルは一瞬顔を曇らせたが、すぐにはっとした。
「それもそうだけど、まず、異世界だなんだっていう……」
どう言ったらわからず、幸樹は少ししどろもどろになった。
「あれ、違った? キミはこことは違う世界から来た人だと思ったんだけどなぁ」
シエルは目を丸くしながら、不思議そうに首を傾げた。
「たぶんそれはそうだと思うんだけど……でも、シエルはどうしてわかったんだ?」
「だってこの世界に空を飛ぶ乗り物はないもん」
ニホンという国はわからないけど、と彼女は悪戯っぽく彼女は付け加える。
「そうか。この世界には、飛行機はないのか……」
彼は自分に言い聞かせるように呟いた。
「ま、それだけじゃないけどね。キミの話を聞いていて、早い段階から違う世界から来たんじゃないかとは疑ってたもの」
「……でも、王様も大臣も兵士も、ろくに俺の話を信じちゃいなかったぞ?」
「ああ、それは仕方ないよ。魔法という不思議な概念は広く認識されてるけどさ、それでも信じられないこともあるんだよ。あたし――魔法使いだったら、この世界とは違う世界があるって知ってるから、その可能性に行きつくけどね」
それは少しだけ誇らしげな言い方だった。
「でもコーキが今やらないといけないのは、周囲にグライダーが飛べることを証明することだよ。死んじゃったら元も子もないからね」
「死ぬって……そうか、できなかったら、死刑、だもんな。忘れてたわけじゃないけど。……あれは本気なのかな?」
「さあ、どうだろう。あれでいて、厳格なところもあるからな~」
シエルは飄々とした笑みを浮かべた。
あれでいて、というが、幸樹の目にはひたすらに苛烈な人物に見えていた。思わず、彼は渋面を作った。
「ほらほら、そんなことより、あの空飛ぶ乗り物について教えてよ~。あれ、どうやったら飛ぶの?」
シエルは興味津々と言った様子で畳みかけてきた。
「どうやって、って……」
幸樹はたちまち答えあぐねてしまった。
改めて異世界に暮らす女性の顔を見つめ直す。自分の持つ知識が果たしてどこまで通じるのか。彼には全く自信がなかった。
無論、新歓活動などで、グライダーが飛ぶ仕組みは何度も説明してきた。この航空機は飛行、というよりむしろ、滑空すると言い方の方がしっくりくる。空をただただ進み続ける。自発的に高度を上げることはできない。何らかの要因で高いところまで上がったら、高度を消費しながら進むだけ。
こういう説明をすれば、たいていの新入生――グライダーを知らない人は納得してくれる。それはなにより、彼らが思い浮かべる飛行機像――大抵は旅客機――を持っていて、それと比較することによって理解するからだ。
だが――
「シエル。改めて聞くけど、この世界には飛行機は無いんだよな?」
「うん」
「じゃあ紙飛行機も」
「カミヒコーキ? ――ああ、紙で飛行機とやらを作るのね! もしかして、あれも紙でできてるの!?」
そんなトンデモな発想をぶつけられて、幸樹は顔を歪めながらかぶりを振った。これはなかなか骨が折れそうだ、と力なく天井を見上げるのだった。
扉をノックする音がしたのは、三回目の揚力の説明をし終えた頃だった。その音を聞きつけたシエルは、助かったという風に嬉しそうな顔をして、素早くドアの方に逃げていった。
その主は、城のメイドだった。夕飯の支度が整ったからシエルに声を掛けに来たのだ、と言った。
「もうそんな時間?」
「はい、シエルさん」
全くの無表情を貫くメイドに、幸樹はプロフェッショナルを感じた。
「ありがと。――ねえ、あの人のことは何か聞いてる?」
シエルは気遣うように、幸樹の方を窺った。
「王様の命により、彼の分も用意してあります」
「ですってよ、コーキ? あたしとしては、このままヨーリョクの話を聞き続けてもいいんだけど」
「いいよ、もう。うまい説明をまた考えておくから」
幸樹は顔の前で手を振った。少しうんざりしていた。同じ話を繰り返しているのは、彼女に理解力ではなく、自分に問題があることはわかっていたからだ。揚力について、彼自身深く理解しているわけではなかった。文系であることにかまけてきたのをちょっとだけ後悔した。
それに空腹感は感じていた。開け放たれた扉から、香ばしい匂いがやってきて、尚更それを意識していた。
「じゃあ今から運んできてもらえるかしら」
「かしこまりました」
全く音を立てずに、メイドは部屋を出て行った。去っていく足音すらも聞こえなかった。
間もなくして、折り畳み式のテーブルが部屋の中に持ち込まれた。運んできたのは、彼を拘束した二人組だった。若い方――セザールは出て行く時に幸樹の方を一睨みした。
入れ替わるようにして、先ほど来たメイドがワゴンと共に現れる。用意されたばかりの机の上に料理を並べていく。メインディッシュは肉料理。そこにパンとスープ、おまけにサラダがついて、となかなかに立派なメニューだった。
「失礼いたします」
最後にグラスに水を注いで、彼女は部屋を出て行った。どこまでも滑らかな所作に、幸樹は少し見入ってしまっていた。
「じゃあ食べよっか」
「ああ。……でもいいのかな、こんな」
「おじさまも客人として扱うつもりなんだよ。いらないなら、あたし食べるけど」
「厚意に甘えさせてもらうから――いただきます」
手を合わせてから、幸樹はナイフとフォークに手を伸ばした。淀みない手つきで、肉を切り分けていく。
そんな異国人の姿を、シエルは驚きとともに見つめていた。
「なんだよ?」
「いや、さっきのなにかなって? イタダキマス、とかいうやつ」
「……俺の国でのマナーみたいなもんだ」
そっか、とシエルは笑うと、幸樹の真似をする。
その姿を見ていると、幸樹は自分の気持ちが穏やかになるのを感じた。異世界に来た。それは紛れもない事実。どうなるのか、という不安は未だ胸で渦巻いているが、なるようにしかならないか、と少しだけ気持ちが軽くなるのだった――