第五話 聞いたことのない地理情報
次に幸樹が案内されたのは、小さな一人部屋だった。玉座の間を出ると、通路が外周を取り囲むように巡ら冴えていた。その一角に、この部屋はあった。
幸樹は一人、丸テーブルについていた。向かい合う席は空。軽い緊張を感じながら、彼はぴんと背筋を伸ばして座っていた。
部屋の主は勤勉なのだろうか。壁沿いには、本のいっぱいに詰まった本棚がぎっしりと並んでいる。背表紙を見ても、内容は想像できなかった。
入口正面と左手の壁には、それぞれ一つずつアーチ状の大きな窓があり、正面の方の下には書斎机。その机上はごちゃごちゃと物が散ぜんと。持ち主にはずぼらなところがある、幸樹はそう思った。
ともかく、ここはいたって普通の私室だった。特段不思議なものは見当たらない。強いてあげれば、部屋の片隅にある鏡台だ。だが、それは男の彼にとって縁遠いだけであった。
居心地の悪さを感じながらじっと待っていると、ようやく部屋の主――シエルが戻ってきた。扉がゆっくりと開いて、彼女が姿を現す。その手に持つ銀のトレイの上には、ティーカップが二つ載っている。中央には細長のポッド。
「ハーブティーでよかったかしら?」
「いえ、そんなお気遣いなく……」
「固いわね」
カップをテーブルに置きながら、シエルはそう呟いた。
「……はい?」
「キミ、今いくつ?」
「二十一ですけど」
「と、年上だったの……全然、そんな風に見えなかった」
彼女は目を丸くした。そして、何度か瞬きを繰り返す。口をあんぐりと開けて、軽くその頭を横に振った。
聞けば、この少女は十八だという。高校生か、大学生か。……そんな施設がこの場所にあればの話だが。なんにせよ、堂々とした女性が実は年下だと知って、幸樹としては少し気が楽になった。
「ともかく。もう少しフランクにいかない?」
シエルは気安い笑みを浮かべて、肩を竦めた。
「ああ、わかった」
幸樹は軽く頷いた。
「それで、キミはどこから来たんだっけ? 空を飛んでたら、いつの間にかこの辺りにいた、みたいなことを言ってたけど」
シエルは割と詳細に、玉座の間でのやり取りを聞いていたらしい。
「…………日本だ」
一瞬、幸樹はより具体的な地名を挙げようかと逡巡した。だが結局、彼は国名を告げることにした。どうせ伝わらないと思った。
この女性は、一見すると外国人風。その割に意思疎通ができることは置いておこう。ただ、それは決して日本に明るいからではないと、彼は直感していた。
幸樹はじっとシエルの奇麗な顔を見つめた。長い睫毛がぱちぱちと動く。やがてその顔がしかめ面に代わっていく。困惑しているといって、差支えがなさそうだ。
「聞いたことない?」
こくりと、至極真面目な顔をしてシエルは頷いた。
「ニホン……だっけ? まったく。それはどこにあるの?」
今度困り顔になるのは、幸樹の番だった。自分の国がどこにあるか。そんなことを聞かれたのは初めてのことだった。中学で学んだ知識を活用すれば、北緯40°東経135゜の辺りか? だが、それは彼女の求める答えではないだろう。
「地図はないか?」
腕組みをしながら、苦々しく彼はシエルに尋ねる。
「地図……? ま、いっか。ちょっと待ってね」
なぜか彼女はちょっとだけ躊躇う様子を見せた。けれどすぐに、眉間に軽く皺を寄せ釈然としない表情のままに立ち上がる。そのまま書斎机の方に近づくと、がさごそと、やや荒い手つきで机上の物を掻き分けていく。
やがて、筒状に丸まった紙を手にして戻ってきた。灯台もと暗し。それは、机の脇にあったのだった。シエルが呆れたようにかぶりを振るのを、彼は見逃さなかった。
そんなみっともないところを披露したのにも関わらず、彼女は平然とした手つきで紙をテーブルに広げた。やや古びているが、紙面いっぱいに地形図が書き込まれていた。
「これは?」
「地図よ」
何をバカなことをという風に、彼女はふんと鼻を鳴らした。
幸樹は、不機嫌な少女の顔から視線を外した。やや気乗りしないままに、彼女が用意してくれた地図に目をやった。
それは、大陸の一部を切り取っているようだった。海らしきブブは見当たらない。縮尺はかなり大きかった。
周縁部には山が連なっていた。空から見た風景が、彼御頭の中に浮かんだ。中央よりも少し北の位置には、城らしいマーク。王都なのだろうか。他にも、いくつかの村が点々と存在しているのがわかる。
全体として平原が多く、少し離れたところには深い森が広がっているようだった。空から見たあの大きな川は、蛇行しながらずっと下の方まで脈々と流れているらしい。少し先のところで大きく二股に分かれている。
確かにこれは地図だ。まごうことなく、幸樹が彼女に要求したもの。しかし、これでは日本がどこにあるのかなんて、説明のしようがなかった。たぶん一国しか示されていない。きっと、この国――ボワトン王国という場所の者だろう。
彼は一つのことを疑問に思った。果たして、この国こそどこにあるのだろう? 全く聞き覚えはないし、こうして地図を見たところで全く察しがつかない。
堪らず渋面を作って、彼は顔を上げた。不思議そうに様子を見守っていたシエルと、ばっちり目が合った。
「もっと大きなもの……それこそ、世界地図とかは?」
「世界地図……つまり、もっと広域のものをよこせ、って?」
「ああ」
回りくどいなと思いながら、幸樹は素っ気なく言葉を返した。
すると、先ほどとは違い、シエルはすぐには動き出そうとしなかった。さっきよりも長い間、何かを考え込む。頬を膨らませたり、戻したりを繰り返す。今までの大人びた彼女の雰囲気には不釣り合いな仕草だと、幸樹は感じた。
「ないよ、そんなの」
「……は?」
「だって、この地図で事足りるもの。ピンと来てないようだから、この辺りの地理のことを軽く説明しておくね」
彼女は一つ咳払いをすると、ちょっと得意げな顔で詳細な説明をし始めた。
このボワトン王国は三国に囲まれている。北東部にエクレール、北西部はニュアージュ――この二つは幸樹もすでに聞き覚えのある名前だった。そして、プリュイという国が残る南部分を統治。この大陸には他にも大小様々な国家が存在するが、ボワトン王国と国交があるのは隣接するこの三国だけ。その三国にしても、活発な交流があるわけではない。
「ご覧の通り、国境沿いは険しい山脈が連なってるでしょ。なかなか他国に行く、ということはないのよねぇ。その必要性もあんまりないし」
シエルは地図上の国の縁を一指し指で軽くなぞった。そして顔の前にその指を持ってくると、ふっと息を吹きかけた。幸樹の目にはどこか退屈そうに映った。
「この国の中で全部完結するから、国内の地図だけあれば十分だ、と?」
「そーゆーこと! なかなか察しがいいじゃない、コーキ!」
ニヤッと笑うと、シエルはカップを持ち上げた。
「ま、あたし的には世界の全容について興味はあるけどね~。ニホン……だっけ。そんな国があるなんて今の今まで知らなかったし。やっぱり魔法使いとしては、色々なことを知っておかないとさぁ」
ことりと彼女はカップを置いた。
魔法使い……幸樹はその言葉を耳にして顔を曇らせた。このご時世に魔法だなんてあり得ない。そんなものの存在を信じているのは、子供くらいなものだろう。その子供たちにしたって、意外とシビアなところがあるから、一概にはなんとも言い難いが。
しかし目の前の分別のありそうな女性は、自らを魔法使いと呼ぶ。それはあの玉座の間に置いて、何の疑問もなく受け止められていた。
平時ならば、幸樹は決してその事実を受け入れはしないだろう。担がれている、と感じる。あるいは、ちょっと頭のおかしな人だと考える。
しかし――
ここに来てから――あの雲に突っ込んだ後から、幸樹の見聞きしたあらゆる物事が、彼の持ち合わせる常識を粉々に砕いていた。魔法使い……ひいては魔法の存在を、今の彼は容認しつつある。
とても信じがたい結論が、彼の頭の中に渦巻いていた。それはこの彼女の話を聞いてから、より勢力を強めていた。
聞き覚えのない地名――それは不勉強なだけ。中世じみた格好をした人々と王様――世界は広いのだからそうした風土が残っていてもおかしくはない。気づいたら見知らぬ場所を飛んでいた――風で大きく流された。
気になることに、こうして無理矢理に説明を付けることはできる。だがそのすべてが苦しいものだとは、幸樹自身にもよくわかっていた。
すべてに説明を付ける、答えが一つだけあった。しかしそれは突拍子のないものだ。認めてしまえば、更なる絶望に襲われることはわかってる。だから、あんまり考えないようにしていた。
しかし、今目の前にその答えを示してくれそうな人物がいる。幸樹はその顔を見つめながら、息を呑んだ。これはもう避けられないことだ――
「どしたの、黙り込んじゃって?」
「……あのさ、おかしなことを頼むようだけど」
「だいじょぶ、だいじょぶ。キミの今までの発言の大部分がおかしかったから」
アハハ、とシエルは茶化すように笑った。しかし、幸樹にはそれに反応する余裕はなかった。口を一文字に結んだまま、荒々しく鼻から息を吐く。
客人のそんな様子に気付いたシエルは、一転その笑顔を引っ込めた。真面目な顔に戻ると、今度は優しい口調で続きを促す。
「どうぞ、なんでも言って。あたしにできることならば応える」
「魔法を、見せて欲しいんだ」
「魔法を?」
シエルはキョトンとした表情で首を傾げた。
幸樹はこくりと深く頷いた。魔法――論理的に説明がつかない超常現象が起これば、彼としても、今頭にある結論を受け入れざるを得ない。むしろ、いっそのこと諦めがつくとさえ思った。
魔法使いは、ふぅと一つ息を吐くと、勢いよく立ち上がった。テーブルの上のカップの中身が揺れる。殊勝な顔をしながら、彼女は幸樹の側を数歩離れた。
「……やっぱりそうなるよね。いいよ、見せたげる。派手なものは無理だけど」
するとシエルは不敵な笑みを浮かべて、胸の前で両手を組み合わせた。その口から小さな呟きが零れるが、幸樹の耳には届かなかった。
「お見せしましょう。王宮お抱えの魔法使い様の実力を――」
シエルは大きく目を見開くと、ぐっと息を吸い込んだが――
ゴーン、ゴーン、ゴーン!
低く重厚な鐘の音がどこからか響き渡ってきた。空気が激しく振動する。その音色は深く幸樹の身体に染み渡っていった。
シエルはびくりと身体を大きく震わせた。そして、その動きがぴたりと止まる。虚を突かれたような顔でまばたきを繰り返す。
やがてやる気を削がれたように、不服そうに唇を尖らせて、がっくりと肩を落とした。はぁ、とため息までその口から漏れる。
「あらら、礼拝の時間だ」
「レイハイ?」
「うん。――キミも来る?」
「いや、俺は――」
「もしかしたら、キミの中のある疑いが解消するかもね」
シエルは悪戯っぽく笑って、挑むような目で幸樹の瞳をじっと覗き込んだ。
謎の慣習に全く気が進まない幸樹だったが、結局は彼女についていくことに同意するのだった――






