第三話 パイロット、危機一髪
シエルは自室の窓からぼんやりと空を眺めていた。国王から投げかけられた難題に、彼女はだいぶ頭を悩ませていた。あれやこれやらと考えあぐね、気分転換にとこうして窓の桟に身体を預けていた。
「全く、魔法も決して万能じゃないっての!」
唇を尖らせながら、この国唯一の魔法使いの少女は空を睨んだ。雲一つない薄青の空がずっと広がっている。もし空を飛べたなら、そんな空想をしてすぐにやめた。それこそ、魔法は万能じゃない。
国民からの信頼も篤いあの国王様は有能で頼りになるが、今回の一件については横暴すぎる。シエルはさすがに不満に思っていた。もちろん、焦る気持ちはよくわかってはいた。
そんな風に、胸の中の不満に火を灯し、燃え上がらせていた時――
「あれは、なんだろう?」
視界の端を、謎の物体が横切った。それは空を滑るように進んでいる。鳥だろうか……しかしすぐに彼女は眉を顰めた。あんなに巨大なものは見たことない。
それでも空を飛ぶものについて、彼女にはそれ以外に心当たりはなかった。とても興味が惹かれて、その姿をしばらく見守っていた。しかしやがて、見えなくなってしまった。慌てて彼女が身を乗り出すと、再びそれは視界に映った。一直線に北の方向に向かている。
シエルは一気に窓の側を離れた。そのまま部屋を飛び出す。その目はキラキラと輝いていた。あの大きな鳥のことが気になって仕方がなかったのだ。このお転婆な魔法使いにとって、謎や不思議はなによりのご馳走だった。
勝手知たたる城内を、彼女は自在に闊歩していく。誰も気に留める者はいない。それどころか、すれ違う人々の中には、また始まったかと苦笑いする者すらあった。こうして興奮した様子で、シエルが駆けまわることなど日常茶飯事だった。
屋上はがらんとして人の姿がまるでない。ここに出てくるには玉座の間を突っ切る必要がある。すなわち、国王の許可が必要。……シエルはもちろん無断でここまで来たが。
その四つ角には、それぞれ監視塔が立っている。屋上からは繋がっていない。その最上部から身を乗り出している兵士の姿が目に入った。上を見上げるその姿は、ちょっと間抜けだ……シエルは鼻を鳴らした。
しかし、すぐに自らも彼らの真似をする。ほどなくして、注目を集めている物体を見つけていた。その白いシルエットは、雲の乏しい青空にはよく映える。
――空の果てを目指しているようだった。なにもない上空を優雅に駆けている白い物体。羨ましいと思った。鳥のように自由に空が飛べたら――子どもの頃、一度は思ったことがある。それを師匠に話したら、一笑に付された。シエルはそんな感傷に浸って、思わず頬を緩めた。
その正体についての謎は一向に解けないかったが、彼女は暫くその姿を見つめていた。やがて、意志を持っているかの如く、それはこの城の北の彼方でゆっくりと旋回していった。
この街に平行して飛んでいたのは、ほとんど一瞬のことだった。すぐにそれは向きを変えた。頭と思われる部分が、今度は城の方を向く。その姿は先ほどよりも大きく見えた。それでもまだ細部まで把握するには至らない。
シエルは屋上の北側の辺に駆け寄った。その姿をよく見てみたかった。ぐっと目を凝らす。魔力を瞳の部分に注ぎ込むと、ようやくその全容がわかった。
やはり鳥ではない。人工物――白を基調にしたボディ。頭の部分は流線型をしていて上半分は透明。内部には、若い男。シエルは目を丸くした。あれは乗り物だというのか。あり得ない。少なくとも、この小国にそんなものの存在は伝わってきていない。
真ん中よりもやや前方寄りに、大きな翼が左右に伸びていた。無機質なそれは一枚の板でできているように見えた。最後部は垂直に立っている。魚の尾びれみたいだ。その上端には短い板で蓋をしてある。
どうやらその物体は地面に降りたとうとしているらしい。斜め下方向に向かって、緩やかに飛んでいる。その姿が大きくなるにつれて、彼女は魔力を緩めた。やがて、翼の一部分から何かが跳び出してきた。すると、一層空飛ぶ謎の物体はがくっとその高度を落とす。
やがて下部分に取り付けられた黒い車輪が地面についた。その物体は、我が物顔でこの城近くの平原を進んでいく。それは城壁に隠れて見えなくなってしまった。
それが、シエルの見た一部始終だった。グライダーを知らない彼女――この世界の人間は、ただただ驚きと共にその光景を見守っていた。
高台では、兵士がばたばたと慌てふためいている。何かが起こる、そんな予感が彼女の胸の中で渦巻いていた。
それがこの状況を打破するものであればいいけど――宮廷魔法使いの彼女はわくわくしたまま空の彼方を見つめていた。それ以上、空を翔けて行いるものはなにも見当たらなかった。
*
「さあ、止まれ!」
幸樹の耳元で大きな声がした。そして、自らの身体を引っ張る力が無くなったのを感じた。どうやら、ここが目的地らしい。ずっと感じていた不安が少しだけ薄まった。
物音がして、彼の視界が久しぶりに明らかになった。ここまでの道中、ずっと麻袋を頭に被せられていた。
『何者だっ!』
『怪しい奴めっ!』
その二言を放ち、着陸直後に不審人物を取り囲んだ兵士たちは、すぐに彼を拘束した。そのまま有無を言わさず、城内へと連行したわけだった。
幸樹には抵抗の余地は無かった。また、するつもりもなかった。突然の事態に思考が追い付いていなかった。しかし、そんな中でも大人しく従うべきだとは思ったのだ。相手の姿が、あまりにも物騒で古めかしすぎた。
幸樹は広い部屋の中にいた。足元にはずうっと、真っ赤なカーペットが敷かれていた。その先には一脚の椅子が置いてある。どっしりとした見た目の壮年男性が座っていた。
個人用のそのチェアは背もたれが大きく、しっかりと肘掛けまである。人が座っているからその細部まではわからないが、見える範囲だけでとても高級なつくりであることは彼も理解した。
座っている男は、西洋人のようだった。堀の深い顔立ち、窪んだ鋭い眼光、Wを引き延ばしたような口髭、口元は引き締まっている。かなり年齢はいってそうだ。
羽織った真っ赤なローブは床に垂れ、その下は肩が不自然に膨らんだベストと派手な柄のぴちっとしたパンツ。頭のてっぺんに被った冠を見て、王様っぽい、と幸樹は思った。
頬杖をつきながら、男性は自らの目の前に引きずり出されたみすぼらしい青年をきつく睨んでいた。険しい表情、有無を言わさない威圧感を醸し出している。
その傍らに、ちょっと頭頂部が薄くなっている小太りの男。ベストとふっくらとしたズボンがよく似合っている。どこか神経質そうに、彼は蓄えたふさふさの口髭を撫でていた。
「報告します! 謎の落下物の近くに向かったところ、巨大な物体を発見しました。そして、その近くでこの男が彷徨ついておりました!」
若い男の上擦った声が部屋の中に響いた。
幸樹の右隣に立つ兵士が、彼の身体を縛り付ける縄の一端をぐいっと引っ張った。幸樹の身体は少しよろめいた。
ぎろりと、国王と呼ばれた男の瞳が動く。鼻から息を出すと、彼は少しだけ居ずまいを正した。もう頬杖はやめていた。
「して、お前は何者だ? エクレールの手の者か?」
その声は風貌にしっくりくるほどに重厚な響きを持っていた。
幸樹は思わず身を震わせた。微塵にも歓迎した風ではない。むしろ、敵意は剥き出し。その目は鋭く光っている。
彼はぶるぶると首を横に振りながら「違います」と何とか声を絞り出した。
「そんな言葉、耳にした覚えもありません」
「嘘をつくな! 怪しい奴め!」
「ちょっと黙っておれ」
王の言葉が左隣の男の言葉を遮った。兵士は気まずそうな顔をした。
沈黙の時間が続く。王は、幸樹の目を真剣に覗き込んでいた。前のめりになって、ギリギリと強く。彼の言葉の真偽を確かめるように。あるいは、強いプレッシャーを与えるように。
一介の大学生である彼としては、その緊張感に堪えられようがなかった。しかしそれでも、何とかその視線を受け止めていた。
頬を一筋の汗が流れ落ちる。心臓の鼓動はそのピークに達し、ただひたすらに息苦しさを覚える。それでも幸樹は、国王から目を離さなかった。
「まあよい。いずれ明らかになることであろう」
ふんと国王は鼻を鳴らした。そして、また玉座にふんぞり返る。
「それでもう一度聞く。貴様は何者だ? 何もかも、包み隠さず申してみよ」
その声からは幾分か厳しさが消えていた。
今度もまた、幸樹は困った顔をするしかなかった。自分は山岡幸樹。海央大学文学部の三年生。航空部に所属しており、空を飛んでいたらいつの間にかここに来ていた。……などという話は、彼らにとってはとても突拍子のないようなものに思えた。
果たしてどう説明したものか。幸樹は窮屈さを感じながら、ひたすらに考えあぐねていた。
「言えないのか。これは相当後ろ暗いところがあると――」
「い、いえ、話します。話しますから!」
またしても、王の表情に翳が差すのが見えて、慌てて幸樹は反応した。
渋々、彼は今に至るまでの経緯を詳細に説明することに。到底受け入れられないだろうな、と自分でも思いながら。
国王もその家臣も苦い顔をしながら、幸樹の話を聞いていた。彼の語る出来事の荒唐無稽さに、思わず目を剥いた。時折唸り声を漏らしながらも、じっと彼の話が終わるのを待った。
「――では、先に目撃された飛行物体は貴様が操作していたというのか」
「はい、そうなります」
「……にわかには信じられんな。空を飛ぶ乗り物とは。そなたたちはどう思う? わしに報告をよこしたのはそなたらであろう」
「はっ。僭越ながら申し上げさせていただきます。私とセザールが見たものと、この男の近くにあった物体は同一のように思えました。さらには、確かに中に人が乗り込めるようになっている様子。であれば、この男があれを操縦していたのは間違いではないか、と」
「なるほどのう。だが、わしにはそもそも鳥以外が、あの大空を翔けている姿がよう浮かばんのだ。お前はどう思う、ジャン」
今までずっと黙っていた家臣に、ようやく国王は目を向けた。
「クロヴァス様。それはわたくしとて同じこと。しかし、この二人以外にもそれを目撃したものが多い以上、何かが――鳥でない何かが、空を飛んでいたことは事実だと思いまする」
「ふむ。では、この青年が言うこともすべて事実だと――」
「断ずるのは早いでしょうな」
ジャンが顎元を手で覆いながら城主の言葉を奪った。無礼なことをされたというのに、国王は顔色一つ変えない。その言葉に同調するように、深い頷きを繰り返した。
「空を飛行する乗り物があった。しかし、この者がその乗組員というのはすぐには結びつかない。ただ通りがかっただけの可能性もある。そもそもにして、全てがこの者の作り話かもしれん」
国王は厳しい口調で断じた。
幸樹は話の行き先に不穏なものを感じた。正直に話したつもりだが、信用はどうにも得られていないらしい。
「待ってください! あれは自分が確かに乗ってきたものです!」
幸樹は思わず身体をもたげた。縄が食い込むことを厭わずに。
「今、貴様の発言を許した覚えはない。立場を弁えんか!」
王の言葉で、兵士が幸樹を窘める。
幸樹は改めてここが一種の審判の場だと気付かされた。始まりからして、彼は疑われていた。それは今も変わっていない。むしろ、より強まったともいえる。
目の前にいる荘厳な男の胸三寸で、自分の運命が決するのだ。幸樹は切迫感を覚えながら、大きく唾を飲み込んだ。
「ひとまず、この男は牢に入れておけ。身体を検めるのを忘れるな。不審物を所持していたら、すぐに報告を上げよ!」
「かしこまりました!」
兵士たちは荒縄を引っ張って、幸樹の身体を立ち上がらせようとした。
「待ってください! 自分は決して怪しいものでは——」
「そういう奴に限って怪しいと、相場は決まってるんだよ!」
若い方の兵士がそれを一蹴する。
さしもの幸樹も、この時ばかりは抵抗をした。何とか兵士たちの手から逃れようとするが、彼は特殊な訓練を受けているわけではない。それに、身体の自由は制限されている。結局は無駄に終わった。
それでも、彼はなお藻掻く。なぜなにもしていないのに、自分が投獄されねばならないのか。こんな変な場所に迷い込んで。そんな理不尽になおも足掻いていると――
「待って!」
バタンッ! 大きな音がすると共に、高い女性の声が玉座の間に響き渡った。
ドカドカと、雑多な足音がする。幸樹の視界の端を、綺麗な金髪を靡《《なび》》かせた少女が横切った。揉める三人の男たちを通り越して、玉座にのさばる国王の元へ。彼女は少し胸を反らした。
「シエルか……なんだ、いったい騒々しい」
国王派少女の顔を一瞥すると、ぐっと顔を顰めた。
「これはご無礼を。ご機嫌麗しゅう、国王陛下」
その声はかなり作り物めいていた。闖入者はスカートを摘まむと、慇懃無礼に頭を下げた。幸樹の目には、ちょっとふざけているように見えた。
「よいよい。今は取りこんでいるのだ。後にせい」
「そういうわけにはいかないの。――話は聞かせてもらった。あたしにいい考えがある」
その言葉はどこまでも企みめいていた。露骨に不愉快そうな顔をする国王と大臣。ぴたりと動きを呑んで、様子を見守る兵士たち。玉座の間の厳粛な雰囲気は、見事に消し飛んでいた。
し幸樹には堂々と言い退ける彼女の姿が頼もしく思えた。突如現れたこの女性が、自分の運命を変えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を込めて、強くその後ろ姿を見つめるのだった――