第十七話 再び空へ
目を開けると、白い天井が視界に入ってきた。ここ最近は、あのごつい岩肌と睨めっこしているから、幸樹にはすごく新鮮に思えた。
ぐっと身体を起こす。そして、特に意味もなく、ゆらりと視線を部屋の中に巡らせた。部屋の雰囲気は殺風景に近い。最低限必要なものしかない。どの調度品もシンプルで無機質。ちなみに、これらすべてドミニク製。ここに幸樹を案内してきたシエルが、偉そうに講釈を垂れた。
幸樹にとって一番喜ばしかったのは、やはりこのベッドだった。ふかふかのマット、羽毛布団、ほど良い反発のある枕。宮中にある客室の一つだけあって、寝具はなかなかに立派なものだった。
おかげで、睡眠の質は向上していた。全く身体は疲れてない。気分は爽快。頭はすっきりと冴えている。二度とあの牢には戻りたくない。幸樹は心の底からそう思った。
彼は立ち上がると、まずカーテンを開けた。よく晴れている。朝の日差しは弱々しく、風景は少し白っぽく光って見えた。
航空部に入ってからというもの、幸樹はすっかり転機に敏感になっていた。普通の日常生活でも天気予報を見るのは欠かさない。気象学の勉強もそれなりに積んでいる。それは偏に、グライダー乗りにとって必要なことだからだ。
これなら十分にグライダーは飛ばせそうだ。そう考えながら、彼は着替えに移る。ここに来てからずっと身に着けていたシャツとズボンは、城の使用人に持ってかれた。代わりに、似たようなものが渡された。
間もなくして――
「コーキ、起きてる?」
強く扉が叩かれるとともに、よく知った女性の声がする。早いな、と思いつつ彼は扉の方へ。着替えはしっかり済んでいる。
「おはよー、じゃ行こっか」
「朝から元気だな、シエル」
「そりゃそうよ、朝だもん!」
わけのわからない答えが返ってきて、幸樹は頭を抱えそうになる。まあ辛気臭いのよりはましか、と一人勝手に納得して、彼女の後についていった。
ドミニクを呼んでくると、城を出たところでシエルと別れて、彼は先に人気の少ない町中を通ってグライダーのところに向かう。
太陽はまだ昇り始めたばかり。風は微風。昨日よりは強いが、何か影響があるほどではない。最も肝心な横風成分はゼロ。やはりグライダー日和といえた。
テントの中の兵士たちに声をかけて、グライダーのセッティングを手伝ってもらうことに。早朝からグライダーを飛ばすことは話がいっているらしく、文句を言うものは誰もいなかった。
もはや顔見知りになっていて、今さら戸惑うことはない。慣れた様子で、係留を解き機体を移動させる。そして、発航地点へ。
度重なる発航により、草地にはくっきりとした轍ができていた。そこに機首があうようにしっかり機体を定位置へ。
そのまま幸樹は機体点検を始めた。兵士たちはテントの中に戻っていく。
「おう、お前も大変じゃな」
「いえ、そんなことは……ドミニクさんこそ、毎日すみません」
「全くだわい! ――まあ、小僧が悪いわけではないがな」
いつものように、例の発航装置を持ってドミニクは現れた。小人……もとい妖精たちはいない。あいつらはねぼすけだ、とドワーフは眉を顰めた。そのため、台車に乗せてそれを運んできた。
テントでつかの間の休息を味わってた兵士を引っ張り出して、装置を滑走路(草)の真中近辺に設置する。
「馬たちもまもなく来るわ」
ドミニクにだいぶ遅れる形で魔法使いもやってきた。
「りょーかい。――王女は?」
「キミのところに行く前に声かけた。準備ができ次第くるはず」
そんなにかからないと思うわ、としらっとシエルは付け加えた。
あれやこれやと、グライダー発航の準備は整っていく。つい最近まで、彼らはグライダーはおろか航空機すら知らなかったのに。すっかりと、その存在は受け入れられている。幸樹はそんな風景を微笑ましく思っていた。
やがて、物々しい雰囲気が城下町の方から漂ってくる。ようやく王女がやってきた。そしてなぜか国王と大臣もいる。
その一団はグライダーから少し離れたところでとまった。幸樹はゆっくりとそちらの方へ近づいていく。王女のキラキラと輝く表情がとても印象的だった。
「おはようございます、コーキさん。今日はよろしくお願いします」
先制したのは王女。彼女はゆっくりと礼をした。その服装はかなり控えめだった。しかし、地味な装いでもその高貴さを抑えきれてはいなかった。
幸樹はつい気後れしてしまう。
「いえ、こちらこそ。よろしくお願いいたします」
「そんな固くならなくても、結構ですよ? シエルさんと接するように、わたくしに対して接していただいても――」
「いけません! いけませんぞ、クラリス王女!」
大臣が二人の間に割って入ってきた。
「いいですか、コーキ殿は唯一このグライダーを操縦できるお方。その点においては、確かに特別な存在でございます。しかし、あなたは王女。そう簡単にへりくだってはいけません!」
「うるさいなー、ジャンは。クラリスがいいっていってんなら、いいじゃん。頭固いよ? だから……」
会話に割り込んできたシエルは、ちらりと大臣の頭を見上げるとそのまま閉口した。大臣はすぐに意図に気が付き、その顔がみるみるうちに赤くなっていく。
「この、見習い魔法使い風情が!」
「誰が見習いだって!」
二人は激しく言い争いを始める。
「これこれ、止めんか。朝っぱらから騒々しい。――コーキ殿、王女を……いや我が娘のこと頼みましたぞ」
「はい、お任せください。必ず無事に帰ってきます」
幸樹は差し出された王の腕を両手でしっかりと握った。
幸樹は王女を連れて、グライダーに近寄った。シエルもなぜかついてきたが、無視することに。操縦席の横に立って、その内部について説明を始めていく。
「――っと、勝手に動きますが、気にしないようにしてください。そして決して触らないように!」
最後の一言を、幸樹は力強く告げた。グライダーの操縦席には翼を動かす装置が付いている。操縦桿や、ペダルがそうだ。この複座機は前席と後席でその動きが連動する。つまり、彼女が何か触ったら、それがそのままグライダーに影響を及ぼすのだ。それを実際に動かして見せた。
「は、はい。わかりました」
王女も危険を感じ取ったのか、少し強張った表情で頷いた。
そして幸樹はシート位置を操作していく。そして、ペダルの位置も。彼の見立てでは、王女の身長は150センチないくらい。年齢はわからないが、小柄でちょっと幼く見える。
さていよいよ、その中に乗せるわけだが。一つ問題があった。それはパラシュート。グライダーに登場の際は念のためにそれを背負う。
しかし、今パラシュートは一つだけ。少し考えて、王女にそれを背負ってもらうことにした。
「……うっ、重いですね」
「クラリス、ガンバだよ!」
「応援はいいから。しっかり装着させてあげてくれ」
「は~い」
パラシュートのベルトの調整は意外と難しい。クラリスはもとより、シエルもまた四苦八苦している。もどかしさを感じるが、幸樹はぐっと我慢して指示を出すだけ。ベルトは胸元にあるから、関与は避けたい。飛ぶ前に打ち首とか本当に笑えない、と彼は気の毒な気分になっていた。
しっかりとパラシュートが背負ってあるのを確認して、幸樹はグライダーの縁を掴んだ。前輪を無理矢理地面につけて、乗り込みやすくする。
「そこ足ついていいんで。――はい、がばっと足を」
「がばっと……わっ!」
どこかぎこちなかったが、するりと王女はシートに腰を下ろした。
「どうですか? ちょっと窮屈だと思いますけど、我慢してくださいね」
「いえ、窮屈だなんてそんな……なんだかとても気分が高揚します!」
「それならよかった。――ちょっと閉めますね」
幸樹はキャノピーをゆっくり閉めた。頭は全くぶつからない。それを確認してから、彼はシエルの方を振り向いた。
「いいなー、クラリス。うらやましー。――ねっ、今度あたしも乗っけてくれるよね?」
「わかった、わかった。――そんなことより帽子はないか?」
幸樹はシエルの話を適当に聞き流す。
「ん」
すると彼女は自分の被っている山が高くとんがったものを指さした。
「お前、それが個々に入ると思うか?」
「……アハハ~、わかってるって。コーキが被ってるような奴だよね。ちょっと聞いてくる」
そう言って、魔法使いは去っていった。大丈夫だろうか、彼女は。ああはいってたが、彼女の最初の一言が冗談には、彼には思えていなかった。
「ちょっと待って」
駆け出したシエルの背中に呼びかけると、彼女は足を止めた。そしてゆっくりと振り返る。ちょいちょいと合図をすると、彼女は不思議そうに近寄ってきた。
「……それと体重はいくつだ?」
「バカなの? そんなこと言えるわけないじゃん! コーキのエッチ、変態 スケベ!」
「いや、お前のじゃないし。王女のだ」
「だったらなおさらだよ! キミがそんな人だとは思わなかった!」
シエルは一人で勝手に盛り上がっている。かなり怒り心頭といった様子だ。幸樹は自分の言い方が悪かったと反省して、とりあえず謝る。そしてわけを説明した。
「なんだ、そういうこと。わかった、重りも用意する」
「よろしくな」
グライダーには適正体重がある。それを満たすように、王女の体重から逆算して追加する重りを持ってきて欲しいと彼は頼んだ。
そもそもにして、王女がそれを満たしていないことはわかっていた。どう考えても、40キロもない。初めからこうしていればよかった、と彼は自分のデリカシーのなさにあきれていた。
とにかく、シエルが戻ってくるまでは特にすることはない。幸樹は機体の方に身体を向けなおして、キャノピーを開けた。
「どうで――」
「これは……素晴らしい乗り物ですね! わたくし、とても感動しました!」
王女はひどく興奮しているのだった。その様子に幸樹は少し不安を感じたのは言うまでもない。
ドミニクや兵士たちとの打ち合わせも終わって、幸樹はいよいよ前席に乗り込んだ。後席の少女のテンションがとても高くなっているのを、ひしひしと感じる。
「いいですか、しっかりとそのハーネス……いや、ベルトを握っててください」
「はい、わかりました」
幸樹は振りむいて、王女がベルトを掴むのを確認した。その頭には可愛らしいハットが被ってある。
そしてゆっくりと正面に顔を戻す。この時点で、彼の緊張はピークに達していた。後ろにいる人間の存在が、彼にかなりのプレッシャーを与えている。
……もし万が一があったら――
少し考えて、すぐに振り払った。大丈夫のはずだ。そう思うしかない。彼は操縦桿に右手を添える。
発航前の最終確認を終えて、幸樹は翼端に合図を送った。翼が持ち上がった時、後ろから小さな悲鳴が聞こえた。彼はそれを聞かなかったことにした。意識をしっかりと集中させなくては。
やがて――
ロープにテンションがかかる。いよいよ始まる。この人生で最も厳しいフライトが。初めて後ろに素人を乗せて、さらに場周飛行ではなく、移動のために空を翔けていく。……もしこのことが部活仲間や教官の耳に入ったら、退部どころの騒ぎではないだろう。初めてが重なっている――それが危険極まりないことは幸樹が一番よくわかってる。
だがそれでも彼は飛ぶのだ。この国を救うために。それは自分にしかできないことなのだから――
ズズっと機体が前方に引きずられる。そして勢いよく前方に進んでいく。速度がついていくとふわっと浮き上がり――
「きゃあああああああああ!」
「絶対にベルトから手を離さないで!」
負けじと幸樹は叫ぶ。
後ろから盛大な悲鳴が上がると共に、機体は急上昇を始める。幸樹は懸命に操縦桿を操る。ここが一番危ないポイント。変に角度が付けば、失速といって機体が墜落する原因を生む。
その上昇も終わり、彼は機体を水平にするとレリーズを引いた。機体から余分な力が抜けるのがわかる。
「王女、無事に飛び立てました。とりあえず、前方に上昇気流をお願いします」
「ひゃ、ひゃい……ええと、呪文、呪文はっと」
かなり王女は気が抜けているようだった。この後、本当に自分たちは目的地にたどり着けるのだろうか。幸樹は強く意に痛みを感じるのだった――