第十五話 彼女たちが見たもの
正午よりも少し前。ボワトン王国の王と大臣、その護衛を合わせた数名の一団が壁外すぐ近くの草原に集まっていた。彼らの眼前には流線型をした謎の白い物体が置かれている。――その正確な名称を知るのは、その中ではたった二人だけだった。
――果たして何が起こるのだろうか。この国の姫であり敬虔な巫女でもあるクラリス・メデュウ・ボワトニスは、胸躍らせていた。
彼女は集団からかなり離れたところで様子を見守っていた。頭からすっぽりとフードを被り、外套で身を隠している。その下も、王女にしては質素な服装なため、ぱっと見た感じでは彼女の正体に気付く者はいないだろう。
隣にはシエルがいた。王女は、この二つ年上の魔法使い兼軍師のことを実の姉みたいに思っていた。とても小さい頃からの付き合いだった。
およそ十三年前。この国を一人の魔法使いの女が訪ねてきた。その彼女が連れていたのが、幼きシエルだった。
王は魔法使いの持つ膨大な知識を当てにして、軍師として登用することに決めた。その際に、シエルもこの城に引き取られたわけである。
争いから遠ざかって久しいボワトン王国にとって、本来軍師は無用の長物。長らく空白だった。だが逆にそれが都合がよかった。
当時クロヴァスは即位したばかり。政務官のトップである大臣や各部門を統括する長官の力の方が強かった。当然、魔法使いの登用も猛反対を受けた。彼女に与えるポストとして、軍師はギリギリ家臣たちの妥協できるラインだったわけだ。
実際には、その魔法使いは王の相談役を担った。彼女はその能力をいかんなく発揮し、次第に周囲にも認められていった。――そういう風に、シエルは父から聞いていた。
クラリスも色々なことを教わった。魔法もその一つだ。生まれ持って魔力を備えていた彼女は、慣例に従って巫女に選ばれた。そのための修練の一環としてその使い方も、先代の巫女から習っていた。
しかし、彼女が今、身に着けている魔法の多くは、シエルの師匠から授けられたものだった。彼女はいうなれば、シエルの妹弟子ともいえる立場でもあった。そしてよく二人でやんちゃして怒られた者である。
そんな風に昔を懐かしんだのは、シエルとのさっきの会話のせいかもしれない。姫巫女はそっと唇を緩めた。
二人がいる場所はグライダーからかなり遠い場所だった。シエルに寄れば、ここが離脱予定地――クラリスにはよく意味は分からなかったが。
魔力を込めてぐっと目を凝らしてみると、グライダーの周辺では兵士たちがあれやこれやと作業をしていた。その中には、ドミニクと、そしてコーキと呼ばれるなじみのない男の顔もあった。クラリスが彼の姿を見たのはこれで三度目だ。三日前の礼拝の時間、そして今朝――
どんどんと扉を強く叩く音と、やめてくださいという侍女の悲痛な悲鳴で王女は目を覚ました。ゆっくりと身体を起こす。
「クラリス~、ちょっと話があるの~」
聞こえてきた声の主は、しっかりとわかった。そもそもにして、この少女は特段朝に弱いわけでもない。彼女の頭はばっちり冴えている。
「わたくしは大丈夫ですから、お通ししてください」
「しかし姫様。寝起きの姿をむやみに晒す、というのは……」
「相手はシエルさんでしょう? 気にしませんわ」
「ですが……」
侍女はまだごにょごにょ言っている。どうにもあの方は頭が固い、最近やってきたその侍女に少しだけ不満を覚えながら、クラリスは立ち上がった。そして扉に近づくとゆっくりとノブを回した。
「あっ! 姫様!」
「――おはようございます、シエルさん。何かご用で……」
いきなり王女は言葉に詰まった。口を開けたまま固まってしまう。扉を開けた先に、予想だにしていない人物がいた。
すぐ近くに困り顔の若い侍女。彼女に詰めよる興奮した様子の魔法使い、そしてその後ろに短い黒髪の男性が、気まずい表情で立っている。
すらっとした体系で、少し目つきがよくない。服装からして兵士ではなさそうだ。彼らが私服姿で、王女の私室を尋ねてくるなど皆無に等しい。
だが、どこか見覚えがあった。この国では黒髪は珍しいから印象に残っていたのかもしれない。少し考えて、三日前の祈りの日の出来事を思い出した。あの時シエルに話しかけられて、その隣に――
「おーい、大丈夫、シエル?」
突然、ぶんぶんとクラリスの目の前をか細い手が横切った。
「あ、ごめんなさい。殿方がいらっしゃるとは思ってなくて」
首を横に振って、彼女は柔らかい笑顔を浮かべる。
「だから言ったのです、姫様。――さ、お二人とも。お戻りくださいませ。あんまり騒いでいると、人を呼びますわ!」
「もー、うるさいなー。シエルがこうして出てきたんだし、いいじゃん!」
「いえ、そういうわけにはいきません。朝食前には何人たりとも通すな、と侍従長より仰せつかっておりますので!」
というような攻防がずっと続いていた。クラリスはそんな風景を微笑ましく思いつつ、軽く侍女を窘めることにした。
「まあまあ落ち着いてください。わたくしは構いませんから。どうぞ、お二人とも。中に入ってください。――申し訳ないのですが、何か飲み物を頼めますか?」
「し、しかし~」
「侍従長にはわたくしからちゃんと言っておきますので。貴方の不都合になることはありませんよ」
「……わかりました」
ぺこりと奇麗に頭を下げて、彼女は歩き出した。その姿が完全に消えたのを確認してから、改めてクラリスは扉を大きく開いた。
男はコーキ・ヤマオカと名乗った。シエルの助手だという。どこか声が上ずっていたのは緊張していたからか。クラリスは少しだけおかしく感じた。
挨拶もそこそこにして、大きな丸テーブルについた。まもなくして、さっきの侍女がミルクティーを運んできた。
「それで何のお話でしょうか?」
「クラリスはさ、今日のお昼の話って聞いてる?」
「……いいえ。何かあるのですか?」
シエルがこの三日間の出来事について話し始めた。――空飛ぶ乗り物グライダー。その存在を彼女は今初めて知った。父である国王は、彼女にもその存在を秘密にしていたのだった。
それをコーキは操縦できる。厳密にいえば、それを今日証明するらしい。それはとても面白そうな試みだとは思ったけれど、自分に何の関係があるのか、王女はいまいちぴんと来ていなかった。
「風をね、起こして欲しいの」
「風……ですか?」
「うん。詳しい説明は省くけど、グライダーって風の力が結構重要なのね」
そしてちらりとシエルはコーキの方に目を向けた。
「それで、王女様にはジョーショーキリュー――つまりは上向きの強い風を起こしていただきたいのです」
深々と頭を下げてくるコーキ。クラリスには全く話が飲み込めていなかったが、引き受けることにした。それくらい、そもそも大したことではない。
それに何より――
「わかりました。――コーキさん、シエルさん。それはきっととてつもなくステキなことが起こるのでしょう?」
とても面白そうだと思ったのだ。この王女もまた、好奇心の強い方であった。
「そろそろね」
シエルがそっとクラリスに向かって囁いた。クラリスは小さく頷く。
何が起こるか簡単には説明してもらってはいるが、それでも期待感は膨らむ一方。なにせすべてがこのお姫様にとっては初体験なのだから。
機体の左手側では一人の兵士が勢いよく赤旗を振っていた。それを受けて、その直線状の別の兵士が白旗を上げる。するとまもなく、横並びになっていた馬たちが一斉に走り出した。
そこから先はクラリスにとって驚きの連続だった。ロープが伸びていくと思ったら、そのまま機体が引きづられてスピードがついていく。やがて、あの大きな鳥みたいな形の物体が一瞬地面を離れた。そして瞬く間に、上空に向かって矢のように突き進んでいく。
呆然としながら、王女はただひたすらにその光景を眺めていた。
「びっくりして、言葉もないみたいね」
「は、はい……あんなものが本当に空を飛ぶなんて」
「師匠がいたらなんて言ってたか……ともかく、ほらクラリス。しっかり見てて!」
シエルの声が今までの軽い調子と打って変わり、真剣なものに変わった。姫巫女は浮ついていた気分をしっかり引き締める。
「たぶんそろそろロープが離れるのね。で、ぱかっとパラシュート……ふわっと何か布が花みたいに開く。それを見たら、機体の進行方向に対して上昇気流を起こして」
「はい、わかりました」
クラリスはぐっと意識を集中させる。グライダーの動きをしっかり追っていた。斜めになっていた姿勢が水平に戻ると、ロープが切り離された。そしてシエルの言うように空に布でできた花が広がった――
「今よっ!」
「風よ、起これ《ボヌー・ブリーズ》」
シエルの指示と、クラリスの呪文はほぼ同じタイミングで放たれた。
遠目に風の渦が見えた。――成功だ、クラリスは一つ安堵した。すぐにその上をグライダーが通過する。
一度は素通りしたものの、すぐにグライダーは戻ってきた。ぐるぐると回転しながら、その渦に入っていく。すると――
「の、昇ってます!」
「……あれが、ソアリング!」
二人の姉妹のような少女は、ぐんぐんと高度を上げていくグライダーに心の底から感動するのだった――