第十四話 高く、高く
グライダーは見事に異世界の空を進んでいた。幸樹はすっかり安堵していた。それでも胸の鼓動はあまり収まっていない。
機体の上昇はあまりにも急だった。感じた衝撃はウインチトレーニングとほとんど変わらなかった。ジェットコースターが高いところから落下する時のような感覚。……もちろん、グライダーの場合は落下とは真逆の運動をしているわけだが。
体感的にはずいぶんと久しぶりのことだったが、実際には最後にフライトしてからまだ二日しか経っていない。馬から離脱して水平飛行に移行した今、幸樹は特に自分の腕がなまったようには感じていない。
現在の高度はおよそ1000フィート――約300メートル。航空部に入って、彼は色々なことに困惑したが、この尺度もまたその一つだ。今ではすっかり、換算できるようになった。
しかしうかうかはしていられない。早いところ上昇気流を見つけなければ、このまますぐに着陸する羽目になる。
だが――
恐ろしいほどに、上昇のきっかけは見つからない。結局幸樹はもう降りることに決めた。ちらりと見える地上には、シエルや兵士たちの姿があった。果たして彼らはこの光景をどんな思いで眺めているのか。幸樹には全く想像がつかなかった。この世界の人々にとって、空飛ぶ乗り物は存在しないはずの存在だから。
先ほどとは真逆に、風を背にして空を進んでいく。やがて着陸すべき高度に近づいてきたころ、彼は機体を右に旋回させた。周囲の安全に配慮して、飛び立った時とは少し離れたところに着陸することにした。
すぐにまた右に曲がる。最後の旋回を終えると、グライダーは何もない草原目掛けて降下していく。徐々に近づいてくる地面を、幸樹は心の底から待望にしていた。
着陸操作をして、まもなく主輪が接地する。一瞬軽い衝撃が起こったのち、滑らかにグライダーはまっすぐに進んでいく。
ガタン――静止して、右翼が草地についた。幸樹は長く息を吐き出す。何とか無事に帰ってこれたか、彼の身体から一気に力が抜ける。ずっと感じていた緊張の糸が切れた。
ゆっくりとハーネスを外して、キャノピーを開けた。一気にやってきた空気はどこまでも新鮮だった。心地いい――幸樹は少し座ったままでいようと決めた。少し放心状態だった。
発航の手段こそ異常だったが、その後は普段と変わったところはなかった。この世界でも、十分にグライダーは活動できる。幸樹は今までに感じたことのない達成感を覚えていた。
これで明日の本番も何とかなりそうだ。初めの頃はどうなることかと思ったが、これであの国王と大臣にもしっかりとグライダーが飛べることを示すことができる。
「コーキ!」
そんな余韻に浸っていると、シエルの声がした。幸樹が顔を上げると、馬に乗った彼女の姿が見えた。まっすぐこちらに向かって近づいている。やや危なっかしくて、彼は少し心配になった。
「いやぁすごかった!」
馬から降りて、シエルが操縦席の方までやってくる。その顔が上気しているのは、走ったせいではないだろう。興奮しているのが、幸樹にもはっきりと分かった。
彼はその勢いにちょっと気圧されていた。苦笑いを浮かべながら立ち上がる。そんなに上空にいたわけではないのに、地上を踏みしめる感覚がひどく懐かしく感じられた。
「な、これはちゃんと空を飛べる乗り物さ」
「疑ってたわけじゃないけどね。でもやっぱ目の当たりにすると、なんかこう胸に来るものがあったよ!」
ぴょんぴょんと彼女は子どもっぽく飛び跳ねた。
「でもかなり早く下りてきたんだね。もっとずっと飛んでるかと思ったのに」
だがすぐにシエルは不思議そうな顔をして首を傾げた。
「ああ。全然上昇気流がなかったから」
「そうなんだ」
魔法使いの顔が上を向く。くるくると鳶が一匹飛んでいる。
「この近くには、って意味だぞ、あくまでも。高度が低すぎて、探しには行けなかったんだ」
「なるほどねぇ。あれでも低いんだ?」
「本当は――ウインチでも、もう少し高いところまで上がれる。でも十分な高さはあったさ。これなら明日も問題ない」
「そうみたいだね。一安心だ! ――でもさ、この方法だと、もっと遠くまで飛ぶのは無理ってことだよね」
「ううん、どうだろうな」
幸樹はぐっと腕を組んだ。上昇気流をしっかりつかめれば可能だろう。しかし、離脱したところにちょうどそれがあるとも限らない。だから、離脱高度をもう少し稼ぎたいところではある。
それを伝えると、シエルはちょっと微妙な表情をした。顎に手を当てて、しきりに何かを考えている。その口からは、言葉にならないうわ言が漏れていた。
幸樹には彼女がいったい何に頭を悩ませているか、わからなかった。グライダーが飛んだ。それでいいんじゃないか。だから彼としては言うべきことは一つだった。
「とりあえず、もう一発飛んでみたい。このまま明日を迎えるのも心もとないし」
「うん、オッケー。お馬さんたちも大丈夫そうだったよ」
「そうか。じゃあ俺は一応機体の点検をしておくから。みんなを呼んできてくれ」
「……えっ! ここでやるの!?」
シエルは目を大きく見開いた。見渡す限り、ここも平原が広がっている。遮蔽物がないため、この場所でもグライダーを飛ばすことは十分可能だ。それに――
「グライダーを向こうに持っていくのと、向こうのみんなに来てもらうの、どっちが早いと思う?」
幸樹がそう言うと、魔法使いは微妙な表情で肩を竦めるのだった。
*
すっかり日が落ちて、二人はシエルの私室に戻っていた。夕食と入浴はもう済ませ、今はカップを片手に話し込んでいる。
あれから夕暮れまで、グライダーを飛ばし続けた。その数五発。幸樹もさすがに疲れを感じていた。
「結局、十分な高度は出なかったね~」
シエルは手元の紙に目を落としながら、残念そうに言った。そこには数字がたくさん書かれていた。離脱高度の記録。どれも1000フィートそこそこだ。
「もうちょっと風があればまた別だろうけどな。そればっかりは誰にも予測ができないさ」
「平均30クーとなると、間近にサーマルがないとすぐに下りてくるしかないんだよね?」
「そうだな。離脱高度としては全然余裕がない」
「……はぁ。困ったなぁ」
シエルはため息をついて肩を落とした。
魔法使いはずっとこんな調子だった。グライダーが飛び上がってすぐに下りてくると、がっかりした様子を見せる。
彼女としては、もう少し長く飛んでもらいたいのかもしれない。幸樹だって同じ気持ちだ。せっかく飛び立てたのだから、欲をいえば長く滞空して空を楽しみたい。それは我儘だ、という自覚はあるが。
「でも王に見せる出し物としては十分じゃないか?」
「まあね。コーキの死刑はこれで免れるとは思う。でもね、問題はその先よ」
「その先?」
「そもそもあたしがどうしてグライダーに目を付けたか。玉座の間での話を思い出してみて?」
シエルは真剣な表情で、幸樹の目を見つめた。言われるがままに彼は考える仕草を取る。そういえば――
「使者がどうのって話だったな」
「それよ、それ!」
パチンと彼女は指を鳴らした。
隣国に使いを送ってもダメだからグライダーを使おう。そんな話の流れだった。しかし、そもそも何の使いなのだろうか。幸樹はここにきて、この国の抱える危機について何も聞いていないことに気が付いた。正直、今まではそれどころではなかった。
「そうか、キミにちゃんと説明してなかったね。あのね端的に言うと、今この国は北東の国エクレールに攻め込まれようとしてるのよ。関所がこの間潰されたばかり」
「……は?」
シエルの口から告げられた事実は、とても衝撃的なものだった。つまりは戦争が起ころうとしている……? 幸樹にとってそれは、全く無縁のものだと思ってた。
人々の様子もそれをにおわせるところは一つもなかった。まさしく平和そのもの。城下町は活気に溢れ、道行く市民の顔には暗いところは一つもなかった。
「緘口令をしいているから。むやみやたらと人々に不安を抱かせる必要はないでしょ」
もっともらしいことだと思って、幸樹は頷いた。
「それにね、関所が潰されてからはそんなに大きな動きはないの。小競り合いはあるけど、まだまだ侵攻は本格化はしていない」
「それならどうしてニュアージュに使いを? まずエクレールと話し合うべきじゃ……」
段階が飛んでいるように、幸樹は感じた。もしかするとこの考え自体が平和ボケしているのかもしれないが。だが、いきなり闘いが始まるなんてことはあまりないんじゃないだろうか。
「何度か試みようとした。でもダメだった。向こうにもやっぱり辿り着かないのよ。エクレールの旗印を掲げた軍団に邪魔される」
「……なんだか回りくどい言い方だな」
「さっきエクレールに攻め込まれた、って言ったけど。実際はエクレールの方から敵がやってきた、ということらしいの」
それは突然だった。関所の兵士が傷だらけでこの街にやってきた。話を聞くと、エクレール軍に襲われたという。敵はその印を掲げていた。
昼下がりのことだった。急激にエクレール方面が闇に包みこまれた。背面――ボワトン領は奇麗に晴れわたっている。不気味に感じていると、向こうから銀の鎧に身を包んだ軍団が現れた。
何も言わず、向こうは攻めてきた。訳の分からないままに関所の兵士たちは応戦したが、そのまま関所を占領されてしまった。唯一逃げのびることができた彼は、命からがら王都までやってきたわけである。
話を聞いた国王は北東部に軍を派遣した。それがさっきシエルがいった小競り合い。しかし徐々に押し込まれ気味ではある。
「別にね、エクレール王って交戦的な性格じゃないのよ。第一、戦争なんてこの地方じゃもう長らく起きてないし。情報収集を兼ねて、ニュアージュに連絡とることにしたのよ。あそこもエクレールに隣接してるわけだしね」
ま、それも失敗続きだけど、とシエルは付け加えた。苦々しくカップに口を付ける。国境部分にも、謎の兵士たちがいるらしい。やっぱりエクレール軍所属と思われる風貌の。
「……なるほどな。そういう事情があったのか」
「だからグライダー、ひいては幸樹には、なんとしても長距離を移動してもらわないと困るわけよ」
ニュアージュの王都が具体的にどこにあるかはわからない。しかし、今のままだどこかに移動するのは不可能だ。圧倒的に高度が足りない。
「だよねぇ。とりあえずは離脱高度を何とかしないとダメかしら」
「でもドミニクさんはあのやり方だったら、もう限界だって言ってたぞ」
「……それ、あたしも聞いてた」
「風がもうちょっとあればいいかもな。今日はほとんど無風だったから」
「そうなんだ。風……っと」
シエルは手元の紙に書きこんだ。
「でも一番の問題は、飛び上がった後だ。ニュアージュ方向に進んでいくにつれて、上昇気流を定期的に捕まえる必要がある。……それってかなり難しいことだぞ?」
「初めて見た時はもっと自由な乗り物だと思ってたのに、意外と不便だよね、グライダー」
「まあ、移動用の乗り物じゃないからな」
言わなかったが、幸樹の技量があればもうちょっとやりようはあるかもしれない。あるいは、機体がASK21という練習機ではなければ。しかしこれこそ、二人にはどうしようもないことである。
そのまま互いに無言になった。幸樹は何とかして、ニュアージュにグライダーで行けないかを考えていた。本来自分には関係のない話だが、ここまでこの国の人たちに協力してもらって、恩返しをしたい気持ちもあった。
だが、幸樹の問題の全てが解決したわけではない。グライダーを飛ばせるようになることは、あくまでも命の安全の確保のため。ここが異世界というのは変わらない。ここからどうやったら戻れるのか、少しずつだが、そのことも気になっていた。
しかしそれをシエルに尋ねるタイミングは今ではない。ひとまず彼女の――この国の抱える問題を解決する方が先だと、彼は考えていた。
強い向かい風、上昇気流――グライダーは気象条件、特に風に強く左右される乗り物。もし風を自在に操ることができれば……そこまでいった時、彼はある考えを閃いた。ぐっと目を見開く。
シエルが余裕たっぷりに笑ったのはほぼ同時の出来事だった。
「魔法だ――!」
二人の声はぴたりと重なるのだった。