第一話 グライダーは今日も空を征く
ASK21がよく澄んだ空を美しく翔けていた。
パイロットである幸樹の眼前には、果てしない大空が広がっている。視界の端には山の稜線がでこぼこと連なっている。
毎週末見ている風景のはずなのに、彼は飽きることを知らなかった。むしろ、飛ぶたびに色々な発見がある。空は彼にとって、いつも新鮮さを授けてくれる空間だった。
ふわふわとした高揚感を覚えながら、彼は機体をぐるぐると回転させていく。すると、高度がどんどん上がっていった。ソアリングと呼ばれる行為だ。上昇気流を捕まえることによって、このエンジンの付いていない航空機――グライダーは滞空し続けることができる。
この時間が何よりも、幸樹は好きだった。強引な勧誘により、流されるように入部したこの航空部だったが、すぐにその魅力にはまった。この前の春で、彼はもう三年目になっていた。それでもこうして、毎週末、滑空場に通い続けている。
この狭い操縦席の中に一人でいると、そこはかとない心細さを感じる。自分がまるで世界から取り残された、そんな錯覚すら覚える。飛行中はどこまでも孤独だ。――ソロフライトに出るようになって感じたことの一つだ。
初めてグライダーを乗った時、こうして一人で空を飛ぶようになるなんて、全く思いもしなかった。いや、航空部としての活動を続ける上では目標にはしていた。しかしそれは、はるか遠い未来のような気がしていた。
でもその夢のような目標はつい先日叶った。彼が今操っているのは二人乗りの練習機。その正式名をアレキサンダーシュライハーASK21といった。普段は教官が座る後席は今は空っぽだ。
航空機と自動車は似ている。初めから一人で乗ることはできない。どちらも熟練のドライバー――グライダーだとパイロットか――に指導を受ける必要がある。隣の席か、後ろの席か。地上か、上空か、色々と違いはあるけれど。
その訓練もようやく終わって、彼はこうして一人で空を飛んでいるというわけだった。一人乗りのグライダーももちろん存在するが、部活の方針ですぐに以降は認められていなかった。最も、幸樹の場合はシーズンが始まったばかりで、慣らし運転の意図があったが。彼は普段、単座機に乗っている。
『先輩、なるべく早く下りてくださいよ?』
順調にソアリングをしながら、幸樹はあの小生意気な後輩の顔を思い浮かべた。複座の練習機ともなれば、一人が長いこと占有することはできない。それでも後ろめたさはあるが、彼としてはもう少しこのまま飛び続けていたい気分だった。だから、操縦桿を握る手を緩めることはなかった。
高度が高くなるにつれて、遠くの方に薄い雲が見えてきた。OBの中に、分厚い雲に突っ込んで後でめっぽう怒られた者がいた。水蒸気の塊であるその内部は、極端に視界が悪くなる。余計な機械などついていないこの航空機にとっては、それは命取りになるのだ。
かといって、完全な厄介者というわけではない。雲があるということは、場合によっては強い上昇気流の存在を証明してくれる。グライダー乗りにとっては、昇るための手段は何よりの好物だ。
結局、幸樹はサーマルから離脱することにした。轟々と激しい風切り音をBGMに、操縦桿をニュートラルに戻していく。
本当はもっと飛び続けていることもできる。しかし、やめておくことにした。雲の存在はあるが、やはり後輩の言葉が気になっていた。
まあ降りたところで、仲間たちにはどやされるだろうけど。幸樹は薄く笑った。上下関係が緩すぎるのはこの部のいいところでもあるが、欠点でもあった。もちろん、気を引き締めるところはしっかりとしているつもりだが。
その時――
「あれは、なんだ?」
前方の雲から、何か黒い塊が飛び出してきた。球体をしたそれは、線上の何かがバチバチと伸びている。
何度も何度もこの辺りを飛んでいるが、それはまるで初めて見るものだった。思わず自分の目がおかしくなったのではないか、と幸樹は渋面で前方を凝視する。
やはり何も見えない。気のせいだったのかもしれない。しかし気にはなったので、幸樹は地上に無線を入れてみることにした。操縦桿の頂点についているスイッチを押す。
「ピスト、ET」
すぐに指を離す。ETというのは、この機体の管理上の名前みたいなものだ。
相手の反応を待つ。だが――
「あれ、おかしいな……」
思わず彼は眉根を寄せた。すぐに向こうから返事が来るはずなのに。
おかしいなと思いつつ、彼はもう一度、無線を入れた。
それでも返事はない。どうやら無線機が故障したらしい……面倒なことになったものだ。思わず舌打ちをしてしまう。
こうなると、急いで帰投するのが先決か。先ほど見たあの物体のことは気になったが、それを頭の片隅に追いやってプランを練り始める。
しかし――
「またかよ……」
まるで、彼の飛行を邪魔するかのように、あの黒い球体が横切った。しかも今度は、機体のすぐ前を。
思わず彼は舵を切るところだった。しかし寸でのところで思いとどまり、一つ息を吐く。鼓動が少しだけ早くなっていた。
焦りを感じると同時に、ちょっとだけ安堵するところがあった。やはりあれは気のせいではなかったのだ。だがそれもすぐに警戒心に変わる。
だとすれば、あれは何か。黒い球体について、何のアプローチも思いつかない。一介の文系大学生には難しすぎる問題だった。
これは教官案件かもしれないな、そう思うとちょっとだけ気が重たくなる。基本怒られてばかりだから、何もなくてもつい委縮してしまうのだった。今回は異常事態で、彼には非がないはずでも。
とにかく飛ぶことに集中しなければ。さっと右方向に顔を向けて、機体がいないことを確認する。もちろん、あの謎の物体も。
「視界クリア、右旋回」
機体に傾きがついていくと同時に、徐々に進行方向が右に変わっていく。スムーズに曲がれるようになるまでも、何度も練習を重ねた。
やがて百八十度回転したところで、機体の態勢を元に戻す。そのまままっすぐに飛んで行こうとしたら――
「――は?」
彼の口からは、力ない素っ頓狂な声が漏れていた。
その視界いっぱいに、分厚い黒い雲の塊が広がっている。回避行動をとるにはあまりにも近すぎた。
確かに何もなかったはずなのに――彼の顔は完全に恐怖に引き攣っていた。機首が触れた瞬間に、ありえない振動がグライダーを襲う。
瞬く間に、彼とその機体は暗雲の中に呑み込まれたいった――
*
部員たちはてんやわんやになっていた。なにせ、この部きってのエースパイロットとの連絡がつかないのだから。現在のフライト時間を告げようとして無線を入れた時、向こうと連絡が付かないことが判明した。
こんなことは初めての経験だった。主将はすぐに教官に事実を告げ判断を仰いだ。他の部員たちは、一生懸命に彼の機体を双眼鏡で探した。
果たして、向こうはこの事態に気が付いているのか、いないのか。それは判断がつかなかったが、ともかく山岡幸樹の乗る複座機は比較的滑空場に近い位置にあることだけはわかった。
しかし――
「み、見てください!」
双眼鏡をずっと覗いていた部員の一人が、慌てたような大声を上げた。そして必死にその方角を指さす。
そこには、ASK21の姿があった。見た目の特徴からして、彼の乗るETである。ちょうど旋回を終えたところだ。
その行く手を、黒雲が阻んでいる。その少し前までは、あんなもの見る影もなかったというのに。
そしてそのまま、まるで吸い込まれるように、その機体は中に突っ込んでいった――
「あれ、やばくない?」
「雨雲? いや、雷雲……とにかく、マズい!」
部員たちの中に緊張が走る。近くに機体はないものの、あれだけ巨大な雲だと、他に心配すべきことはいくらでもある。
そのままじっと固唾をのんで、彼らは上空の様子を見守っていた。もはや彼らにできることは、祈ることしかなかった。
だが――
「あ、あれ――?」
いつまでまっても、彼の機体が現れることはなかった。それどころか、黒雲は瞬く間に消えてしまった。
その後、どんな手を尽くしたところで、その機体は見つからなかった。墜落した痕跡はなかった。これはのちに、学生グライダー消失事件として、世を賑わせることになる――