葬送と息吹
景色は、何処もかしこも灰色だ。
傍らに伸びるアスファルトの道も灰色。その向こう、道端のビルディングも灰色。ビニール傘の向こうに重くのしかかる空も灰色。どこまでも灰色。落ちてくる雨粒の鈍い音すら、灰色がかって聞こえてくるような気がする。
勿論物理的にというか、実際には様々な色で溢れ返っている。丁度その季節であることもあって街路樹は赤や黄に染まり、時折はらりと舞い落ちては、きらびやかに己の美しさを主張する。それは実に美しい。景色に色がなくたってそう思えるほどに。この雨の中でさえそう思える程に。それは勿論、色があればもっと美しいのだろうけど。
しかしながら、僕の目はどの色をも受け取ろうとはしない。きっと、僕が色を持たないからだろう。
僕の心そのものが既に灰色なのだ。さながら墓石の如くに。黒でもない。白でもない。黒から逃れようともがいて、それでもどうしても白に辿り着けない、そんな色だ。境界線上。どちらともつかない、中途半端な境界線の上。そこには如何なる色も存在しようがない。全ては黒ずんでいき、僕はそれを一生懸命に白くしようとして……結局行き着く先は、灰色。
ばしゃばしゃと足元を打つ雨音が、いやに遠く聞こえた。
今日は雨なんか降らないはずだったのに。天気予報が嘘をついて、土砂降りの雨が降っている。こんな歌詞は何かの歌にあっただろうか。バラバラのメロディーが一瞬浮かんで、そして、雨音にかき消されて消えていった。無秩序な音に急き立てられて、自然と歩調が速くなる。
本能的にちらりと走らせた目線が、灰色の合間に輝く青紫色の何かを見つけたのは、正にその時だった。周囲の陰鬱さの中で不思議な存在感を放つそれは。
杜若。彼女の好きな花。
すっと走った白い線が同じ青紫を分け隔てている。境界線。僕も境界線を持っている。僕とその他を隔てる境界線。僕の境界と花の持つ境界は何故か同じヴィジョンを持っている気がして、僕は思わず、吸い寄せられるようにしてその杜若を買っていた。小振りの花束にしてもらって、そっと胸に抱えて歩き直す。
花の色がどこか心を充たしていくように思いながら、僕は寺の門をくぐった。
* * *
何度も訪れたここは、最早無意識でも歩ける。入ってすぐを左折。いつもなら、突き当たり右手の小さな建物で杓と雑巾を取る。今日は雨が降っているから雑巾だけで良いとしよう。その少し手前、六つの地蔵が並んでいるところを左折、ぼこぼこの石畳を辿って寺の裏手――墓地へ。碁盤のような墓地の道は、まず左へ直進、突き当たったら右折し、十四番目の曲がり角を右折、四つ目を数えたら、その次が僕の目的地だ。夢にまで出てきたことがあるこの道にも、灰色の石が敷かれている。やはり僕には灰色しかないのだろうか。
いや、「灰色」ではないのかもしれない。抵抗と、諦観と。絶望と、ほんのちょっとの希望。それは「墓地」とも、或いは「死」とも表現しうるような、何か。
二段だけの石段を上がる。砂利を敷き詰められた中央奥に、「彼女」はいる。いつもいつも、僕を待っていてくれるのだ。
また来たよ、と小さく呟く。
―――――――――――――――――――――――嬉しいわ、と彼女が呟く。
そんな彼女の声が、普段閉じ込めている心のどこか隅から漏れ聞こえた、そんな気がした。知らず知らずのうちに、僕は微笑を浮かべていた。そしてそうするといつも、新緑の芽吹くように、僕の中の色が蘇りはじめるのだ。まずは足元の砂利に始まり、ゆっくりゆっくり、僕の周囲を染め上げていく。白、茶、緑、黒、下から順に、ゆっくりと蘇ってくる。僕の世界に入っていくのだ。だから、代わりに今度は僕の音が消えていく。雨も、鼓動も、何もかも。潮騒が遠のいていくように。
そして色が戻ったとき、僕の世界が閉じる。
凍てつきそうに冷たい雨は、何もせずとも右手の雑巾を濡らしていった。死者を悼む涙のように、後から、後から。そうして十分すぎるほどに濡れたそれで、彼女の墓を拭く。何度も何度も。彫られた文字の隙間まで拭う。拭きながら、他愛ない話をする。最近のワイドショーはどうとか、流行しているこんなものがあるとか、あそこにあったあの店が、こんなものに変わった、とか。そんな、無価値だけれど無意味ではない話をする。
返事はない。
彼女はずっと何も言わない。僕がただ、一方的な安心感を得る為に言葉を浮かべているだけだから。逆に、返事はいらないのかもしれないけれど。僕の世界に彼女がいるのだから、もうすでに必要としていないのかもしれないけれど。
いつの間にか僕の傘は傍らに落ちてしまっていた。だが、それも気にならなかった。それらは僕の世界に属するものじゃなかったから。気にせずに拭き続ける。そして全部綺麗にしてしまったら、持参した線香を供える。ありきたりなものの中に、彼女が大好きだった木蓮のお香を一本だけ添える。これは実に良い匂いがするのだ。彼女の家は、どこもかしこも木蓮の匂いがした。
最初に行った時には「お寺の匂いがするなぁ」なんて不用意なことを言って、思いっきり膨れられてしまったっけね。そんなことも思い出して、小さく呟いてみたりした。
そして仕上げとして、さっき買った杜若の花束を手向けた。死者の顔容の如き墓石の前に、その色の鮮やかさは脈打つ血潮のようでもあった。或いは色こそ違うが、女性が頬にはたくチークだろうか。
いや、それは彼女に吹き込まれた一時限りの命であったのかもしれない。
花の色彩に呼ばれるように。僕の想像力に勢いを得て、彼女の呼ぶ声が、華奢な肢体が、絹さながらの長い黒髪が、どこかにあどけなさを残した端正な顔が、風に吹かれた落ち葉のようにふわりと立ち上がる。記憶の中に残る君が、僕の閉じられた世界に投影されて、そして満たしていく。
透き通った空間に己を映して、彼女――君は、ふわりと微笑んだ。僕はもうコートを着込んでいるというのに、君はミント色の薄いワンピースしか着ていない。忘れようも無い。それは、君が死んだその日に着ていたものだ。
僕は驚かない。これはいつも見える幻――そう、「幻」だから。
何故ならば、僕はそれを見ていたからだ。君が椅子に上り、首に縄を掛け、僕に微笑み、一言だけを告げて、乗っていた椅子を素早く蹴り飛ばしたのを。
そして僕はその感触を覚えているからだ。君をミント色のワンピースごと抱きしめて、無我夢中で体重を掛けたのを。君の蹴り倒した椅子をもう一度立てて、その上に乗ったのを。先にかけてあったもう一つの縄を首に掛けて、乗っていた椅子を蹴り飛ばしたのを。
覚えている。
今目の前に立つ君と同じくらいに。墓石の前に備えられた杜若の、その花の鮮やかさと同じくらいに。
あの時の、君の遺言を正しく受け取る前の僕は、君がわざわざ友達をその場に呼び付けていたなんて知らなかった。しかも僕が気絶してから死ぬまでに発見、通報、救急車が来るという、何とも理想的なタイミングで。死んだ君が多少運命の糸を操ったのだとしか思えない出来事だ。
本当に操ったのかな、と聞いてみたら、君は肩をすくめて苦笑した。
病院で目が醒めた時、本当に悪い冗談か何かだと思った。君だけが死んで僕だけが生き残っただなんて、そんな話がある訳無いと。僕と君はあの日、一緒に死ぬ約束をしていたのに。ある訳無い。そう。今この時でさえ、僕はそんなことある訳無いと心のどこかで思っている。
一緒にこの世界を後にしようと、もっともっと良い世界に行こうと、そう約束したはずだった。愛する者を葬って、愛する者に葬られて……そうなる、はずだった。僕も君も、確かにそれを望んでいた、そのはずだった、なのに。
どうして、と疑問符ばかりが浮かんだ。
君がいなくなってから、いくつもの夜をそうやって過ごした。
だけど。それも今日で終わりだ。そんな幸せな夢を見ようとするのは、そんな美しい幻想にすがり付こうとするのは、今日が本当におしまい。
彼女の視線をまっすぐに受け止めたまま、僕はそれを口にした。
――僕は今日、君にさよならを告げに来たんだ。
彼女の目は、大きく見開かれた。それは生きていた時と同じ、驚いた時の癖だ。どう説明したものか迷う僕の沈黙は、秋風が木々をそよがせてごまかしてくれた。
遺言があったね、と僕は喋り始めた。
* * *
君の遺言は、たった一言だった。それも、僕たちが互いに気持ちを打ち明け合ってから、いつもいつも君が僕に言う台詞だった。
「私を、幸福にして」。
付き合いはじめて間もない頃、僕はそれを「何でも私の理想通りにして」という意味だと思った。君の欲しいままに揃えることを、君の望むままに振舞うことを、僕は君に対する最高の愛情表現だと思った。
暫くして今度は、「もっともっと愛情を思い切り見せて」という意味だと思った。君の欲求に従っているだけじゃ、本当に君を満たすことなんてできないんだろうなって。君がその瞬間望んでいないことであったとしても、後々君のためになることならばなんだってしてあげるべきなのだと思った。
二人して憂鬱な時には、「生死も愛の視点から考えて」だと思った。その頃から僕は君の手で殺されることを願うようになっていた。愛する人の温もりを、一番近くに感じながら死にたかった。もしそれが叶わないというのなら、僕が君を殺したっていいと思っていた。君の最後に僕を、僕の最後に君を。刻み付けることができるとしたら、それはどんなに幸せなことだろう、と。
君を幸福にしたくて、僕はいつもいつも悩んでいた。沢山の考え方をした。それが結局、君の望んだことだったのかは分からないけど。
そして自殺の直前、君は「殺して、そして私を解放して」という意味で言ったのだと僕は受けとった。そして僕は、それを忠実に実行した。何も喋ったりしなかった。泣くことすらしなかった。――否、出来なかった。やっと本当の幸福を得られる君の前で、どうして僕が泣くだろうか。君は解放される。それは喜ぶべき事態であって、何一つ嘆くべきではないのだ。
但し、「僕も一緒に死ぬ」という前提なら。
それなのに、君は僕を死なせなかった。わざわざ人を呼んで、僕を生かした。これは嘆くべき事態だ。君が何をしたかったのか、あの時の僕には知る由も無かった。
* * *
ごめんね。気付くのにこんなに時間が掛かった。
彼女のまっすぐな視線が妙に痛くて、そっと視線を逸らす。
君は「幸福にして」と言った。もし僕が君だったらどう思うのだろうと考えて、やっと気付くことが出来た。やっとだ。こんなにも長い時間がかかってしまった。君をこんなにも長いあいだ、待たせてしまった。
間違ってるかもしれないけど、と僕は続ける。
もし僕が君だったら、そして何よりも欲しているものが死だったとしたら。きっと死の恐ろしさを知っているのは、君よりも死を欲している僕だ。だって自分がどういう覚悟で、どれだけのものを引き換えにしてそれを手に入れようとしているかは、自分が一番よく知っているはずだから。それがもう本物の最終手段であることを、僕は一番よく知っているはずだから。
君に対して僕がもっとも欲するのは、勿論君の幸福だ。そして、恐らく僕との死の中には、純粋な幸福などありえない。すべてを犠牲にした逃避の先に、何が残るか。僕は知っている――その先に残るのは、限りなく透明に近い――灰色。
そんなもの、手に入れて欲しいと思うはずがない。
あの時君を抱きすくめた僕が、小刻みに震えていたように。
すると僕は、君に生きていてほしいと思うのだろう。
純粋に人生を楽しむことができなかった自分の代わりに、少しでも長く生きて、幸福を掴んで、そして……そしていつか僕が、またこの世界へ帰りたいと思えるような素敵な人生を送ってほしい、と。
つまり、そういうことだ。違う?
僕の問い掛けに、彼女は少しだけ淋しげな顔をして、それから、肯定を表すように柔らかく微笑んで見せた。脇に垂らしていた彼女の腕が後ろに回され、一歩後ずさる。拒絶を示すように。絶対的な別れが、そこに迫っている。少しずつ、ほんの少しずつ、僕の音が戻り始めていた。墓石が雨に叩かれている。無秩序なその音が、僕を、そして君を、急き立て始める。
ああ、終わってしまう。
大事なのは君に執着することなんかじゃなかった。君の幸せのために、僕が幸せになることだったんだ。君に、僕の幸せを見せつけてやることだったんだ。僕はこんなにも楽しく生きているんだぞって。君がいなくなっても僕は生きていけるんだって。君の目に、そうやって……。
こくんと、彼女は頷いた。そして、また一歩後ずさる。堪らず僕が一歩踏み出す。彼女は一歩後ずさる。ぱしゃりと、砂利が喚いた。
ここには、どうしても越えられない境界がある。絶対に超えてはいけない、白と、黒の、その境界が。限りなく朧げな、それでいて限りなくはっきりとした境界が。
超えてしまいたかった。
彼女を失うのは怖い。行かないで欲しい。いつまでも僕の隣で、僕と同じ世界で、僕に笑いかけていてほしかった。叶わない願い。取り戻せない命。越えられない境界。彼女は行ってしまう。分かっていたことだ。覚悟はしていた。いつかこの日が来ることも、これがもっと早くに訪れるはずだったことであることも、全部全部、知っていたはずだった。
受け入れなきゃいけない。逃げてはいられない。その為に今、僕はここにいる。
だけど。
――――――――――――――――――僕は、彼女に向かって両腕を広げた。
君は、驚いて。
泣きそうな顔をして。
それでも笑って。
同じように両腕を広げて。
僕に駆け寄って。
僕は、そっと、目を閉じて。
あまりにも長い一瞬の中で、僕は君の華奢な身体を、君と過ごした日々の思い出を、君という存在を、全部全部抱きしめて。
そして。
一瞬だった。
急に吹いた冷たい風が、君を散らした。
失せた君のぬくもりに驚いて目を開けると、彼女の身体は真っ青な杜若の花びらになって、いつの間にか晴れ上がった空へと舞い上がって行った。どこか遠くに、僕の傘が転がっていく音がした、そんな気もした。つぼみの開くように、僕の世界がひび割れて散っていく。君と過ごした世界が、君と過ごした時間が、僕の周囲を嵐のように駆けて、そして消えていった。ミント色のワンピースが、細かい砂利になって地に落ちる。舞い上がる花びらの、龍のようなその中から、聞こえた言葉はやはり一言だけで。
私を、幸福にして。
微笑む僕の頬を、一条の涙が伝う。彼女を失ってから初めて、僕は泣いた。その上に、雨粒が一つだけ落ち。最後の最後に残ったひとひらが、まるで女性のはたくチークのように、濡れた僕の頬に張り付いていた。
* * *
あれから僕は沢山の幸福に囲まれて、日々を生きている。
僕が抱えていたはずの灰色はどこかへ飛び去って、世界は色彩に満たされた。久しぶりに見る世界は本当に美しくて、なんだかもうそれだけでも十分すぎるほど幸せな気がした。これも君の励ましなのだと思ってしまう僕は、やはり自分が思っているほどに依存からは抜け出せていないらしい。
彼女も知っているはずだ。僕の首には、クリスタルに閉じ込められたあの杜若の花びらが、今も濡れたように煌めいていることを。雨が降る度、未だに僕は君のことを思い出して、塞ぎ込んでしまうことを。
申し訳なくは思うのだ。あんなことを言っておいて、それでも僕はまだ、君の面影を捨てられずにいる。君の幻影を抱くことを、止められずにいる。
もう少しだけ、僕が弱いことを許して欲しいんだ。
ねぇ。
僕が泣いたあの時、君も泣いていたのかな。僕の頬に杜若を貼り付けたのは、僕の涙じゃなくて、君の涙だったのかな。分からないけど、もし君が泣いていたのならば、その涙と杜若に免じてはくれないかな。
もう少しだけ。そうしたら僕は、今度こそ君を振り切ることができる。そんな気がする。いや。振り切る。振り切ってみせる。
杜若。「幸福は貴方のもの」。
君の幸福の為に、僕はこの日々を一生懸命噛み締めて、持てる限りの幸福を享受している。一度終わりかけたこの人生を、僕はもう一度、生き抜いてみようとしている。
世界は灰色を捨てた。僕は色彩を手に入れた。
そしていつか、いつか僕が君の許へ行ったならば。
その時こそは本当に、「幸福は貴方のもの」。