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新しい明日へ

「――――ふぅ……」

 素肌が外気に触れるのが、やけに久しぶりに感じた。

 実際は三時間ほどの出来事であったが、体感的には丸一日はヒーロースーツに包まれていたような気がしていた。

 体中が筋肉痛のように痛むが、幸いにも目立った外傷はない。全て結界のおかげだ。

 ボロボロになったガントレットを見つめながら、あらためて大輝は結界のありがたみを噛みしめ、心の中で感謝の言葉を呟いた。

「……はぁー……よかったぁ」

 傍らでは七海が座り込んで、大輝の腕に寄りかかっていた。

 大輝の無事な姿を確認してようやく緊張の糸が解けたようだ。そしてまた、今日何度目になるかもうわからない涙を零し始める。

「………………」

 ぐすぐすと泣く七海を見ながら、大輝の胸にも安堵が広がってゆくのと同時に、自分が何のためにこの戦いに赴いたのかを思い出す。

「――ごめんね、七海」

「え?」

 いきなり向き直ったかと思うと、なんのことだかわからない謝罪を受けて、七海は面食らった。

「さっき公園で、僕、七海にあんなひどいこと言っちゃって……ごめん」

 大輝の戦いの理由は、ただ七海を助け出すことではない。自分の仕打ちを謝ることだった。時間はかかってしまったけれど、ようやくちゃんと目的を果たすことができたのだ。

 七海は頭を下げる大輝を見ながら「んー……」と逡巡をした後、

「バカ」

 と呟いてから、ペチンと頬を叩いた。

 いきなりのことでびっくりしたものの、公園の時とは違い痛みはなく、軽くタッチされただけだった。

「これでチャラにしてあげる」

「……許して、くれるの?」

「うん。……それよりも……助けてくれて、ありがとう。大輝、凄くかっこよかったよ」

 言うが早いか、七海は大輝の体をギュっと抱きしめる。

 さっきまでは戦いや再会の衝撃で頭がいっぱいで何とも思っていなかったが、いざ冷静になってみると「女の子に抱きしめられる」という状況のとんでもなさを理解して、急に恥ずかしくなってきた。

 いくら小さい頃一緒に寝たり、風呂に入ったりしたことがある幼馴染が相手とはいえ、もう小学三年生にもなると、相手を意識せずにはいられない。しかも相手はクラスはおろか、学校内でもかなり可愛い部類になる。

「離れろよ」

 ――普段だったらそう言っていただろうが、喜びと安心に彩られた七海の笑顔を見ていると、そんな言葉も彼方へと吹き飛んでしまったのだった。

(まあ……今くらいは、いいかな)


「なんか、羨ましいなぁ……くそう、今時の小学生め」

 少し離れた場所で、大輝と七海が抱き合うのを見つめ、微笑みを浮かべながら佐知子が呟いた。

「ん?何か言ったか」

 地べたに寝転がったままディートリヒが尋ねた。もう起き上がる余力も残っていないようだ。

「……いーえー。ステキな光景だなーって」

「……そうだな」

 ディートリヒも小さく笑みを浮かべる。全ての戦いを終えて、完全に安堵しているようだった。

「しかし……今回の戦いはギリギリだったな……。己の未熟さを痛感したよ」

 先ほどまでの笑みが苦笑へと変化し、言葉と共に溜息が零れる。

「一緒に戦えたのが君でよかった。本当に、君は命の恩人だ……ありがとう」

「いえ、そんな……」

 褒められ慣れていない佐知子は面はゆくなり、手を振って否定する。

 ディートリヒは様子を察しながらも、念を押すようにさらに続ける。

「助けられた当の本人が言うんだ、素直に受け取っておいてくれ」

「…………はい」

 自分より格上の魔術師であるディートリヒに認められたことは、やはり嬉しかった。自然と佐知子の顔がほころぶ。

「しかし、作戦を聞いた時はさすがに驚いたよ……君が"表面偽装スクリーニー"で囮になって入れ替わり、私を透明化させるなんてな」

「でも、私が戦うよりは現実的ですから……」

「まあそうだが、しかし無茶な戦法だよ。……最初に出会った時の印象とは、実際正反対だったな、君は」

「最初、どんな印象でしたか?」

 言っておいてディートリヒは、しまったと思った。たっぷり十秒ほど、沈黙が二人を支配する。

 じぃ、っと見つめてくる佐知子の目を見て、ディートリヒは観念して口を開く。

「……地味でとろい臆病なルーキー」

「ひっど……。……でもまあ私も、いっつも眉間に皺寄せた不機嫌かつ不愛想な、感じの悪ぅーい本部の魔術師だと思ってましたけど」

「……君の方がよっぽど酷いじゃないか」

 互いに苦笑しながら、段々と笑いが大きくなる。

「……でも今は、優しくて頼りになる人だって、知ってます」

 レンズの向こうで佐知子は目を細めた。

「私も……大胆で度胸があって、絶望的な戦力差を機転によって埋めてしまえる……言うなればダイヤの原石だと知ったよ」

 しばし二人は穏やかに笑った。先刻まで死闘を繰り広げていたとは思えない穏やかな空気が流れていた。

「さて……すまないが、改めてもう一人の恩人にお礼を言いに行かなくてはな。すまないが、肩を貸してほしい」

「はい……あー、いや、ちょっと待っててください。二人を呼んできます」

 佐知子はディートリヒの体を気遣い、二人の元へと駆け寄って行った。

「ねえ、えっと……大輝君、七海ちゃん」

 抱き合う二人の邪魔になるかな、と思いつつ、佐知子は二人に声をかける。

「え?……あっ、ちょ、な、七海、もういいだろ」

「ん?あっ……う、うん」

 すっかり二人は自分たちの世界に入り込んでいたが、佐知子に声をかけられ急激に現実へと引き戻される。

 人目に触れていることも忘れていた二人は途端に気恥ずかしくなって、パッと離れた。大輝も七海も、真っ赤な顔をしている。

「……ごちそうさまでした」

 佐知子はぼそり、と呟く。

「で、えっと、魔術師のお姉さん、だよね」

 大輝と佐知子が話すのはこれが初めてだった。互いにろくな挨拶もないまま信頼し共闘をしていたのは、今考えると奇妙なことだった。

「うん。河口佐知子って言います」

 いまさらかとも思ったが、礼儀として佐知子は挨拶し頭を下げる。つられて二人も頭を下げる。

「倉田大輝です」

「菅野七海です」

「うん、よろしくね。聞きたいこととかも色々とあるだろうけど……とりあえず、あっちのお兄さんがお礼を言いたいっていうから、ちょっと来てくれるかな」

 大の字で寝そべるディートリヒを指差して答える。

 それを見て二人は――特に大輝はあの爆発を思い出して心配になる。

「あっ……そうだ、あの人大丈夫だったの?」

「うん。あちこち怪我はしてるけど、命に係わるようなことはないから大丈夫よ」

「よかったぁ……」

 胸を撫で下ろす大輝を見て、佐知子は「ああ、いい子なんだな」と心の中で一人ごちた。

 ディートリヒの元へ二人がやってくると、ディートリヒは佐知子に頼んで上半身だけを起こしてもらい、二人へ向き直った。

 二人は佐知子にしたのと同じように自己紹介をしたので、ディートリヒも挨拶を返す。

「ディートリヒ・ヘルムート・フェヒナーだ。……ありがとう、大輝。君のおかげで一宮に勝てた。いや、それどころか、最後は完全に助けられたよ」

「私からも、ありがとう」

 大人二人に頭を下げて感謝されるという未知の事態に、大輝は先ほどまでの勇敢さはどこへやら、慌てて首を振った。

「ぼ、僕は全然……。おじ、お兄さんたちが居なかったら、僕だって、七海だって助からなかったし……あの、ありがとうございます」

「本当に、ありがとうございます!」

 大輝と七海も、二人に向かって感謝の意を表す。互いに心からの感謝だった。

「……そうだ。七海、君はもう自分が……その、どうして攫われたのかは、知っているのか?」

 ディートリヒが唐突に忘れかけていた話題を切り出した。

 忘れかけていたことを思い出して、七海の表情が諦めたような笑顔に変わる。

「…………うん、聞いた。"音叉"とか魔術師とかよくわかんないこと言われたけど……つまり、私もディートリヒさんたちみたいなんでしょ?全然、自分じゃわかんないけど」

「ああ、そうだ。それでなんだが――"協会"という、私たちの組織に入らないか?」

「え?」

 あまりにも急な提案だった。これには七海はおろか、大輝、佐知子まで驚いた。

 皆の視線が七海へと移るが、いきなり言われたところで、そもそも今日まで魔術というものを知らなかった彼女には答えようがなかった。

 答えあぐねていると、

「まあそう急くこともないだろう」

 と、すっかり忘れ去られていた老人が割って入った。

「あ、博士!」

 大輝は嬉々として老人に近寄る。だが一方、佐知子とディートリヒの表情は険しく変わる。

 助けてもらったものの、結局この老人の目的も素性もわからないままだったことを思い出したのだ。

「……なんだ、その顔は。いまさら何を警戒しておる」

 老人は呆れ顔で言い放つ。

「ご老人。……本部への不審な電話はあなたの仕業か?」

 ずっと気になっていた、自分たちが来ることとなった発端を、ついにディートリヒは尋ねた。

 一方の老人は平然として、

「そうだ」

 と答えた。

「あなたのも」

 ディートリヒはさらに続けて質問をしようとするが、それを引き受けるように老人が続ける。

「私の目的や正体、そもそもなぜ、どこで今回の事件を知ったのか?……聞きたいのはそんなところだろう。皆まで言うな」

「………………」

 言おうとしていたことを先回りされてしまい、ディートリヒは不機嫌そうに口をつぐんだ。

「まあ質問はさておき。……小僧と娘。察するところにお前らは、かねてより自らの無力を知り、人生を諦観して過ごしていたようだが……しかし今日、お前らは確かに非凡な才能を発揮して見せた」

 老人は誰を見るでもなくそっぽを向いて、かつかつと狭い距離を往復しながら講釈を始めた。

 四人とも老人が何を始めるのか不思議だったか、それでも一人として口を挟むことはしない。いや、出来ないと言った方が正しい。

「さて、お前たち。凡才と非凡の違いはなんだ?」

 唐突な質問に、四人は顔を見合わせた。

「……頭がいい?」

 大輝が答える。

「ふむ。知識というより機知に富む、というべきか。しかしその解答に点数はやれんな。次」

「弛まぬ鍛錬と日々勉強を続けることが出来る者」

 ディートリヒが答える。

「なるほど。近い、が満点ではない」

 老人は四人の前に戻ってくると、ぴたりと足を止めて振り向く。

「私が考える非凡な者というのは地力がどうというよりも、必要な場面で十二分の力を正しく発揮できる者だ。故に大輝、そして佐知子。お前らは非凡であると言える」

「僕と……」

「……私が?」

 話を振られて大輝と佐知子は、ぽかんと気の抜けた表情で答える。

 そんな彼らを見て老人は相好を崩し、話を続ける。

「大輝。確かにお前は自分で言うように、臆病者ですぐに泣き出す弱虫だ。だが弱いと自覚しながらも、ちっぽけな勇気を奮い敵へと立ち向かい、見事勝利を収めた。その勇気はお前の才覚だ」

 そして、と小さく呟いてから、

「佐知子。地味で魔術の腕もまだまだ三流、レパートリーにも欠ける。だが自らの数少ない力を理解し適切に運用することで、圧倒的な戦力差を覆し、活路を切り開いた。その機転はお前の才覚だ」

 と言い切ると、改めて二人に笑顔を投げかけた。

「狭い料簡で自らの可能性を閉ざすな。成功も失敗も養分とし常に成長を続けろ。そして、いつか来るメイン・ストリームに備えろ」

 言い終えると老人は"葛葉博士"の姿から、再び大輝が最初に出会った時の、コートを纏った元の姿へと戻った。

「…………!?」

 大輝以外の三人は、突然の変化に目を見開く。大輝は大輝で、やはり驚いていた。

 四人の反応を見て満足そうに頷きつつ、老人は不意に天を仰ぐ。

「……ふむ、協会の連中が来たようだな。さて、その前に」

 老人は大輝のガントレットに手を翳す。すると一瞬にしてガントレットの罅は消え去り、新品同様元通りに復元された。

「わっ……!」

「そしてこれはサービスだ」

 さらに老人が指を鳴らすと、ガントレットは指輪へと変化した。だが、何故か指輪は二つある。

 何の装飾もない、シンプルな白い指輪と黒い指輪。

「白い指輪は小僧、お前のセイマン・ガントレット。黒い指輪は……小娘、お前用のドーマン・ガントレットだ。この先も似たようなことがあるだろう、その時に使うと言い……便利だからと言って、あまり悪用するなよ?それと、だ」

 さらに老人は七海の額に手を翳した。

 一瞬、空気中に波紋が生じたような圧力めいた妙な感触が響く。

「!?えっ!?何……これ!?」

 七海が戸惑いを見せ、周囲もその反応を見て困惑する。

「なッ……一体、何をした!?」

「案ずるな。この小娘のチャネルを開いてやったまでだ。遅かれ早かれこうせねばなるまい?この先のことは協会の方でどうにかしてやれ」

 魔術師の素質があるが覚醒していない場合、撹拌波動という特殊な波動によってチャネルを開くのだが――チャネルを開くのは非常に困難で、本部の習熟した人間を連れてきて行わねばならず、一般の魔術師が真似できることではない。

 それをいとも簡単に行うなど、普通の魔術師では考えられない――ディートリヒは戸惑いの中で、ふとある単語を思い出した。

「――"精霊"……そうだ、"精霊スピリタス"!」

「ほう!」

 珍しく老人が感嘆の声を上げる。言葉と表情には明らかな喜色が滲んでいた。

「若造。どこでその名を知った?」

「……変幻自在、規格外の力を持つ、魔術師でもケイオスでもない存在。それが我が師、エルンストより何度か聞いたものだが……おとぎ話とばかり思っていたが、まさか……」

「エルンスト?あの青二才が、お前の師匠だと?ほーう……あいつも立派になったものだ。いや、最後に会った時はまだお前くらいの年の頃だったんだが……時の移ろうのは早いものだ、ハハハ!」

 愉快そうに笑う老人、愕然とするディートリヒ、話題にイマイチついていけない佐知子、そして完全に蚊帳の外の大輝と七海は、思い思いの反応で困惑を露わにする。

「いや、面白い話を聞かせてもらった……私は今とても気分がいい。答えるつもりはなかったが、先の質問に答えてやろう」

「…………!!」

「まず正体に関してはお前の言う通りだ。事件を知り得たのは"小記録"によるもの。そして目的は――来たるべき"メイン・ストリーム"に向けて"変革者イノベイター"の中から"逸脱者アースシェイカー"を増やすこと」

「"小記録"?"逸脱者"?……一体、それはなんだ!?」

 次々と飛び出す未知のワードに頭を悩ませながら、さらにディートリヒは踏み込んで尋ねようとした。

 しかし、

「――おっと、残念ながら時間切れだ。――若者たちよ、真理への到達を目指せ!さすれば自ずと私の言葉の意味を知ることになるだろう!」

 遠くから足音が近づくと、老人はその場で踵を返す。

「な!?ま、待て!!」

 ディートリヒは手を伸ばす。だが痛みの所為で、思うように体が動かない。

「いずれまた会おう!絶えず変化を続け、また私を楽しませろ!さらばだ!!」

 恭しく手を振りおろし、霞の如く老人は消滅した。

「………………行っちゃった」

 ぽつり、と七海が呟いた。

「あ……お礼、言いそびれちゃった」

 続けて大輝が零した。

「でも、また会おうって言ってたから……今度会ったら、その時一緒にお礼言おうよ」

「……うん、そうだね」

 七海と大輝は顔を見合わせて頷いた。

 その後ろでは、呆気にとられた大人二人が、未だ茫然と老人が立っていた場所を見つめていた。

 だが次第に大きくなる無数の靴音が現実に引き戻すのは、もう間もなくのことである。



 その後は怒涛の勢いで物事が進んでいった。

 数十人の協会の魔術師が現場に到着するなり四人のところへ駆け寄り、その場で魔術によってディートリヒと佐知子の応急治療が行われた。

 何故か傷一つない一宮と敵の一団に首を傾げながらも、その場の敵全員を拘束して連行したが、傷を癒したのはあの老人だろうということは、四人にはすぐに察しがついた。

 正直に話すと面倒なことになると考えた結果、大輝のスーツについては伏せて、それ以外のことは老人のこと含めて包み隠さず説明した。話を聞いた協会の人間は老人のことを疑問に感じていたが、事態が事態だけに信じざるを得なかった。

 一時間近く質問を受けたあと、大輝と七海に事件を秘密にすることを約束してから、二人は警察内部に潜伏している協会の人員を通じ、無事に家へ帰れることとなった。

 帰らない子供を心配した両親と出会った二人は、またボロボロと泣き出した。

 一般人である両親に事件のことをそのまま伝えることは出来ないため、表向きには「帰り道で二人は変質者に遭遇し、怯えて縮こまって隠れていたところを、不審者が居ると通報を受けた警察に発見され保護された」ということになった。

 もちろん二人は口裏を合わせて頷いていたが、二人きりになってから「嘘ついちゃったね」とこっそり笑い合っていた。


 こうして、長すぎる戦いの一夜は、静かに幕を下ろした。



 事件が終わり、必要以上に両親に気遣われる土日が過ぎて、月曜日。

「行ってきまーす!」

 表向きの理由の所為で二人の両親は心配していたが、大輝と七海は心配を吹き飛ばすよう元気に家を出た。

 あの事件の日から、あっという間に二日が過ぎた。

 新聞の地方欄にも、いくつか事件の痕跡についての憶測混じりの報道があったが、いずれみんな別のニュースに気を取られて忘れてしまうだろう。

 いつまでも覚え続けるのは、真実を知る大輝と七海だけだ。

「……なんか、夢でも見てたみたい」

 冷たい朝の空気に白い息を吐き出しながら、大輝が呟いた。

 七海も横目で見ながら答える。

「ほんと。でも……」

 二人は同じタイミングでポケットを探る。

 取り出されたその掌には、白と黒のリングが輝いていた。

「夢じゃないんだよね」

「うん」

 しばし二人は黙り込んでしまう。何だか互いにぼんやりとしていた。

 当たり前だと思っていた平和は、簡単に崩れ去ってしまう。

 幼いながらその事実を知った二人には、再び掴み取った日常がとても貴重であるように感じた。

「あっ……そろそろ仕舞わないと。誰かに見られるとうるさそうだし」

 遠くに同じ学校の生徒を見つけ、大輝は指輪をポケットに戻した。

「ん、そうだね。……二人だけの秘密だね」

 にやりと思わせぶりに七海が笑った。

 大輝はどう答えていいのかわからなかったので、

「……うん」

 と無難に返した。



 ガラガラと教室のドアを開けて入ると、既に半数近い生徒が登校していた。

 金曜日、大輝に試練を与えた舟木たちも、もう集まって雑談をしていた。

 が、七海と一緒に入ってきたのを見つけるなり、舟木は大輝の席へ向かった。

「………………」

 無言で威圧的に舟木が佇む。

 しかし、あれほど怖かったはずの舟木が、今の大輝にはちっとも怖く感じられなかった。

 自分がやけに冷静なのがわかって、驚いたような納得したような、妙な気持に襲われた。

「おはよう、舟木」

「……おう」

 あまりにも普通な返事が返ってきたせいか、却って舟木が動揺したようだった。

「お前、今日もあいつと一緒に来たのか。……じゃあ絶交してないんだな」

 クラスメートは一様に興味津々といった雰囲気で、遠巻きに舟木と大輝の様子を眺めている。無言で見つめる者、にやにやと見る者、ヒソヒソと耳打ちをしながら話す者と様々だったが、もう一人の当事者である七海は席に荷物を置きながら余裕そうに眺めていた。

 教室中の視線を一身に集めながら、大輝は堂々と口を開く。

「うん」

「……俺らと遊ばなくてもいってことかよ」

 大輝は少しだけ考える素振りを見せてから、首を振った。

「んーん。一緒に遊べないのは寂しいけど……でも、僕が絶交して七海を泣かせて、それでも平気な顔して一緒に遊ぶような酷い奴にはなりくないから。だから、七海と絶交はしない」

 舟木の目を見据えながら、大輝はきっぱりと言い放った。

 そのあまりにも意外な一言に教室が水を打ったように静まる。

 さすがの舟木も判断に困り、口をあんぐりとしたまま絶句していた。

「――舟木、もう止めなよ!」

 教室の後ろの方から、見るに見かねたといった様子で女子の誰かが叫んだ。

 それが引き金となったのか、堰を切ったように次々と言葉が飛び出す。

「女子と仲良くしちゃダメって、男子馬鹿じゃないの?」

「いじめてるって先生に言うよ!」

「空気悪くなるんだから、仲間外れにしないで普通に遊びなよ」

 主に女子から一斉に非難の声が次々に挙がる。これには舟木も、その取り巻きもたじろいでしまう。

「じゃあ大輝、俺たちと遊ぼうぜ」

「そうだよ、嫌だったらこっち来いよ」

 さらに別グループの男子たちも庇い始めた所為で、一気に舟木の立場がなくなってしまう。

 てっきり舟木にぶたれでもするかな、と思っていた大輝は周囲の予想外の応援に却って戸惑った。

「ち、ちょっとみんな……」

「……わ、わかったよ。……絶交とかもうウソだから。これからも仲間外れにしたりしねーよ」

 元々悪い奴ではなく、思春期特有のもやもやとした気持ち故の行動だった所為か、舟木が折れた。

 さすがにここまで言われてまだ仲間外れにしてしまうと、却って自分がみんなからのけ者にされてしまうだろうという考えもあったのだろう。

「おーい、何騒いでるんだー。とっとと席に着け―」

 騒動が丁度終わったところでチャイムが鳴り響き先生が教室に入ってきたため、生徒たちは急いで着席した。だが大輝を見ながらヒソヒソと噂話をする声は、教室のそこかしこから聞こえてきた。

 丸く収まって安心した大輝はほっと息をつきながら、ふと七海の方を振り向いた。

「………………」

 視線に気が付いたのか、七海も大輝の方を、どこか嬉しそうな表情で見つめ、小さく手を振った。

 それを見た女子の何人かが、小さな声で「きゃー」と騒ぎ立てたが、先生が「うるさいぞー」と言うと、またヒソヒソ話に切り替えてしまった。

(…………なんか、今度は別の意味で、大変なことになるかもしれない)

 大輝はこれからの波乱の予感に苦笑いしながら、一時間目の国語の教科書を開いた。



 女子からの好奇の視線に晒され、さらに男子からも茶化されつつ、何とか放課後を迎えた大輝と七海は、逃げるように教室を飛び出した。それが一層クラスメートの噂の種になるのだが、教室に居るよりはマシだった。

 下校する生徒たちの群れに紛れるようにして、二人も足早にスタスタと歩いてゆく。

「さっきからもー、みんなうるさい!ともちゃんまで「告られたの!?それとも告ったの!?」とか聞いてくるしさー」

 口調はうんざりとしていたが、そう言いながらも七海は満更でもない様子だった。

「舟木にああ言っちゃったの、マズかったかなぁ……また明日もこんな調子なのかなぁ」

 一方で大輝は、七海との関係をからかわれるところを想像してげんなりとしていた。

「あ、なにそれ。……私のこと、やっぱりホントは嫌いだとか言っちゃうの?ふーん……」

 冷たく目を細めた七海に刺すような視線を向けられ、大輝は慌てて弁解する。

「ち、違うって!あれはだからその……とっさのウソっていうか……」

 しどろもどろになりながら言い訳をする大輝を見て、耐え切れなくなった七海はぷっと噴出した。

「あははは、じょーだんだよ。……だって、助けにきてくれたもん」

 七海はしみじみと噛みしめるように言った。

 照れくささもあったが、それ以上に大輝は助けることができた感慨と、戦いへの恐怖を思い出していた。

「………………」

 二人は戦いを思い出し、沈黙してしまう。

 そのまま淡々と歩いているうちに、公園へ差し掛かった。

 大輝が絶交を言い渡して後悔し、七海が誘拐され、不思議な老人に出会い力を授かった公園。当たり前の景色が、思い出によって特別な場所になっていた。

「……これからはここ、通らないようにしようか?」

 七海を気遣って大輝が尋ねた。

「……ううん、いい」

 そっと呟くと、七海は一人公園へと入ってゆく。

 却って大輝の方がその後ろ姿を見て不安になる。攫われたあの時の光景が脳裏をよぎる。

「ま、待ってよ」

 急いで追いかける大輝だったが、七海は途中で立ち止まり、植え込みの向こうを見つめていた。

「どうしたの?」

「……ここから、全部始まったんだよなーって。あの時は全然、何が起こったとかわかんなかったけど。でも……」

 七海が植え込みの木に手を翳した。すると、風もないのに葉っぱがそよそよと揺れ始めた。

「……夢じゃないんだよね、やっぱり」

 それは拙いながらも、しかし紛れもなく魔術であった。

 すぐ目の前に七海は居る。それなのに酷く遠くで孤独に立ち尽くしているような気がした。まるで蝋燭の火のように頼りなく弱々しい。

「ねえ、大輝。これからも私……やっぱり襲われるのかも。……でも、私も……強くならなくちゃね」

 今まで見たこともないような、痛々しい気丈さだった。

 体ではなく、七海の心が震え怯えているのが、大輝にもわかった。

「――――ッ」

 思わず大輝は七海を抱きしめていた。自分でもどうしてこんな行動をとったのかわからないけれど、そうしなくてはならないような気がしたのだ。

「だ、大輝?ちょ、こんなとこで……」

 いきなり抱きしめられた七海は公衆の面前で抱きしめられた恥ずかしさに動揺するが、大輝の耳には届いていない。

 大輝はただ必死だった。

「僕も」

「……え?」

「僕も、強くなるよ。もっと体も鍛える。空手とかも習う。だから……それで、七海を守るから」

 大輝の右手人差し指には、いつの間にか白い指輪が輝いていた。それは、彼なりの決意表明だった。

「…………うん」

 七海の瞳は潤んでいた。ごまかすように目をつむり、そして――、

「――んっ?」

 ――大輝の頬に、柔らかい感触が触れる。

 それがなんなのかわからなかった大輝は、七海に視線を移す。

 いつの間にか七海の顔は真っ赤に染まっていた。だがその表情は笑顔のままだ。

「――期待してるぞ、私のヒーロー」

 言うが早いか、七海は全力ダッシュで公園を飛び出して行ってしまった。

 取り残された大輝は頬をさすりながら、七海の赤面の意味を理解し、ようやく不思議な感触の正体を掴んで――大輝の顔も、負けじと真っ赤に染まる。

「えっ、ちょっ、これって、ちゅ…………ま、待ってよ七海ぃ!!」

 既に遠く豆粒ほどになってしまった七海の後姿目掛けて、大輝も走り出す。

 追いついて何を言うべきか、とか、何をするべきかは全くわからないが、居ても立っても居られなくなってしまい、ただ追いかけた。

 とりあえずまずは、七海に置いて行かれないように、足が速くなれるように、ランニングを始めよう。そう大輝は心の中で誓った。



 目を覚ました時、佐知子が最初に見たものは、真っ白な天井だった。

 部屋の天井とは違う見覚えのない景色を見て、まだ寝ぼけているのかと思った。

 とりあえず起きてトイレ入って顔洗って――とぼんやり考えながら体を起こそうとすると、

「――あぃだぁっ!!」

 全身に力が入らず、激痛が走った。

 その痛みによってようやく自分の身に何が起こったのかを思い出した。

(そうだ……そうだった。私、ディートリヒさんと一緒に事件の調査して、仲間が来てから……多分、疲れとかでぶっ倒れたんだ)

「……って、ディートリヒさんは!?」

「はいストップ無理しなーい」

 起き上がろうとした佐知子の顔に手が被さり、無理やり枕に押し戻されてしまった。

「いだいいだいいだい!!」

 容赦のないアイアンクローが佐知子を襲う。

 さっきの声といい、ぞんざいな対応といい、こんなことをする奴は他に居ない。

「り、理恵ちゃん!?」

「はいそーです、理恵ちゃんです」

 ベッドの傍の座椅子には、友人の小野田理恵が仏頂面で座っていた。

「え?な、なんで?っていうかここどこ?」

「ここは東館の病室です。あんたはあれから丸二日間ぐっすり寝てて、今日はもう月曜日です。貴重な休日寝て過ごすとか、いやーもったいないね」

「…………うそぉ。私、そんなに寝てたんだ……」

 大病の経験のない佐知子には、そんなに長時間眠り続けるという経験はかつてないものだった。

 自分の知らないうちに二日が終わっている、という実感がまるで掴めない。

「慣れないっつーか、初めて戦ったって聞いたよ。筋肉痛とかはその代償ってお医者のおばちゃんが言ってた。ま、ちゃんと休めばすぐに治るらしいから、いいからじっとしてなさいな」

「うん……」

 促されるまま一息つき、差し出された水を飲んで人心地つく。

 改めて、ゆっくりと腕を動かしてみる。

 力を入れようとしてもうまく入らず、内側から痛みが走る。足も同じだ。

 体を起こそうと思っても、腹筋が痛くて出来そうにない。

「ああ、トイレ行きたかったら車いすも松葉杖もあるし、なんならあたしが連れてくから。別にいいってんならオムツでも尿瓶でもなんでも貰ってきてあげるけど」

「いや、這ってでもトイレ行きます」

 そういえば寝ている間はトイレとかどうしてたんだろう、と思ったが、とりあえず考えないことにした。

 一息ついてみると、色々と気になることは多い。疑問が次から次へと浮かんでくる。

「ねえ、理恵ちゃん」

「はい、なぁに」

「その……ディートリヒさんってどうなったか、知ってる?」

 もっとも重要な質問を投げかけた。目が覚めてすぐに気になったことだ。

「ああ、あのゲルマンならもう元気よ。火傷とか骨折とかけっこー酷かったらしいけど、医療班が集中治療したら却って早く治っちゃったみたい。やっぱマッチョはちげーわ」

「そっか……よかったぁ~」

 心底安心したように息を漏らす佐知子を見て、理恵は抜け目なく目を光らせる。

「ほーう……。その反応からすると、案外仲良しになっちゃったってところ?一線越えた?」

「え……。まあ、そこそこ、かな。……理恵ちゃんが期待してるようなことは何にもないけど」

 にしし、っと目を細めて理恵がにやりと笑う。喜んでいるのか、何かおもちゃを見つけた反応なのか、いずれにせよ佐知子はよからぬ気配を感じ取った。

「あたしのアドバイス、役に立ったとみてよろしいのかな?」

 頷くのも癪だったが、ここでごまかせるほど佐知子は器用ではなかった。

「……はい、その通りでございます。理恵様のお知恵のおかげでございますよぅ」

「んじゃ約束通りおごってもらおう。快気祝いの時に盛大におごってもらおう。そうしよう」

「えぇ~!?普通それって私がおごってもらう側でしょ~!?」

 佐知子と理恵はしばし雑談に興じた。

 ようやく佐知子は、非日常から日常へ戻ってきたという実感が湧いてくる。

「――なんか佐知子さ、変わったね」

 突然ぽつり、と理恵が零した。

「……そう、なのかな?」

「どこが、ってわけじゃないんだけど、さ。全体的に前より自信に満ちてる感じがする。生意気にも」

 珍しく褒められたと思ったら、相変わらず余計なひと言がついて来る所為で素直に喜べない。

 それでも理恵の性格をわかっている佐知子は、察しのいい友人の言うことだから、きっとその通りなのだろうと思った。

「ん。ありがとう、って言うべき、かなぁ?」

「何それ。別にあたしは関係ないじゃん。言うんだったらさー……」

 ――コン、コン。

 ノックの音に理恵が立ち上がり、勝手に「どーぞ」と招き入れる。ナースか誰かだろうか、と佐知子はぼんやり考えた。

 それからすぐに戻って来たかと思うと、顔を近づけて、

「――あたしじゃなくて、こっちに言いなさい」

 と、よくわからないことを囁いた。

「こっち?」

 理恵が顔をどけると、そこには懐かしい顔があった。

「あー……もう、大丈夫なのか?」

「で、ディートリヒさぁいだだぁっ!!」

 びっくりして体を起こそうとした瞬間、体のあちこちが悲鳴を上げた。怪我のことをすっかり忘れていた。

「ほら、無理をするな。……出直した方がよさそうかな」

「いえいえ、お待ちかねでした。ね、佐知子さんよ」

「うー……」

 茶化すようににやける理恵に文句を言おうと思ったが、あながち否定も出来ないため出かかった言葉を佐知子は渋々飲み込んだ。

 一回咳払いしてから、改めてディートリヒに顔を向ける。席を勧めると「いや、私は」とディートリヒが遠慮するので、理恵は「いーからいーから」と無理矢理座らせた。

「……なんだか、パワフルなご友人だな」

「ええ……そうですね」

 困惑気味のディートリヒが佐知子にそっと耳打ちした。当の理恵は窓際にもたれかかりながら、佐知子に向かってにやりと笑い、ひらひらと手を振っている。

「お邪魔なら三十分くらいお花摘みにでも行ってきましょーかー?」

「いや……あー…………うん、君も居てくれないか」

 ディートリヒは少し悩んだが、結局理恵にも居てもらった。理恵は「おや?」と不思議そうな顔をしたが、結局それ以上話を聞くでもなく、二人を眺めていた。

「……あの、怪我の方はもう平気なんですか?」

 ずっと気になっていたことだったので、見るからに大丈夫そうとは思いながらも佐知子は尋ねた。

「ん?ああ、もうすっかり。医療班が重点的な治療を行ってくれたおかげでな。完治したわけではないが、大したことはない」

「そうですか。……本当に、よかったです」

「私のことよりも、君の方が心配だ。……初めての実戦だというのに、まさかあれほどの事件になるなんて……すまなかった」

 ディートリヒは立ち上がり、頭を深く下げた。その態度に佐知子の方が恐縮してしまう。

「ち、ちょっとやめてくださいよ」

「いや、完全に私の判断ミスだ。その上、君を危険に晒したこと……謝っても謝りきれん」

「別に私、怒ってないですから、ね?」

「しかし……」

「ディートリヒさーん、本人がいいって言ってるんだからその辺にしといた方がいいですよー。そっから先は押し付けがましくなっちゃって逆に迷惑ですよー」

「…………むぅ」

 見かねた理恵に咎められ、ディートリヒは言葉に詰まる。同時に、佐知子とは正反対で容赦のない物言いをする理恵を見て、一体本当に彼女の友人なのだろうか、と不思議に思った。だが佐知子は佐知子で、案外ずけずけと言うなと思い出して、なんとなく二人は仲がいいのだろうと納得した。

「理恵ちゃんの言う通りです。これ以上謝ったら、私、怒っちゃいますよ?」

「……わかった。もうこれ以上は言わん」

 顔を上げて溜息をつきながらディートリヒは自省した。佐知子本人にそう言われては仕方がない。

「私ね、むしろ今は感謝してるんです。今まで見たこともない世界を知って、なんだか変われた気がするんです」

 そう言って佐知子は微笑んだ。

 それを見てディートリヒは、戦いが終わってからずっと考えていたことを言おうと決意し、口を開く。

「――もっと、違う世界を覗いてみないか?」

「……え?」

 ディートリヒは真剣な目で佐知子を見据えていた。

 澄んだ青い目に射抜かれて、佐知子の胸がトクンと高鳴った。

「俺のパートナーになって、一緒に本部に来てほしい。平たく言えば引き抜きだ」

 理恵が「わーお」と小さく叫ぶが、その声は佐知子には届かなかった。

「わ、わ……私が、本部に……?」

 思っても居ない提案に、佐知子は戸惑った。

 本部――正式には日本本部は名前が示す通り、協会の日本における中枢である。

 それ故に、非常に優秀な魔術師がゴロゴロしており、佐知子が自分にはあまりにも場違いな場所だと思うのも無理はない。

 そんなところに自分が行ってどうにかなるわけがない。人のことを買い被りすぎてるんじゃないか。

「そんなの、む――」

 無理です。お断りします――その言葉を口にしようと思った時、ふとあの不思議な老人の言葉が過った。

"――狭い料簡で自らの可能性を閉ざすな。成功も失敗も養分とし常に成長を続けろ――"

 断るのは簡単だ。たった一言、さっき言いかけた言葉の続きを口にすれば済む。

 だが、その先にある明日は?また平凡で安穏とした平和な日々――誰にも気にされず、疎まれることも褒められることもない空虚な生活に戻るというのか?

 そう考えた途端、恐怖に震えながら体中を傷だらけにした戦いの時間が、何故かキラキラと輝いて見え、心に火が灯った。

 一度心に点いた火を易々と消す術はない。先ほどまでの「無理」という言葉は、炎の中で燃え尽きてしまった。

「――いえ。そのご提案、お受けします」

 驚くほどきっぱりと言い切ったので、ディートリヒは提案しておきながら、びっくりして椅子を倒しそうになる。

「ほっ……本当か?いや、別に何も急いで答えを出す必要はないんだぞ?」

「はい。でももう決めたんです」

「そ、そうか!俺のパートナーになってくれるのか!ありがとう!」

 喜色満面でディートリヒは佐知子の手を握りしめる。

「痛ぁッ!!」

「あ、スマン!」

 思わず強く握ってしまい、引っ張られた佐知子の腕に激痛が走る。ディートリヒも慌てて手を離して謝罪する。

 その光景を見ながら理恵は、

「もう付き合っちゃいなよ」

 と二人をからかうように、意地の悪い笑みを浮かべた。

「あ、いや、パートナーって言ってもそういう意味ではなくてだな」

 珍しく混乱した様子で弁解をするディートリヒを横目に佐知子は、

「……別にそれでもいいですけどね」

 と、微笑みながら小さく呟いた。

「え?何か言ったか?」

「いーえ、別に~」

 それから落ち着きを取り戻したディートリヒは、いくつか連絡事項を佐知子に伝えた。この先のことや事件に関する聴取とレポートの提出など、事務的な連絡だった。

 言い終えると、腕時計を一瞥し、

「……そろそろ戻る。長居をしてしまったな」

 ディートリヒは静かに席を立った。

「それでは、お大事に。また来るよ」

「はい。ディートリヒさんこそ、あまり無理しないでくださいね」

「ああ」

 言い終えるとディートリヒは部屋を後にした。

 しかし何故か、続けざまに理恵も部屋を出て行こうとしたので、佐知子は思わず声をかける。

「あれ?理恵ちゃんもどっか行くの?」

「お便所。ついでに自販機寄ってくるけど、何か要る?」

「んー……じゃあテキトーにお茶買ってきて」

「りょーかい」

 手をひらひらと振りながら、理恵も病室を後にした。


「ああ、ディートリヒさん、ちょっと」

「ん?」

 不意に声をかけられ振り返ると、そこには先ほど佐知子の病室で見かけた理恵が居た。

 その顔には先刻までのからかうような様子は全く見受けられない。いきなりの変化にディートリヒは意外そうな顔をする。

「えっと、確か理恵くん、だったかな」

「はい。小野田理恵です。先ほどはどうも」

「ああ。何か私に用でも?」

「ええ、いくつか。お時間ありますか?」

 特別急ぎの用事はないので、ディートリヒは頷いた。

 それから二人は人気のないトイレ横、自販機の前のベンチに並んで腰を下ろした。

「それで、用事と言うのは……」

「コーヒーでいいですか?」

「ん?あ、ああ」

 質問を遮られてしまったことと、理恵への苦手意識から返事をし、それから言葉に詰まった。

「どうぞ」

「あ、ありがとう。えーと、代金は……」

「結構です。お話代だと思って受け取っておいてください」

「…………ああ」

 気まずさから、とりあえずコーヒーを口にする。隣の理恵はコーラを手にしながら、しかし飲もうとはしなかった。

「あー…………その、一体私に何を聞きたいんだ?」

「……あの子、そんなに凄かったんですか?」

 あの子とは一体誰だろう、と一瞬だけ考えたが、すぐに佐知子のことだと思い当たる。

「こないだの現場でのことか?……そうだな、まだ未熟な面もあったが……とても初めてとは思えない戦いぶりを発揮していた。自分より格上の相手を"消失"を駆使して倒していたよ。伸びるよ、彼女は」

「……そう、ですか。そっか……」

 俯き気味に、一人ごちるように理恵は頷いた。先ほどまでの印象とのギャップが大きく、ディートリヒはどうしていいものかと悩む。

 しばしの沈黙が流れ、それ以上何も聞いてこないので、言葉を待ちながらディートリヒはとりあえずまたコーヒーを口に運んだ。

「……あの子ね、人見知りするタイプなんです」

「ん?あ、ああ。……まあ確かにそんな感じではあるな」

「あたしもここの同僚ってだけですけど、……話してる感じだと、あんまり友達居ないみたいなんですよね」

「…………そうなのか」

「あたしはこんな性格だし、付き合いなんてたった四年ですし、決していい友達だなんて言えませんけど……でもあたしにとって、佐知子はね、まあ、親友だって思ってるんです」

「………………」

「自己主張が下手で、お人好しで、強く頼まれると断りきれなくて。色々と聞いてる感じじゃ、多分昔から結構コンプレックスとかあったんじゃないかなー。ま、アレな部分もありますけど、あの子今時珍しいくらいにいい子なんですよね」

「………………」

「でもね、そんな佐知子が事件があってから変わったんですよね。変わったっつってもいい方にですけど。なんかやりきったような目してるっていうのかな。自覚あるみたいですし。だから本部に来いなんて大層なことも、あの場でOKしちゃったんだろうなって。事件の前までのあの子だったら、絶対に、頑としてNOっつってますよ」

「…………そうか」

「ええ、そうです。……人間、たった一回の経験で変わるもんなんですね。百聞は一見にしかずって、ああ、その通りだなって思いましたよ」

「………………」

 段々とディートリヒも、どうして自分が理恵に呼び出されたのか分かってきた。

 多分、彼女は佐知子のことが心配なのだ。

 親友として、心配で心配でたまらない。だけどそれを本人に素直に伝えられるほど器用ではないのだ。

「……これから本部でどんなことするとか、全然あたしにはわかんないですけど。絶対にあの子、心細くなって、自己嫌悪して、ああうんざりってなると思うんです。あっちでうまく人間関係作れればいいですけど、いきなり引き抜かれてやってきた地方の低ランクな魔術師なんて、エリート集団の中だとやっぱり風当りはキツイだろうなーって」

「………………」

 そこまで言うと、突然理恵は席を立り、座席に未開封のままのコーラを置くと、ディートリヒの前に来た。

 そして、頭を下げた。

「佐知子のこと、よろしくお願いします。私はあの子の隣に居てやれません。だからあなたが隣で支えてあげてください。困ってる時は相談に乗ってあげてください。落ち込んでたら肉料理の美味しい店に連れて行ってあげてください。イライラしてたらカラオケにでも誘ってあげてください。負担ばかりを押し付けるようで恐縮ですが、お願いします」

 頭を下げながら、理恵は滔々と流れるように言った。

 声に震えはない。泣いている様子もない。

 しかし、目の前で必死に頭を下げる理恵の姿は、ディートリヒには酷く痛ましい姿に映り、胸に突き刺さった。

「……約束しよう。私が彼女を誘った以上、責任を持って彼女のサポートを務める」

「……ありがとうございます」

 感謝を口にしてから、理恵は佐知子に頼まれていたお茶を買うと、「それじゃ」と言って戻ろうとした。

「待ってくれ」

 だがディートリヒはあることを考えついて、理恵を引き留めた。

「すまないが、私からも頼みがある」

「?なんでしょう」

「この先、倉田大輝と菅野七海という二人の子供が、再び事件に巻き込まれることがあるかもしれない」

「ああ……例の"音叉"の女の子と、なんか巻き込まれたって言う男の子ですよね」

 先ほどの告白を受けてディートリヒは、理恵ならば信頼に足るという確信があった。それ故に、彼女にならば打ち明けてもいいと思った。

「実はその少年なんだが……これから言うことは、誰にも言わないと約束してくれるか?」

 理恵は訝ったが、先ほどまでの頼みもあったので断るわけにはいかなかった。

「ええ」

「……彼、いや、あの少女もなんだが……ある老人によって、鎧装結界を構築可能な賢者の石を与えられているんだ」

「……そりゃまたとんでもない秘密ですね」

 理恵は相変わらず表情を変えないまま驚いて見せた。

「この事実は私と佐知子くん、そして君しか知らない。もし協会に知れたら、保護の名目で取り上げられるだろうからな。実際、強大な力を持った子供を野放しにするのは、客観的には大問題だ」

「でもあなたと佐知子は見逃した。ってことは、気軽に力を使ったり見せびらかしたりするようなバカガキじゃないって判断したってことですよね」

「そうだ。戦いの中で、彼らは信頼に足る人物だと理解した。それにこの先、自衛の力があった方がいいとも思うからな」

「そりゃまあそうですね。で、私がそれを知ってどうしろと?」

「この先間違いなく、"音叉"の少女は保護観察対象となる。身寄りのない子供、あるいは保護者が魔術師で事情を理解している場合を除くと、協会では十八歳未満の子供の入会は禁止している。そのため、遅からぬうちにこの支部より監視員が派遣されることとなるだろう。……いや、既に臨時で派遣されているはずだ」

 ここまで聞いて理恵は、ディートリヒが言わんとしていることの見当がついた。

「つまり、あたしがその監視員になって近くで見守って、いざチビッ子どもが戦った場合は適当に「あたしがやりました」って言い訳すりゃいい、ってことですか」

「有り体に言ってしまばそういうことだ。私の権限を使えば、監視員の推薦くらいは認められるだろう」

「ん。やりますよ。佐知子のこと頼むんですから、あたしも引き受けないと立場ないですし」

 ようやく理恵が微笑んだのを見て、ディートリヒはほっとして顔がほころぶ。

「ありがとう、助かるよ」

「ま、お互い様ってことで。……それじゃあたし行きます」

「ああ」

 歩き出した理恵の背中が見えなくなるまで、ディートリヒは見守った。

 それから自然と言葉が口から零れ落ちる。

「……友人に恵まれたな、佐知子くんは」

 化粧で隠していたが、理恵の目の下には薄らと隈が見えた。おそらく運ばれてから今日にいたるまで、ろくに寝ないで佐知子に付き添っていたのだろう。

 理恵が居ない以上、これからは自分が佐知子を大切にしなくては――その思いを胸に刻み、ディートリヒは歩き出した。



 ディートリヒと理恵が出て行ってから、一人残された佐知子はぼんやりと天井を見つめていた。

 今トイレ行きたくなたらどうしよう、とか、ちょっとお腹すいてきたな、といった益体のないことを考える。

 だが時折、ディートリヒの提案を思い出し、未だ実感の湧かない本部への異動を思い出す。

 しかし、それでも考えることといえば、仕事への期待や不安ではなく、

「引っ越しするんだろうから、荷物まとめないとなぁ」

 といった、妙に味気ない現実的な問題が浮かんでは消えるばかりだ。それが自分でも少しおかしかった。

 ベッドの傍に置かれた棚には時計とカレンダー、コップといったものが置かれていた。ふとカレンダーが目に入り、今日が月曜日だという事実を思い出す。

(あー……あの子たち、今日は学校行ったのかな。これから先はもうあんな事件に巻き込まれないで平和だったらいいけど……あのおじいさんが力をまた渡してたってことは、きっと何かあるんだろうな……)

 もしもまたここで事件があるようなら、その時はディートリヒが派遣されたように、自分が来ることもあるんだろうか。なんだか自分が派遣される姿というのは想像が出来なかった。

(その時のためにも……強くならないと)

 三日前までの自分にはなかった思いが強くなっているのが、自分でもわかった。

 才能もないし、特に何もしなくてもいい。与えられた仕事をこなしていれば、それで十分だ。ずっとそう思っていた。

 しかし今は、少しでも強くなりたかった。もうあんな悔しい思いをしたくはなかった。

 そして老人の力を借りることなく、自分の鎧装結界を構築できることを、当面の目標にした。

(私の鎧装結界……誰にも見つけられない存在……透明人間……404。あ、"404(モノケイン)"って名前にしようかな)

 いつかまた、あの力を身に纏える時を目指して。

「ただいまー。買ってきてやったぜー」

「あ。ありがと~」

 理恵が帰って来た。手にはコーラとホットのレモンティーを持っている。

 遠くない未来に佇む戦いの予感を胸に仕舞い、ひとまず今は日常と、二日ぶりに口にする飲み物を享受することにしたのだった。



これにて完結です。

誤字・脱字等ございましたらご一報いただけるとありがたいです。

感想等いただけますと大喜びします。


長編ですが、最後まで読んでいただきありがとうございました。

一時でも、ほんの少しでもワクワクして楽しんでいただけたのなら、これ以上のことはございません。


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