波乱の予感
コチ、コチ、コチ、コチ……と規則正しく無機質に、時が単調に流れる音がホテルの一室を満たす。
質素で落ち着いた調度品の他に、室内には二人の若い男女がテーブルを挟み向かい合って座っている。
二人の間に甘い空気はなく、金髪をオールバックにした軍人のような男は入念に地図を眺め、黒髪をアップヘアーにした眼鏡の女は小説に目を落としながらも、男の方を時折チラチラと見ていた。
集中して小説の世界に没頭しよう――そう思いながらも、どうにも集中できない。
話がつまらないからではない。むしろ最近買った本の中では当たりで、しかもクライマックスの一番盛り上がる場面だ。
それにも関わらず一向にのめり込むことができないのは、狭い室内を支配している気まずさにあった。
彼女はレンズ越しに、向かいに座る男に視線を移す。
彼は飽きもせず、何度も何度もこの町の地図を隅々まで見まわしている。彫りの深い顔に落ちる影は眉間に寄る不機嫌そうな皺と相まって、彼の表情を酷く恐ろしげに演出していた。
(こんなことなら、ドイツ語が出来るなんて言わなきゃよかったよ~……)
*
彼女――河口佐知子には秘密があった。彼女は魔術師だった。
空気や電波や放射線のように、目に見えないが確実に存在するものは数多くある。
その一つが世界を満たす"魔力"であり、それを操ることができる"波動"を扱える稀有な存在こそ魔術師である。
魔術師が意思を以て波動を駆使すれば、虚空には炎が生じ、竜巻が立ち上り、雷光が弾ける。自然現象や化学反応を意のままに操る超能力とも呼ぶべき力こそ魔術である。
だが佐知子はそんな人外の力を持っているにもかかわらず、その人生は極めて地味で平凡なものであった。
学力は中の上、運動能力は並程度。顔も悪くはないのだが、化粧っ気がなくどこか地味さが拭えない。
誰かに嫌われることはないが、それはそもそも話題に挙がることのない空気のような存在だからである。
物心ついた頃から自分に特殊な力があることは知っていたが、使い道がわからず、周囲から浮くことを恐れてほとんど使うこともなかった。
小、中、高を波乱なく過ごし、大学に入った頃、NPO法人"国際文化保存協会"が配布していたチラシを偶然手に取った。
チラシには自らの尾を咥えた蛇のような生き物と剣のマークと共に「この文字が読める方は一度ご連絡ください」という不思議なことが書かれており、家族に見せたところただの余白だと言われ、これは自分のような人間にしか見えないものだと気が付いた。
勇気を出して連絡したところ、そのNPO法人の正体は、世界最大規模を誇る魔術結社"A.O.スコープ魔術師協会"だと知り、自分と同じような人間が数多くいることを知り入会し、今に至る。
協会に所属してからも、佐知子は相変わらず地味で凡庸なままだった。
入会してから基礎トレーニングや魔術訓練を受け、以前より格段に能力が向上しているにもかかわらず、平和な支部に所属しているため、未だに実戦経験はない。
破壊魔術は特別得意ではないし、人よりも優れているのは隠遁魔術くらいであるが、そもそもそれを活かす機会がない。何より彼女には戦う意思がなかった。
結局、悪用すればいくらでも人より優位に立てる状況にありながら、度胸も悪意もない彼女は"ちょっと特殊な組織の、ちょっと特殊だけど地味な事務員"という地位に甘んじていた。
そんな佐知子の日常は、突然の上司からの呼び出しによって変わってゆくのだが、その時の彼女には知る由もなかった。
「……本部から派遣、ですか?」
「うん。そうなんだけど、それがいつもの定期監査じゃなくて、今度のはちょっと具合が違うみたいでさ」
「はあ、そうなんですか……」
普段、全くと言っていいほど訪れる機会のない支部長部屋に呼び出され、佐知子は困惑していた。良くも悪くも目立たない彼女には、呼び出された原因が思い浮かばない。
「なんでも不審な電話があったらしいんだよ。うちがNPOじゃなくて魔術師協会だって知った口ぶりだったみたいでさ。ほら、藤ヶ丘市ってあるじゃない?県北のさ」
「ありますけど、あそこが?」
「なんかその変な電話の主がさ、あそこの藤ヶ丘本町ってところで来週中に事件が起こるって言ってるんだって。だから手練れを寄越せってことで、本部から人が来るらしいのよ」
事件、という穏やかではない言葉にドキリとしたが、一体それが自分に何の関係があるんだろうと困惑した。支部長の話を聞きながら、未だに自分がどうして呼ばれたのかわからなかった。
「で、河口さん呼んだ理由ってのが……今度来る本部の人のサポートっていうか、まあ世話してほしいってことなんだよね」
「な……なんで私なんですか!?」
佐知子は事件などという手に余る事態に巻き込まれそうになり慌てた。自覚しているように、自分は地味で特にこれといった取り柄もないのに、なんで本部の人をサポート要員に選ばれなくてはならないのか――彼女には疑問でしかなかった。
「その人さ、ドイツ人なのよね。君、ドイツ語が特技なんでしょ?」
特技。確かに履歴書にそう書いたが、ただ単に大学時代に第二外国語が必修科目だったため仕方なく選択しただけで、申し訳程度に話したり、ドイツ語の文章をなんとなく読める程度で、とても通訳が務まるほど熟達しているわけではなかった。何も書かないよりはいいと思い、とりあえず書いたものに過ぎなかった。
そのことをざっくりと説明したが、支部長は、
「まあ多分、何とかなるから。あんま身構えずに、そのー……頑張ってね?」
と、やんわりと押し付けたのであった。
「本日付で臨時配属となったディートリヒ・ヘルムート・フィヒナーだ。よろしく」
優に一九〇センチを超える屈強なドイツ人、ディートリヒの第一声は流暢な日本語だった。
「…………こ、こちらでの補助を務めさせていただく河口佐知子と申します。……そのー、日本語、お上手ですね……」
「来日して五年になる。日常的に日本語を使っているのに上達しない方がおかしい。だが、まだ至らぬ点は多々あると自認している。誤用や発音の間違いがあったら忌憚なく指摘してくれ」
(いや、怖くてできませんって……)
佐知子は差し出された節くれ立った手を握り返しながら、不機嫌そうなディートリヒを見上げる。一五〇センチ余りでひょろひょろに痩せた佐知子とは、彼の陰にすっぽりと隠れてしまいそうなくらい体格差があった。
ディートリヒの第一印象は、とにかく"怖い"と思った。
袖口や襟元から覗く筋肉質な巨体が怖く、鋭い目つきと微動だにしない表情が怖く、厳しそうな口調と低めの声が怖かった。今の佐知子ならディートリヒのあらゆる行動に理由付けをして"○○が怖い"と主張できるだろう。彼女は出会い頭に完全に委縮してしまった。
その後の施設案内も散々だった。
緊張のあまりつまらないミスを繰り返し、説明の必要もないだろうシャワーやトイレの使い方などを解説しては「いまさら説明されなくても知っている」と一蹴された。
何よりも辛かったのは、ディートリヒが支部に派遣されるきっかけとなった不審な電話について尋ねたときだった。
「――狂言の可能性も捨てきれないが、わざわざ行うメリットは少ない。実際に事件は発生する、と考えて行動するのがベストだろう。相手が魔術師であれば戦闘になる可能性も高い」
「せ、戦闘ですか……」
「そうだが……君は実戦経験はどの程度あるんだ?」
「…………えっと、あ、あのー……ありません……」
支部がある周辺では、魔術師同士の小競り合いはおろか、些細な事件でさえ滅多にない。それでも別の支部で事件が起こった際は人員補填で派遣されることもままあるのだが、体格・能力共に戦闘に不向きな事務方の佐知子が選ばれることはなかった。
「……そうか。では訓練はどの程度行っている?習得している魔術や得意な傾向も教えてほしい」
「く、訓練ですか?えーと、筋トレが一日一時間から二時間で、組手みたいなのは月に二、三回……だったかな?魔術訓練は週に二日で……。えと、魔術は……大体の基礎魔術は覚えてますが、破壊魔術は、そのー……あんまり得意では……。テストでは操作魔術・隠遁魔術が得意という結果が出まして、確かにどちらも他に比べると得意ですけど……せいぜい中級三位までしか……」
そこまで話すと、佐知子の言葉を遮るようなディートリヒの軽い溜息の後、
「わかった。……後で君の情報ファイルを届けてくれ」
とだけ言い残し、スタスタと部屋へ帰ってしまった。
「支部長~!あの人、日本語バリバリ話せるじゃないですかぁ!」
別れた後、佐知子は支部長室へと駆け込んだ。無論それは抗議のためだった。
「あー……そうみたいだね。いやー、ごめんごめん。あははは」
少し気まずそうに、ごまかすようにわざとらしく笑う支部長を見据えながら佐知子は、
「じゃあ私じゃなくてもいいじゃないですか~!別の人、できれば戦闘経験のある人と代えてくださいよ~」
と懇願した。
しかし支部長は「んー……」と漏らし、手に持ったペンの蓋を親指で上げ下げしながら逡巡していた。
「ほら、みんな結構手一杯で余裕ないし……なんと言ったらいいか……あー、そのー……応援してるよ?」
「――で、体よく押し付けられたんだ」
「うん……」
仕事が終わり、ようやく大変な一日から解放された佐知子は、せめてこれからの極めて大変な毎日を乗り越えるべく、協会内でただ一人の友人である小野田理恵を誘って支部内の喫茶ブースを訪れていた。
疲れ切った佐知子は机に突っ伏し、腕を枕にして顔を埋めていた。理恵は彼女の頭を「よしよし」とあまり感慨もなく撫でながら、話を続ける。
「ぶっちゃけさー、あのおっさん知ってたと思うよ。その本部のゲルマンの人柄とか。いくらなんでも事前情報入ってくるだろうし」
「え~……?じゃあなんで、わざわざ私が選ばれたの?」
理恵はストローでアイスティーを意味もなくかき混ぜながら答える。彼女は冬でも冷たい飲み物を頼むため、いつも佐知子は寒くないんだろうかと疑問に思っている。
「多分だけどさー、仏頂面でそれなりに地位が高いブアイソで威圧感ある外人のマッチョとか、とりあえずみんな嫌がるじゃん?仕事出来るのかもしれないけど、人間関係となったらどう考えても不良物件じゃん?」
友人ながらもあまりに明け透けな理恵の物言いに、佐知子はたじろぐことが多い。だが一方で、そうやって思ったことをストレートに言うことができる彼女が羨ましく思い、密かに憧れていた。
「だからさー、あのおっさんも押し付ける相手選ぶ時に考えたと思うんだよね。とりあえずの理由付けが出来て、なおかつ一番文句言ってきそうにないっつーか、言えなさそうなヘタレはどいつだろうって」
「……その理由ってのが、ひょっとして」
「そ。相手がドイツ人だからドイツ語話せる奴か、多分外人とハーフも候補に入ってたんじゃないかなー。んで、そん中で佐知子がぶっちぎりで気弱で文句言ってこなそうっつーか言ってきても余裕で追い返せそうってことじゃないのかね。一等当選だー、やったね御愁傷様ー」
淡々とした鋭利な言葉の刃が、佐知子の心に深々と突き刺さる。傷心の彼女のハートは理恵の無慈悲で的確な推理によって見事にボロボロになった。
「……鬼」
「慰めてほしけりゃもっと慈悲深そうなの選べっつーの。でもあんたここじゃあたししか友達いないか。メンゴメンゴ」
本当に理恵が友達なのかどうか、佐知子は疑問に思い始めたところだ。
「まあさ、いまさら代わってもらうのは無理なんだし、せめて出来ることやんなよ。愚痴なら聞いてあげるから」
理恵は佐知子の頭をポンポンと優しく叩いた。佐知子は顔を上げて、理恵を見上げた。
「……出来ることって?」
「思ったことは口にしろ、ってこと。あんたにしたってあたしにしたって、まあ支部長や他の連中にしたってさー、結局あのドイツ人のことをイメージでしか知らないわけでしょ。趣味とか好きな食べ物とか、プライベートなことはもちろん、性格なんかも本当はどんなのかわかってないんだし。もっと踏み込んでみないとわからないことって、やっぱり実際に一歩立ち入ったこと聞いてみないとわかりようがないからね」
「………………」
「ま、別にほんの何週間かしか付き合わないような相手なんて、テキトーに付き合えばいいと思うけど……あんたがそういうテキトーな付き合いが出来ないタイプって知ってるし。円滑でストレスフリーに過ごしたいんだったら、まあ人に求めるだけじゃなくて自分も頑張んなさいってことで」
「……うん。ちょっとは私も、努力してみる」
「ん。うまく行ったらなんかおごれ」
「え~……でも、うん、ありがとう」
理恵が微笑んだのを見て、佐知子もつられて笑った。
性格が正反対の二人だからこそ、自分にない考えを持ち、自分ではたどり着けない答えが出せる。佐知子は、やっぱり理恵に相談してよかったと思った。
*
「……連絡、ありませんねえ」
「そうだな」
「…………」
ディートリヒと出会い、理恵に相談したあの日から五日が過ぎた。
出会いの翌日、支部長から「犯行予告のあった町で、事件発生時迅速に対応できるよう現場近くのホテルで連絡を待て」という命令を受け、二人は日がな一日、いつ来るともわからない連絡を電話の前で待ち続けていた。
支部から犯行予告のあった藤ヶ丘本町までは、どれだけ急いでも一時間半はかかる。そのため、実際に事件が発生してから現場に急行していては手遅れになる可能性が高い。なので二人は支部ではなく、町のビジネスホテルで待機することになった。
時計に目をやると、既に時間は午後四時半を回ろうとしている。
窓の外は真っ赤に染まり、大通りを行き交う車の中にはちらほらとヘッドライトが灯り始めている。また一日が終わりに向かっていた。
(なんだか時間を疲労と不満に変換してるみたい……)
特に何をするでもなく、ただ苦手な相手と空間を共有し、時間と精神を摩耗する。この状況が佐知子にはたまらなく辛かった。
別に自分の部屋に戻っていても問題はないのだが、それはそれで相手を避けているようで、なんだか失礼に思えて出来なかった。
しかし一緒に居ても、とにかく会話がないのが辛かった。
理恵のアドバイス通り、佐知子は不慣れながらも懸命に何度もコミュニケーションを試みた。
しかし、未だにろくな進展がないのは、ディートリヒとの会話の続かなさに原因があった。
何かを質問しても、ただ一言答えるだけで終わる。佐知子に質問を返したり、業務報告以外に話しかけてくることは一切ない。
最初は積極的に話題を見出そうと努力したものの、あまりの手応えのなさに心が折れそうになり、佐知子はすっかり仲良くなることを諦めてしまっていた。
一日のうち、挨拶と業務連絡を除いたディートリヒとの会話といえば、
「連絡ありませんね」
「そうだな」
「そろそろご飯にしましょうか」
「ああ」
と、これだけだった。
これがほとんど全てであるのだから、佐知子は本当にうんざりしてしまった。せめて他愛のない会話の一つも出来れば、息の詰まるような感じもなくなるのに……そう思いながらも、そうはならないことを、彼女はたった五日間で痛感していた。
(今日は何食べよう……洋食ばっかりっていうのも飽きちゃったし、定食にでもしようかなぁ)
――――プルルル。
思考を遮るように、電話のコール音が静寂を裂いて鳴り響いた。あまりにも突然だったため、佐知子は最初何の音なのかわからなかった。
しかしディートリヒがすかさず手を伸ばし、ワンコールの内に通話ボタンを押す。
「こちらディートリヒ」
『――こ、こちら観測室の坂田です!!』
電話の向こうは切迫した様子だった。
言葉までは聞き取れないが、佐知子の耳にも慌てた様子の声だけは漏れ聞こえてきたので、少し不安になった。
「何かあったのか」
相変わらずの仏頂面で、ディートリヒは素っ気なく尋ねる。
『局所的に強力な波動を観測しました!!推定マグニチュード……は、8です!!』
「何だとッ!?」
「ひぇっ……!?」
ディートリヒは目を見開き、思わず声を荒げて立ち上がった。勢いよく立ち上がったため、椅子が倒れた。
佐知子は初めて見せた彼の人間らしい一面に驚いて、思わず身構えてしまった。
「場所はどこだ!?」
『そちらのホテルから約一キロ先の長久保南部公園付近です!五丁目の住宅街のあたり、近くに通信会社の四階建ての社宅がある……』
「地図は頭に叩き込んである!私と河口で現場に急行する!」
『は、はい!こちらも増員を派遣しますので、無理のない範囲での情報収集をお願いします!詳しい情報は追って連絡します!』
「了解した!」
まくしたてるような会話が終わるや否や、ディートリヒは神妙な面持ちで佐知子に向き直った。
どうやら大変なことが起こっているらしい、ということだけは佐知子も理解していた。
「あ、あの、一体何が……」
「……大変なことになった」
「えぇ!?」
「支度してくれ。すぐに出る。詳細は道中説明する」
ディートリヒはそれだけ言うと、壁に掛けてあったモスグリーンのミリタリージャケットを羽織るなり、準備万端といった様子でつかつかと外へ出て行った。いまいち状況が呑み込めないまま、佐知子も促されるままにグレーのピーコートを着込み、財布と携帯電話だけポケットに突っ込むと、慌てて彼を追いかけた。
既に廊下の突き当たりまで歩いて行ってしまったディートリヒに急いで追いつくと、彼は佐知子を横目で見ながら、
「……君は確か、実戦経験はないんだったな」
と、改めて尋ねてきた。
「は、はい」
しかしディートリヒは溜息をつくでもなく、額に汗を浮かべて自嘲気味な苦笑いを浮かべ、
「いや、多少あっても変わらんか……」
と呟いたのを、佐知子は不幸にも聞き逃さなかった。