ヒーローの条件
世の中のほとんどの事柄というのは、生まれつき決まっている。
親や環境を選んで生まれてくることは誰にもできないし、ましてや隣に口うるさい同い年の女子が住んでいるという事実は、彼の力でどうにかできるような事柄ではなかった。
そして彼が、土壇場になると真っ先に泣き出してへたり込んでしまう弱気な性格であるのも、生来のどうしようもない問題であった。
そんなわけで、倉田大輝と菅野七海は、当人たちの望む望まないに関わらず幼馴染だった。
同じ年に、同じ町で生を受け、同じ幼稚園に通い、何の因果か今に至るまでクラスまでもが常に同じ。誰かはこれを運命、あるいは腐れ縁と呼んだ。
弱虫の大輝は運動が苦手でケンカもろくにしたことがない。かといって特別勉強が得意というわけでもない。顔は割と整った可愛らしいタイプだが、いかんせんそれは周囲から頼りなく見られる一因でしかなかった。
好きなものは幼稚園の頃に出会ってから今に至るまで欠かさず見ている特撮ヒーロー番組だが、小学三年生にもなると周囲はヒーローよりもゲームやサッカーに興味が移ってしまい、ヒーローは「ガキが楽しむもの」という風潮があるため、今では一人でこっそり楽しむだけだった。周囲から疎外された小学校生活を送りたくはない彼は、みんなが見ている番組を見て、みんながハマっているゲームを遊ぶことで、どうにか友達の輪の端っこにしがみついていた。
一方の七海は大輝とは正反対だった。
運動、特に短距離走はクラスでもトップで、運動会のリレーではいつもアンカーを任されている。勉強も呑み込みが早く要領がいいため、テストでは毎回それなりの位置をキープしている。
流行にも詳しく、本人が意識しているわけではないが、ちょっと大人びたドラマや音楽を聴いていることもあって、女子はおろかクラス全体でもリーダー各の扱いを受けている。
何よりも、これから美人に成長することが約束されているような、華のある端正な顔つきを生まれ持っている。
あらゆる魅力的な要素と、嫌みのない面倒見のいい性格が相まって、いつだって彼女は輪の中心に居た。
たまにケンカもするけれど、親同士の仲の良さもあって、二人は生まれてこの方姉と弟のように親密な間柄だった。特に七海は大輝が困っていたり、泣いていたりすると、すぐに適切な対処法を提示して問題を解決してきた。
子供ながらに彼は、自分はきっといつまでも彼女に助けられながら、その彼女の日陰に居続ける凡人なのだろうと、ある種達観した、諦観めいた感情を心の奥に抱えていた。しかし同時に彼の胸中には、そんな状況を打破し、男らしくありたいという矜持も燻っていたが、それを叶える機会も気概も、これまで一度としてなかった。
「――ねえ大輝、さっき、まーたミスったでしょ」
三時限目と四時限目の間の休み時間。
意地悪そうに口の端を吊りあげながら、七海が大輝の席に近づいてきて肩を叩いた。三時限目の算数の時間、解答を求められたものの途中から一桁間違えてしまい、途中までの計算式自体は正しいにもかかわらず、答えに辿り着くことができなかったのだ。
「……うるさいなぁ、ちょっと勘違いしただけだろ」
口をとがらせる大輝を傍目に「まーまー」と慰めながら、彼の前の席に腰を下ろす。
「あんた焦らなきゃ結構出来るんだからさぁ、もっと落ち着きなって」
「うーん……先生に当てられると、なんかキンチョーしちゃってダメなんだよなぁ……」
「本番に弱いよね」
「うっさいなー」
日常茶飯事のやり取り。七海は女子の友達と話すとき以外は、ほとんど大輝をからかうようにして話している。たまに友達から「仲良しねぇ」と茶化されるが、決まって七海は「弟みたいなもんだから」と笑って答える。その度大輝は、情けない気持ちが蓄積されてゆくが、それを彼女が知ることはない。
そんなこのクラスで当たり前の光景を、窓際の席にたむろっている男子の数人が遠巻きに眺めていた。
「………………」
中でもクラスの男子の中でリーダー格の少年・舟木は、殆ど睨むようにして大輝と七海を交互に見やっていた。
*
四時限目が無事に過ぎ、給食も好物でも苦手でもないメニューばかりだったので普通に食べ終わり、昼休みが訪れた。
昼休みは学校中の男子が校庭で遊ぶ時間だ。
二年生の頃からサッカーが流行っているのだが、大体の場合は五、六年生にゴールを占拠されてしまっているため、下級生である大輝たちは校庭の中央から少し外れた場所で、地面に踵で線を引いた狭いコートでのサッカーやワンバンをしているのだった。
しかしこの日は、少し様子が違った。
ぞろぞろと連れ立って校庭へ向かう男子たちを追って、大輝も走った。いつもならここで合流して、今日は何で遊ぶか、といった話題に加わるのが常だ。
だが今日は、追いつくなり舟木が振り向いて立ち止まった。彼は他の少年たちに「先行ってボール借りてコート作っといて」と言い残し、
「おい大輝」
と、ぶっきらぼうに凄んだ。
普段一緒に遊ぶものの、大輝は彼が怖くて苦手だったので、思わず身構えた。
「な、何?」
「今日はお前、入れてやらないからな」
「え?何に?」
「だから、サッカー入れてやらないから。放課後のもダメだ」
素っ気なく言い終えると踵を返して走って行き、すぐに階段の下へと消えてしまった。
残された大輝はただぽかんと口を開けて、頭の中を疑問符で埋め尽くしながら、立ち尽くすことしかできなかった。
その後の授業や帰りの会の内容は全く頭に入ってこなかった。どうして遊びに入れてもらえないのか、その理由ばかり考えていた。
どうして自分がこんな扱いを受けるのか――しかし、どれだけ考えても答えは浮かばない。
「きりーつ……れーい。さようならー」
終礼が終わると同時に、急いで鞄を背負って教室を飛び出す者や、友達の席へ駆け寄る者など様々だったが、大輝はなんとか仲間に入れてもらうべく舟木の席へと走った。
舟木は大輝を一瞥し確認すると、じっと彼の顔を不機嫌そうに見つめた。
「……」
「あ、あの、えと……なんで僕は入れてくれないの?」
「……」
舟木がスッと手を挙げたので、大輝は反射的に身構えたが、彼の手は教室の隅で他の女子と話をしている七海を指差していた。
「お前、いつも菅野と話してるだろ」
「へ?……まあ、うん。それがどうしたの?」
「俺らはな、女子とばっか話すような奴は仲間じゃないって決めたんだ」
「…………えっと、じゃあ僕が仲間外れにされた理由って……」
「うん。だからお前が菅野と絶交するまでは仲間に入れてやらないからな」
「えーっ!?」
予想だにしない理由だった。大輝は驚いたが、一方で自分が嫌われているわけではないと知り安堵した。
しかしその安堵も即座に消え失せて、別の問題が鎌首をもたげた。
「え……ち、ちょっと待ってよ!七海と絶交って、そんなの僕には無理だよ!」
大輝は自分自身の情けなさを嫌と言うほど知っていた。
優秀で勝気な七海に、どうして意気地なしの自分が絶交を切り出せるというのか。
それにもし絶交に成功した場合の、来週に控えた倉田・菅野両家による定例ホームパーティーでの気まずさを想像すると、それだけで頭が痛くなる。
もはや姉弟同然の関係が出来上がってしまっている以上、そこに亀裂が生じるということは自分と彼女の問題に留まらず、ひいては親同士の問題にまで発展してしまう。第一、毎朝一緒に通学している二人が、突然会話もなく一緒に通うこともなくなったら、間違いなく不審がられる。仲が良すぎるゆえに、問題が山積みなのだ。
そんな事情を知ってか知らずか、舟木は無情にも、
「じゃあずっと入れてやらないからな」
と言い捨てると、鞄を手に立ち上がって、そのまま教室を出て行ってしまったため、またしても大輝は取り残されてしまった。
「ねえ大輝ー、そろそろ帰んない?」
無邪気な七海の声が、肩を落とした大輝の後ろから投げかけられた。
力なく「うん……」と頷く少年の心は、家族や幼馴染と男の友情のどちらを優先するべきか、重すぎる決断の狭間で揺れていた。
*
「――でさー、その後がメチャクチャ面白くってねぇ」
帰り道。
楽しげに昨日見たドラマの話をする七海に、大輝は適当な相槌を打ちながら、
(こいつ、人の気も知らないで……)
と、抗議するかのように横目で睨んでみるが、その行動が何の解決にも、ましてや慰めにさえならないことは、彼自身が一番よく理解していた。
今の大輝は、まるで処刑台への道を一歩、また一歩と踏みしめているかのような気分だった。
今日は体育の授業もなかったし、突然の仲間外れの結果遊んでいないにもかかわらず、足どりが疲れ切ったかのようにやけに重い。日の沈みかけた夕焼け空も、まるで燃え盛る地獄の業火とさえ思えた。吹き付ける十二月の風も、彼を冷たく囃し立てる罵声のように感じた。
教室を出てから今まで大輝はずっと考えていた。どちらを選択するべきかを。
その結果として彼が選んだのは、男子の友情だった。
たとえ幼馴染に嫌われ親に怒られたとしても、小学生という立場で考えた場合、学校という場で疎外されることは即ち人生を棒に振るに等しい。
少なくとも彼は、班分けで仲間外れにされ男子グループに入れてもらえず、バカにされながら放課後やグループ行動を女子と過ごす未来を考えるとぞっとした。
そして結論を出してから今に至るまで、大輝は絶交にふさわしい言葉を考えていた。
口ゲンカで泣かされっぱなしの彼が、七海に絶交を切り出した上で、傍から見て一目で絶縁状態が理解できるほど効果的な言葉。元より他人と真っ向から戦い傷つけることに不慣れな彼にとって、罵詈雑言を考える作業は途方もなく困難であった。
しかしそれでも大輝は決意した。もちろんその理由は友達の輪から外される恐怖が大半を占めていたが、なんでもできる七海とダメな自分という状況から脱却し、独り立ちをしなくてはならないという矜持もあるからだ。
決断を下した大輝はタイミングを見計らっている。絶好の言葉を切り出す、その絶好の機会を待っていた。
まず親に見られる心配がなく近所の人も居ないであろう"ある場所"を待ち侘びながら、七海の話を聞くふりをしていた。
閑静な住宅地に入り、さらに五分ほど歩き、二人は暗く閑散とした公園に足を踏み入れた。本来決められている通学路ではないのだが、いつも二人は近道として公園を突っ切っている。
この公園こそ大輝が絶交を切り出す舞台として選んだ場所だ。
その理由は公園の立地条件にある。道路を挟んで向かい側にある背の高い社員寮の所為で日当たりが悪いため、特に冬場はほとんど誰も寄りつかないのだ。加えて学校から少し離れており、普段外で遊ぶ時は学校近くの市民公園にみんな行ってしまう。ばつの悪いシーンを誰にも見られることなく済ませるには、この上ない場所なのだ。
公園内を見渡してみても、思った通りやはり誰も居ない。
チャンスだ、と大輝は思った。公園内の植え込み横の堅い土の道を二人で歩きながら、中ごろで足を止めた。
「ん?靴ひもでも解けた?」
突然立ち止まり俯いた大輝に七海は尋ねた。しかしすぐに彼の様子がいつもと違うことに気が付いた。
「何?どっか痛いの?」
心配そうに自分の顔を覗き込む七海の顔を見ていると、大輝は思わず「なんでもない」と言いそうになってしまう。それでは駄目なのだ。
すぐに目を逸らし、やがて意を決して、
「なっ、七海!!」
と、叫んだ。
「……なぁに、大声出して」
訝る彼女を無視して、大輝は続けた。
「ぼ、僕もうお前と、仲良くしないから!!」
「…………はぁ?え、それ、どういう意味?」
「お前と……女子と居ると馬鹿にされるし、あと、その、一緒に居ると恥ずかしいし……」
ズボンのポケットのあたりを強く握りしめる大輝の顔は、夕焼けのように顔を真っ赤に染まっていた。
いきなりの絶交宣言に七海は怒るかと思いきや、意外にも呆れた様子で真っ白な溜息をついた。
「ねえ、もしかしてそれ、舟木にでも言われたんでしょ。……男子ってホント、そういうくだらないの好きだよねー」
指摘は正に図星だった。
まんまと見抜かれたことが大輝の気恥ずかしさに拍車をかけて、血が上った所為で顔がやけに熱くなった。ただでさえ普段とかけ離れた行動をした所為で気持ちの整理がついていないところに、更なる追い打ちをかけられた所為で、もう自分でも歯止めが効かなくなっていた。
「うっ――うるさいブス!お前なんか嫌いだ!!もう絶交だからなぁ!!」
力いっぱいの叫びが公園に空しく響いた。
「あ……」
言い終えてから、大輝は「しまった、言いすぎた」と思った。
気まずい静寂が二人を包み、やけに寒々しくカサカサとした風が頬を撫でた。カッと熱くなっていた数秒前とは裏腹に、冷や水を浴びたように血の気が引いていた。
目の前に七海が居るにもかかわらず、黄昏の陰が表情を黒く消し去ってしまった所為で、彼女が今どんな顔をしているのかわからなかった。約十年の人生で、一番気まずい瞬間だった。
「ご――」
ごめん――大輝は反射的に謝ろうとしたが、ピシャリという乾いた音と、冷めた頬が再び熱くなる感触に遮られてしまった。
自分が七海に引っ叩かれたと気が付くまで、少し時間がかかった。
「――大輝の、バカ。大ッ嫌い――」
絞り出すような声だった。
なのにその声は、嫌にはっきりと耳に――心に届いた。
瞬間、胸の奥で何か重たいものが落ちて行くような、息が詰まるような感覚に襲われた。それは罪悪感なのだが、大輝はまだそれを表現する言葉を知らなかった。
それでも、自分が七海にとんでもないことをしでかしてしまったという心が凍てつくような自覚はあった。
大輝は背を向けて歩み去って行く七海の背中を、ただ見つめることしかできなかった。追いかけたかったのに、根っこが生えてしまったように脚が動かない。
だが七海が真っ直ぐ公園を通り抜け、そのまま一人家路につくことはなかった。
――がさっ、という音と同時に、公園に落ちる陰に溶け込むように流れる影が三つ、すぐ横の植え込みの方から飛び出した。
「――――んぅっ!!」
七海が驚愕の声を上げるよりも素早く、影の一つがぬっと伸びて彼女の口を塞いだ。
影の正体はどうやら三人の男のようだ。少女の口元にはハンカチが押し当てられ、あっという間に両手足をだらりと力なく投げ出した。
その間、別の一人が七海の胴に手を回し、さらにもう一人が丁度子供が収まる大きさのゴルフバッグを開けると、工場での作業のような素早さで彼女はバッグの中に収まった。
男達は別々のタイミングで大輝を一瞥するが、別段気にする様子もないままに、再び植え込みの向こうへと消え去ってしまった。
全てはほんの十数秒の出来事だった。
「………………」
大輝はその光景を何一つ理解できないままに眺めていた。
男達が完全に居なくなり、車のエンジン音が遠ざかる頃になって――ようやく彼の脳は事実を認識した。
七海が、目の前で、誘拐された。
事実が血流に乗って全身に理解を促してゆくと共に、冷たい汗がドッと吹き出す。
弾かれたように茂みに飛び込むが、その向こうには木々と住宅が憮然と立ち尽くすだけだで、七海と男達の面影も痕跡も、何一つとして見当たらない。
遅れてやって来た恐怖と、大切なものが奪われた喪失感と、最後に聞いた「大ッ嫌い」という声が大輝の中で大きくなって、その混濁した感情に押し出されるかのように、わけもわからず涙が溢れだした。
「――うぅっ、うわあぁぁあぁ!!」
堅い地面の上に崩れ落ちるようにして蹲り、涙が流れるままに、泣いた。何も考えることができない。
そんな中でたった一つだけ、大輝の心を支配している明確な想いがあった。
(――なんで僕は、あんなことを言ってしまったんだろう)
状況は未だに飲み込めず、大輝の発言と七海が攫われたことへの因果関係はないことも明白だった。
それでもただ、彼女を傷つけたという墓標のような自覚と罪悪感が、事件を凌駕して大輝に圧し掛かっていた。
「――――フェアじゃあない、と思わないか?」
泣き声だけが空しく響く涙でぼやけきった暗がりの中で、場違いなほど明朗な声がした。
声は大輝の真後ろから聞こえたので思わず振り向くと、そこにはぼんやりとした影があった。
次々溢れる涙を何とか拭い視界をはっきりさせると、その影は一人の老人であることがわかった。
老人は不思議な印象だった。人種は不明だが白人、やせ気味で、髪は白く輝いており、茶色いカシミアのコートにという出で立ちだったが、その外見的な印象に反し、瞳や声からは遥かに若く溌剌とした雰囲気が滲んでいた。
どうしてそう思うのか――大輝は自分でも不思議だったが、そうとしか感じないのだからしょうがなかった。
「子が親を選んで生まれてくることが出来ないように、世のあらゆる事象は個人の思惑の届かぬ所で予め定められている。才能や性質も同様に、現状を改善することは可能であっても、既定された限界を超えることは出来ん。限界を超えたという言葉は限界を見誤っていた者の戯言だ。そう、運命を知らぬ者に運命を変えることなど不可能なのだ」
「………………」
老人は歌い上げるようにすらすらと言葉を紡いでゆく。だが大輝には老人が何を言っているのか、まるで理解できなかった。
そんな大輝の様子などお構いなしに、老人は続ける。
「生来の肉体や才覚同様、環境や構造も易々とどうにかできるものではない。困窮の中で生まれる多くは貧困の中で死に、富める者はより裕福になる。世の中は強者に有利な構造に作られているのだから当然だ。中にはノブレス・オブリージュを唱え善行を施した気になっている輩も居るが、あんなものは気まぐれな自己満足か、あるいは保身や宣伝のための投資に過ぎん。選べぬからこそ世界は平等であるとも言えるが、それでもあえて私は言おう。フェアじゃあない、と」
遠くを見つめていた老人が、踊るような大仰な動きで大輝へと振り向いた。
大輝は驚いて後ずさる。呆気にとられているうちに涙が止まっていたが、それに気が付くだけの余裕はない。
老人は口の端を吊りあげ、
「小僧。お前に力をくれてやろう」
と、突拍子もないことを言ったので、大輝はただ、
「……え?」
と漏らすのが精いっぱいだった。だが老人は意に介さずに続ける。
「イメージは重要だ。己が強いと信じられるイメージが良い。小僧、お前にとって最強の存在はなんだ?ん?」
大輝は謎の老人に完全に呑まれてしまい、疑問を口に挟むことも、まして七海が誘拐されたことも一瞬忘れてしまった。
その所為か、最強の存在という漠然とした質問に、不思議とすんなり答える。
「――セイマン。マシン騎士、セイマン……」
「なんだそれは?」
「え?あ、その、幼稚園の頃やってたテレビのヒーローの、マシン騎士シリーズの、えーっと……」
「ふむ、なるほど」
呟くなり老人はコートの中に手を入れたかと思うと、突然一冊の本を取り出した。
真ん中には赤を基調としたヒーローの写真があり、派手な色合いで『マシンないと・セイマンのひみつ』と大きく書かれている。
「え?え?なんで?っていうかどこから……」
B5判の分厚い本で、とても懐に入るような代物ではない。
それどころか老人は大輝によってタイトルを告げられるまで、作品そのものを耳にした様子さえなかった。にもかかわらず、老人の手元には大輝も持っているガイドブックがある。
老人は目を左右に素早く動かしながら、あっという間にページをめくり、ものの十秒ほどで読破してしまう。
「ふーむ……一体なぜ、騎士と機械と陰陽師が混然と扱われているのかはわからんが……よし、大体わかった」
次の瞬間に起こったことは、七海の誘拐や本を取り出したこと以上に、大輝の理解の範疇を逸脱していた。
大輝は確かに目の前の不思議な老人を見つめている。瞬きもしなかった。
だが、まるでコマ落ちしたかのように、一瞬にも満たない時間のうちに茶色いコートを羽織った老人は忽然と消えた。
消えたという表現は正確ではない。確かに老人が立っていたのと全く同じ場所に、今も一人の老人が力強く立っている。だがその外見も体格も、まるで別人のものになってしまっている。いつの間にか先ほどまでの老人は、白衣をまとったロマンスグレーの日本人男性に変わっていたのだ。
そしてこの老人のことを、大輝はよく知っていた。
「く……葛葉……博士?」
「うむ、そうだ。以後私のことはその名で呼べ。なに、こちらの方がお前にとって親しみがあると思ってな」
テレビで見ていたマシン騎士・セイマンに登場した葛葉博士その人が、そこに居た。
その姿は仮に本人が隣に居たとしても見分けがつかないほどにそっくりだった。違いが見当たらないのだ。
しかし番組内での博士は「わしが葛葉博士じゃ」といういかにもな老人口調であったが、目の前の博士は先ほどまでの老人の口調そのままだったので、大輝は少し戸惑った。どうやら外見だけそっくり変わってしまったただけで、中身は先ほどまでの老人のままらしい。
「さて。お前に力をくれてやる前に重要なことを確認しなくてはならない」
「え?……じ、重要なことって?」
「それはお前の動機だ。正しく動機を認識しないことには、戦いは務まらん」
「……動機って……?」
「今、この瞬間、お前が何を成さねばならぬか、ということだ。力を手にしたとして、お前は何のために力を使う?」
自分が何のために戦うのか――流されるままに大輝は考えた。
そもそも"力"とは一体何のかわからなかったし、老人はどこから来た何者なのかすらわからなかったが、老人は疑問を差し挟む隙を与えてはくれない。
「……七海を……助けたい」
しかし老人はバッサリと、
「ふむ、それは目的であって動機ではないな。そんなことは聞くまでもなくわかっている。何を成すか、ではなく、何のために力を使うのか、その理由を考えろ」
と、改めて言い直した。
それを受けて大輝は、最もシンプルな答えに行きついた。
「僕は……七海に、謝らなくちゃ。……でも」
老人は答えを聞くと、にやりと笑った。
「いや、皆まで言うな。確かに今のお前には不可能だ。だから私が、お前に力をくれてやろうと言うのだ」
そう告げると老人は右手を目の前にかざした。大輝も自然と老人の右手に注目する。
注目した丁度その時、ほんの一瞬だけ眩い光が弾け、突風が吹いたような気がした。
「これが――その力だ」
いつの間にか老人の手には白亜のガントレットが握られている。一秒にも満たない時間のうちに、突然どこからともなく出現していた。
ガントレットの手の甲の部分には五芒星が描かれており、星の先端にはそれぞれ赤・青・緑・黄・紫の宝石が、星の中央には五角形の白い宝石がはめ込まれている。
右手用のそれは、騎士の鎧をモチーフにしたものでありながら、袖口の部分には狩衣の袖くくりの紐のような黒い破線が描かれている奇妙なものだった。
大輝には、突然それが現れたという事実よりも、目の前のガントレットそのものに対する驚きの方が大きかった。かつてこれと同様の、しかし老人が手にしている物より遥かにチープなおもちゃを、両親にねだって買ってもらったことがあるからだ。
紛れもなく、子供向け特撮番組『マシン騎士・セイマン』の主人公の変身アイテムだった。
「これ……ソル・ガントレットだ」
「そうだ」
「え?これ、本物ってわけじゃないよね……?」
「ふむ、撮影用の小道具を本物とするならば、偽物ということになるな。しかしこいつは、たった今、私がわざわざお前のためだけに誂えてやった、正真正銘の変身アイテムだ。さあ、着けてみろ」
差し出されたガントレットを、大輝は思わず受け取ってしまった。機械的な外観からもっとずっしり重たいのかと思っていたが、リコーダーよりも軽いくらいだ。
まじまじと眺めてみると、ガントレットは確かにおもちゃよりも遥かに精巧に出来ていた。
試しに右手に着けてみると、ガントレットというよりまるで手袋のように馴染んだ。冷たくも温かくもない。
なぜだかその装着感は、荒唐無稽な老人の話が真実である実感を大輝に与えた。
自分が本物のヒーローになれる実感。それを感じた時、大輝の目からは止まったはずの涙が再び溢れだした。この反応には老人も不思議がった。
「ん?なぜ泣く、小僧」
「……無理、だよ……僕には、無理だよ……」
ボロボロと大粒の涙が渇いた地面に落ちて、黒い染みを作り出す。
「なぜ無理だと思う?」
「だっ……だって、ヒーローはみんな、強い人だもん……。ぼっ、僕は強くないっもん……。ケンカも、弱いし……ヒック、ドッジボールも、すぐ、当たっちゃうっ……」
こんな泣き虫の僕では七海を助けられない。ヒーローになれるのは強くてかっこいい男だけ。
間違っても、女の子にひどいことなんて言わないような――。
声にならない思いが、ただ涙とともに溢れては冷たい地面に沈んでゆく。
「なるほど、まあもっともな理由だな。お前が貧弱で泣き虫で弱気な小僧だというのは的確だ。しかもそれは生来の問題だ。いくらお前が性根や肉体を鍛えたところで一流の格闘家や、物語の中のヒーローのようになれるかと言えば、そう簡単なものではにだろう。可能性は低く、もしかすると不可能かもしれん」
老人は容赦がなかった。だが少年はそれが事実であり反論の余地もないため、ただ泣き続ける。
「お前には動機も目的もある。それを遂げ得るガントレットもある。あとは小指の爪ほどの勇気があれば、ヒーローの条件は全て揃う」
諭すような口ぶりだった。
そして老人は大輝の目線に合うようにしゃがんでから、少し声のトーンを落とし、
「弱くても、助けたいんだろう?」
と、呟くように尋ねた。
「…………うん」
答えを聞くと、老人は満足そうにニヤリと笑った。
「ならば念じろ。変身したい、と」
老人が促すと、大輝は無言で頷いた。
そして願った。
(――七海を助け出せるだけの力が、ほしい――)
涙を袖口で拭うと、ガントレットの五芒星を指でなぞり、それから右手を空に掲げ、
「――変身ッ!!」
と叫んだ。
呼応するかのようにガントレットの宝石が眩い光を放ち、瞬く間にその光は大輝の全身を包んだ。既に暗闇に支配されつつある公園が、光によって昼間のように明るく照らされる。
「別に変身のために動作や叫ぶ必要はないのだが……まあいいか」
光が晴れるとそこに大輝の姿はなく――――白亜の騎士が降臨していた。
クローズド・ヘルムやプレートアーマーを象った意匠でありながら、頭部には烏帽子、胸部や袖口なども陰陽師の狩衣をモチーフにしたデザインが取り入れられてる、和洋折衷な機械仕掛けのヒーロースーツ――その姿は紛れもなく、マシン騎士セイマンのそれだった。
「あれ?でもなんかこれ、ちっちゃい……?」
「当たり前だ。一三〇センチのお前にしっくりくるようにしてあるからな。お前に合わせてる以上姿はちんちくりんだが、性能は作中同様――いや、それを遥かに凌駕するほどだ」
老人の言葉を聞きながら、大輝はあらためで体を覆い尽くすアーマーに意識をめぐらす。
最初に気が付いたのは視界の変化だった。ヘルムにより邪魔されているはずの視界はむしろ普段よりも遥かに良好で、足元だけを照らす粗末な街灯の光しかない公園が、大輝の目には日中とほぼ変わりなく映っている。
全身を覆う金属質のアーマーも、不自然なほどに軽い。いつも着ているTシャツと変わらないくらいだ。内側は温かくも冷たくもなく適温だ。完全に外気が遮断されているようだ。
しかし装甲に当たる外気の流れや、それとは異なる何か不思議な圧力は機敏に感じ取れる。皮膚が二重になったような気分だった。
試しに掌をグーパーと握り開き、体をでたらめに動かしてみるが、あらゆる可動域も普段通りでまるで疎外されることがない。鎧のような外見に反し、何か理解の及ばない特性を持っているようだった。
「その鎧装け……いや、セイマン・アーマーは通常の金属製ではないからな。一見金属に見える部分も状況に応じ自在に変化し、動作を妨げることがない。一方で強靭な防御性能を誇る、正に理想のスーツだ」
大輝の考えを見透かすように説明をするが、彼の耳には届いていない。スーツによって感覚が研ぎ澄まされ引き上げられるような状況に戸惑っていたのだ。
「――さて、と。慣らしを兼ねて、早速行くぞ、小僧」
「…………え?……ああ、うん。えっと、でもどうすれば……攫った人を高いところから探すとか……」
「阿呆、そんなまどろっこしい無意味なことなどせんわ。何、いきなりお前に難しいことが出来るとは思っておらんし期待もしとらん」
「じ、じゃあどうやって……」
大輝の言葉を待たずして、白衣の中から先ほどのガイドブックを取り出し、あるページを開いた。どう見ても、大判の本が収まるだけのスペースもないのだが――大輝は気にするだけ無駄なのだろうと思った。
「この番組が好きだったのだろう?だったら、こんな時に何をすべきか既に知っているはずだ。答えは作中にあり、だ」
開かれたページには、緑色で少し形の違うセイマンが敵を蹴散らす写真と共に、「しぜんのちょうかんかく!もくぎょうのちから!」と書かれている。写真を見て大輝はようやく老人の意図を理解した。
「あ!えっと、でもフォームチェンジってどうやれば」
「変身と同じだ。変わりたい姿を念じろ」
「う、うん。――チェンジ・ウッドフォーム!」
大輝の叫びに合わせて、手の甲にはめ込まれた緑色の宝石が光り輝く。
腕、足、胸部、そしてヘルムに蔦や葉のような装飾が表れて、真っ白だった装甲も鮮やかなメタリックグリーンに変化する。
「よし。問題なくできたな」
「……うっ、わぁー……」
外見の変化も顕著だったが、それ以上に感覚の変化が著しく、大輝は思わず目をつむりそうになった。
先ほどの白い姿――ソルフォームでさえ明るかった視界がより一層眩くなり、陽の高い日中のように映っている。さらに聴覚も異様に研ぎ澄まされており、遠くを往く人々の足音、自動車のエンジン音だけではなく、運転手の咳さえも聞き分けることができるのだった。
「すごっ……本当に、テレビのまんまだ……」
「そうだろう、そうだろう。ふふふ、感謝しろ小僧」
破顔した老人は自慢げに一人ごちてから、唐突に地面を指差した。
「?……あっ!」
老人が指差した場所には、先ほどまであったにもかかわらず見えていなかったものが、ありありと浮き上がっていた。
「その姿ならばこれが見えるだろう」
「これって、足跡……だよね」
「ああ」
地面の上には無数の足跡が、まるで蛍光塗料でも付着したかのように淡い光を発している。
多くは公園内を行き来し、遊んだり通り抜けたりしている様子がわかるものだが、明らかに異質な流れを汲んでいるものがあった。それこそが七海を誘拐した犯人のものだった。
その三つの足跡は植え込みの側から現れて植え込みの向こうへと戻っていた。先ほどの動き通りの足跡だった。
植え込みの向こうを覗いてみると、往復する三つの足跡が点々と続いている。そこはほとんど人が通らないため、足跡は誘拐犯のもの以外に見受けられなかった。
「じゃあこれを追って行けば……」
「目的の場所に辿り着けるな」
足跡を見つめながら、また大輝は悩んだ。
――自分が果たして、あの大人たちに勝てるんだろうか?こんな強そうなヒーロースーツを手に入れたところで、しょせんは子供だ。一方で相手は大人、しかも三人も居るのだ。いや、もしかしたらもっとたくさん居るのかもしれない。ナイフとか、ひょっとしてピストルなんか持っていたら、もうお手上げだ。
そんなことを考えてしまうと、また弱気が顔を上げてしまいそうになったが――大輝の脳裏をふと七海の泣き顔が過った。
今までの人生、自分が泣くことはあっても、殆ど泣くことも落ち込むこともなかった七海が見せた、数少ない泣き顔。原因がなんだったかはもう忘れてしまったが、しゃくりあげるように彼女が泣き出した時は自分が慰めなければと思い、必死になって慣れない励ましの言葉を投げかけたのは覚えている。
それなのに今回は、酷い言葉を投げかけてしまった。もしかしたら、いや、間違いなく七海は――泣いている。それを知っていて、助け出せるのは自分だけだ。
欠片ほどの勇気が大輝の心に灯る。儚くいつ消えてしまうかもわからない、線香花火のような灯。
「……博士、ちゃんとついて来てね」
「私を侮るな。そいつを作ってやったのは私だ。なあに、戦いを見届けるまではお前のサポートはしてやるから、安心して行け」
五十メートル走の時を思い出しつつ、足跡に視線を据える。まずは一歩を踏み出すと――
「――――うぅ――――わっ!!」
――目にもとまらぬスピードで、緑の風が公園を吹き抜けていった。