涙(前編)
予想以上の音をたてて、どんぶりがテーブルに置かれた。後ろ髪を刈り上げた短髪の少年が、いち早くそれに反応する。いい香りが漂ってきた。
「食べていいっすか」
健斗はぐいと身を乗り出すと、正面に座る男に小さな瞳を向けた。見つめられた西条は、困ったように眉をひそめる。なぜだか彼はその子犬のような瞳に弱かった。
「もう二問解いたら、だろ」
栗色の柔らかそうな髪をした少年が、健斗の前のほとんど何も書かれていないノートを右手でコンコンと叩く。二人は塾の講師でもある西条に勉強を教わっていた。
先日西条と出会った街まで逆戻りし一泊した彼らは、街の中にある少し古臭い食堂にいた。ここが彼の言っていた“優秀な人物”との待ち合わせの場所だった。
「なんか意外でした。もっと高級なお店で会うのかと」
どんぶりを前に『待て』をさせられている健斗の隣で、涼が口を開く。彼の前には食べかけのクラブサンドが置かれていた。
「そういうのはあまり得意じゃないらしい」
西条はここへ来た目的を思い出したらしい。少し緊張した表情を浮かべた。彼の足の上には肩から掛けられたカバンが、しっかりと抱きかかえてある。盗まれることを心配していた。
「できたー」
黒いつなぎの少年が大きな声を上げた。正面に座っていた男がびくりと肩を震わせる。健斗はノートを彼に差し出すと、満面の笑みでどんぶりの蓋を開けた。
西条は渡されたノートの採点を険しい顔でしながら、斜め前で問題集を捲る涼を一瞥した。少年は真剣な表情でそれを見つめている。西条は言った。
「あんたは勉強が好きなんだな」
「好きってわけじゃ、ないです。ただ、クセになってるだけで」
涼は困ったように眉を寄せ、クラブサンドを一口かじると複雑そうに唇を歪めた。
ケンカが強くて、勉強も運動も一番になって、
そうすれば、世界が変わると本気で思っていた、あの頃。
今から六年前の自分。
小さな子供。
クロイセカイにいた少年。
「森江くん、今回も満点でしたよ。頑張りましたね」
神経質そうな痩せた男が、一枚の紙を栗色の髪の子供に差し出した。数字が並ぶ、算数のテストだ。
森江 涼 十一歳。彼がまだクロイセカイの住人だった頃。
「すげー」
「また百点かよ」
「友達いねーし、やることねーんだよ。他に」
様々な言葉が飛び交う。みんな小声で喋ってはいるが、涼に届かぬほどではない。彼は表情一つ変えず、机に真っ直ぐに向かった。
病気の知識は多少入ってきたものの、一度出来上がってしまった関係を、覆すことは容易ではない。あの日以来、彼はずっと一人だった。それはこの先永遠に続く気がした。でも。
もうすぐそんなセカイに終わりがくることを、この時の彼はまだ知らなかった。
その日の帰り道。涼はいつもの田舎道を歩いていた。その右手は山からの急な斜面になっている。彼はいつも通り独りきりで、いつも通りの歩幅で進む。もう何年も寄り道する用もない。
だが、その日は違った。
「のあーーーー!」
その時、突然頭上から大きな声と共に少年が降ってきた。涼は器用にそれを交わす。どうやら山の斜面側から落ちてきたようだ。
「あいたたた」
涼が呆気にとられ一歩も動けずにいる目の前で、泥だらけの少年はゆっくりと起き上がる。クラスメイト達に言われた言葉が脳裏を横切り、彼をもう一歩後ろに下がらせた。同じ年頃に見える後ろ髪を刈り上げた少年は、栗色の少年と目が合うとにっこりと微笑んだ。涼はどうしていいか解らず、また一歩後ろに下がる。
当惑する彼を余所に、少年は服の汚れを払うこともせず一歩踏み出して言った。
「あ、そーだ。この辺でひみつ基地的な場所知らない?」
「…………」
「ねえってば」
もう一歩踏み出した少年にくるりと背を向けると、涼は脱兎のごとく走り出す。そして唖然とする少年を置き去りにして、あっという間に消えていった。
空はいつもの灰色をすっかり黒く染めていた。辺りはしんと静まり返り、窓からほんのりと洩れる明かりが人の気配を感じさせる。そんな中の一つで、ひとりの少年が絶句していた。
「坂……、仲村健斗です」
帰り道で会った少年は、硬そうな生地の作務衣に身を包み笑っていた。彼の両隣りには近所に住む伯父と伯母がいる。
「今日からうちの家族になったの。つまりは涼、あんたの従兄弟ってこと。よろしく」
伯母が親指を立てた左手を前に突出し、そう言った。彼女は少年の父、リオの姉である。涼はいつも二人はよく似ているなと思っていた。
「よかったね、涼。友達になろうね」
隣にしゃがんでいた涼の母、流香が彼の手を強く握った。涼の瞳がさっと曇る。流香はあの日からずっと、彼に友達を作ろうと必死だった。そのためにクラスメイトの家を、一軒一軒周ったりもした。
涼は、それに答える術を今もまだ見つけられずにいた。
「うわあ、すげー。見たことないおもちゃ、めちゃめちゃあるじゃん」
大人たちの計らいで、少年達は涼の部屋で遊ぶよう命じられた。部屋に入った途端、健斗はその隅にある大きな籠に入った玩具たちに食いついている。彼の言うとおりその籠には、溢れんばかりの玩具が入っていた。
「……なんか、父さんがどんどん買ってくるんだよ。ぼくは別に……」
栗色の髪の少年がそこまで話し恐る恐る瞳を上げると、もう一人の少年は籠の中の玩具を取り出し夢中で遊んでいた。涼の話を聞いていた様子はない。彼は呆れて、机に座ると宿題をするため教科書を開く。来客の少年は、帰る時間になるまで飽きずに様々な玩具で遊んでいた。
騒がしい少年が去った後、涼は散らかった玩具たちを一つ一つ籠に入れていく。うんざりした表情を浮かべてはいたが、心の底では少し喜んでいる自分がいることに薄々気付いていた。なぜならもう何年も、同じ位の子供と話すことなどなかったのだから。
「あれ?」
涼は首を傾げる。
玩具がひとつ無くなっていた。
灰色の空から柔らかな日差しが降り注いでいた。
涼は枯れた木が立ち並ぶ林の中にいた。木漏れ日はないが、地面には丈の短い、色のない草がまばらに生えている。彼はそこの一本の木にもたれ、静寂の中うつらうつらしていた。
そんな中、ガサガサと言う紙の擦れる耳障りな音が響き始める。涼は眉をひそめて、ゆっくりと目を開けた。
「あれ、ごめん。起こした?」
目の前にいたのは健斗という少年だった。涼は慌てて立ち上がると、そのまま木にぶつかりながら後ろ向きに数メートル飛びのき、近くの木の後ろに素早く隠れた。
「こっ、こんな所で何っしてんだよっ」
「何って……。これを郵便で送りたいんだけど、うまく包めなくて」
健斗は右手に持ったものを前に出す。左手にはくしゃくしゃになった紙が握られていた。髪を刈り上げた少年の右手に握られているものに、涼は見覚えがあった。昨日まで彼の家にあった物。
貨物列車を本物さながらに作り上げた、両の手サイズの玩具だった。
「あ」
涼が見つめているのに気付き、健斗ははっとしたように小さな目を見開く。そして困ったように口をへの字に曲げると、抑揚のない声で言った。
「これそこに落ちてたよー」
涼は呆気にとられて彼を見つめる。そんな言い訳が、本気で通用すると思っているのだろうか。目の前の少年は小さな瞳で彼を見つめたまま、その玩具を差し出しにこにこと微笑んでいる。その様子を見ていると、なんだかバカバカしくなってきた。
「い、いいよ。あげるよ。べ、別に、遊んでないし……」
「ホントに?」
「う、うん」
健斗は本当に嬉しそうに満面の笑みを浮かべる。涼はその時、思った。病気の事言わない。そうすれば友達でいてくれるんじゃないか。笑っていてくれるんじゃないか。ズルいけど、すぐにバレるだろうけど、もう少し。
もう少し、だけ。
「ありがとう」
駆け寄ってきて頭を下げる彼に、涼は俯いたまま小さく小さく頷いた。
その夜。書斎で仕事をしていたリオの所に、涼は玩具の入った籠を引きずってやってきた。リオは奥二重の瞳で交互に少年と籠を見た後、憂いに満ちた表情を浮かべる。
「涼、お前。パパの買ったもの気に入ってないとは思ってたけど、まさか返すほどとは……」
「ち、ちがうよ」
涼は大きく首を左右に振った。
「健斗のいた孤児院。おもちゃとか買えないんだって。だから今度そっちに出張行くとき、これを届けて」
栗色の少年がまっすぐ父親の目を見上げる。リオはそれを受けて、とても優しく笑った。
「任せとけ。……でも、こんな全部いいのか」
「うん、ジャマだし」
「お前、流香さんに似てるな」
栗色の髪をした親子は、それぞれの顏に笑みを浮かべた。
いつもの林。今日はいつもより曇っていたため、少し肌寒い気がした。学校が終わった後、最近栗色の髪の少年はここへ通うのが日課になっている。いつもの木の前に座っていると、騒がしい少年が「涼」と叫びながら走ってきた。手に封筒を持っている。
「おもちゃと一緒に手紙も預けることにしたんだ。まちがい、ないか見てくれよ」
「いーけど」
差し出された封筒を受け取ると、中の便箋を開く。その中身に彼は目を疑った。
「どう?」
「……読めない」
そこには謎の線の羅列がある。少なくとも彼にはそうとしか見えなかった。
「ウソ、マジで」
手紙を返してもらった健斗は、小首を傾げながらそれを見つめる。
「……まあ、いーや。学校行き始めてから、もう一回チャレンジしよ」
健斗の言葉に、涼の顏は曇った。クラスメイトの顏が浮かぶ。笑い声や陰口が聞こえる気がする。
「学校……行くんだ」
「うん。明日からね」
学校に行けば彼は、涼の病気のことを知るだろう。隠していたことを、きっと許してはくれない。
急速に心がクロくなっていくのを感じた。そして、思い出す。
自分がクロイセカイの住人だってこと、を。




