かけら(後編)
その日も暑い日だった。健斗は相変わらず、泣き言を繰り返しながら働いている。涼の姿はない。
「ふぅ」
涼は少し離れた建物の陰にいた。壁に沿ってズルズルと座り込むと、被っていたキャップがずれ、ぽとりと足の上に落ちた。その時。
「こら、さぼりかっ」
その声にびくりと体を震わすと、慌ててキャップを被り直す。現れたのは真緒さんだった。
「ごめん。びっくりした? でも、森江くんがサボるなんて意外だわ」
彼女は悪戯っ子のように笑った。涼はゆっくり体を起こす。
「いえ、頭痛くて、すいません」
「えっ、平気? 薬いる」
真緒さんは彼の隣に今日の差し入れであろうカバンを置くと、ゴソゴソ探り始める。
「すみません。でも、薬はもういいです」
そう言って立ち上がろうとする涼に、真緒はカバンをポンポン叩き横になるよう促した。そしてその隣に腰を下ろす。
「ダメなときはちゃんと言いなよ。勇ちゃんは厳しいけど、わかってくれるよ」
「ありがとうございます」
涼はゆっくりとした動作で、カバンを枕に横たわった。
健斗はシャベルで地面を少し掘っては休み、を繰り返していた。
「健斗。涼はどうした」
永谷は錆の浮いたパイプ椅子に座りながら聞いた。汗をリストバンドでグイと拭くと、健斗は彼の方を振り返る。
「さ、さあー。おトイレじゃないすか。そんなことより、永谷さん。その辺危ないんじゃないですか」
彼が座っているのは、先日斜面が急だと言われた辺りだ。杭を打ってロープが張ってある。
「大丈夫。よろけて落ちたりしねえよ。そんなことより」
永谷が健斗を見る。少年はにっこり笑って穴を掘り始めた。
「勇ちゃんはね。私の近所に住んでる無愛想なお兄ちゃんだったの」
涼はゆっくり顔に置いていたキャップをずらし、真緒を見た。彼女は記憶を辿るように斜め上を見上げている。
「いっつも難しい顔して勉強してて、みんな近寄りがたいって言ってた。でも」
彼女はクスリと笑った。
「七歳の時だったかな。道で勇ちゃんに派手にぶつかったの。勇ちゃんは本ぶちまけちゃうし、あたしは転んじゃうし」
「へえ、どうなったんですか」
涼は起き上がって真緒を見た。随分楽になったような気がする。
「怖い人のイメージあったから、あたし大分ビビッてて。その後ね、勇ちゃんの本慌てて拾って謝ったら、笑って言ってくれたの。『ケガは?』って。『物より、人だろ』って」
真緒は満面の笑みを浮かべた。本当に嬉しそうに。
「へえ」
「なんだか反応薄いなー」
真緒さんは不満そうに膨れた。涼は「すみません」と頭を下げる。感情を大袈裟に表現するのは苦手だ。
「まあ、いーや。それからはすっかり懐いてびっくりされたなぁ。上京する時は泣いて暴れたし」
「永谷さんのことずっと好きなんですね」
涼は右手の指輪に触れた。少し古びた指輪だった。真緒さんは少し照れたようにポニーテールの髪先に触れて言った。
「だから今は、側に入れてすごく幸せ」
太陽はじりじりと地面を照らしていた。健斗はシャベルの柄に手をついてその上に顎を乗せ、ただ昼休憩を待ちわびていた。今日の差し入れのことを考えていた。
「なあ、健斗」
その彼に低い声が投げかけられた。少年はギクリとしてそちらを見る。
「三十分も籠るなんて涼はトイレの何なんだろうねえ…」
永谷は引きつった笑いを浮かべていた。健斗は一歩後ろに飛び退くと、「見てきます」と言って駆け出そうとした。
永谷は「待て」と言って慌てて杖を持ち、立ち上がろうとする。その時運悪く、彼の首のボールチェーンに、後ろの杭の小枝が引っかかった。
プチン。
小さな音がしてチェーンが切れる。そのまま滑り落ちるように斜面の方に消えていく。永谷は素早く振り返ると、手を伸ばす。必死で。軍にいた。懸命に頑張った。それだけが唯一の誇りだった。
もう、それしかないから。
涼が現場に戻った時、そこは騒然としていた。不思議そうに人だかりに近づく。そして健斗を見つけて声をかけた。
「どうした?」
「それが、永谷さんが」
苦虫を噛み潰したような顔の彼の視線を辿る。それは崖とも呼べるであろう、急斜面のほうへ向かっていた。
涼は慌てて腰の辺りまで張られたロープへ駆け寄る。
「永谷さん」
彼はそこにいた。急斜面の小さな出っ張りになんとかしがみ付いていた。
「よし、下りて助けるぞ」
古い従業員の男が、そう言ってロープを体に巻き始める。それを少年が奪い取った。
「おれに行かせてください」
「涼」
健斗が心配そうに瞳を揺らした。
「何言ってんだ、バカ。バイトに行かせられるか」
「永谷さんにここで終わりにされたら困るんです。お願いします」
「はあ? お前何を」
少年は目深に被っていたキャップをとり、深々と頭を下げた。決心は固そうだった。
「おい、やばいぞ。早くしないと」
下を見ていた青年が焦った声を出す。みんながそちらに注目している隙に、涼は素早く体にロープを結びつけた。何を言っても無駄そうだ。
「涼、気をつけろよ。永谷を頼むぞ」
「はい」
キャップを被り直し、彼は深く頷いた。
涼はゆっくり、慎重にその斜面を下りていった。パラパラと小石が転がる。十数メートル先に苦悶の表情を浮かべた永谷がいた。
「永谷さん、大丈夫ですか」
その問いに彼はちらりと上を見た。
「涼」
「右手、怪我してるんですか」
涼は不思議に思った。永谷はなぜか片手でしがみ付いていたのだ。
「いや」
「じゃあ、もう少し下がります。おれの背中におぶさって、両手でしっかり掴まって下さい。できますか」
涼は慎重に永谷の横に下がっていった。そんな彼に、永谷は静かに首を振った。
「何してるの」
いつもならそろそろ休憩の時間だった。しかし彼らはいつもと違い、真緒の到着を待ち望んではいなかった。彼女は騒ぎの中心へ歩み寄る。
「嫌だ」
低い声が響いた。聞きなれた声。真緒は駆け寄って崖下を見た。血の気がざあっと引いた。
涼は限界を迎え、ずるりと落ちかけた永谷の左腕を間一髪なんとか掴んでいた。担ぐことはできないかと思ったが、協力なしではとてもできそうにない。上からざわめきが降りてくる。
「あの、おれには冗談は通じませんよ。上で健斗に言ってください」
「ダメだ。そんなことしたら、ドッグタグが落ちちまう……」
よく見たら彼は右手に認識票を握っていた。少しずつ汗で滑り、今にも落ちそうである。
「だから、もういいよ」
永谷の顏は涼の方を向いていた。けれど目はどこか遠くを見ている。涼は顔を曇らせた。
「でっ」
涼は驚いて手に力を込める。衝撃は永谷にあった。靴が直撃したのだ。靴を投げた本人が怒鳴りつける。女性の声。真緒さんだ。周りにいた誰もが唖然としていた。
「ふざっけんな、バカ。もういいって何?そんなものが命より大事かよ。勇ちゃんが地雷の暴発に巻き込まれたって聞いた時、どれだけ心配したかわかる?生きてるって連絡きたとき、どれだけ嬉しかったか。わかるでしょ。だって」
真緒さんの目から大粒の涙が溢れる。ぽろぽろぽろぽろ、とめどなく。
「物より人だって…、そう言ってくれたじゃない」
彼女は地面に崩れ落ちた。地面にしみが次々できていく。永谷は何も言わなかった。涼は一瞬呆れた表情を浮かべ、そして独り言のように呟いた。
「じゃあ、死ねよ」
一瞬、世界が凍りつく。彼は続けた。
「あなたを見てると、昔の自分を見てるようで、イライラする」
記憶が鮮明に蘇ってくる。彼も昔、体が欠けたら死ぬと泣いた、のだ。
「涼。お前、何」
永谷は涼を見る。汗だくの少年は眉を寄せ、苦痛の表情を浮かべている。腕が痺れはじめていた。
彼は大きく一つ息を吐いて言葉を繋げた。
「おれの目は、少しずつダメになって、そのうちほとんど見えなくなります」
誰も一瞬言葉の意味を理解できなかった。暗い目で崖下の二人を見つめる健斗以外は。永谷はぽかんと涼を見上げていた。
涼は苦しそうに顔を歪めながら、薄く笑った。
「だからあなたの言葉を聞くと、どんどん未来が絶望していくんです。勝手な話だけど、生きて、未来は楽しい、そう言ってほしいんです」
そこまで言ったとき、永谷の体がガクンと揺れた。真緒の悲鳴が響く。涼の手が一瞬緩んでしまった。
ガラガラと石が転がり落ちていく。その中に、キラリと光る物が、あった。
「涼、早く引き上げろ」
永谷は涼の腕を掴んでいた。右手で。しっかりと。
そして、何とか彼によじ登る。
上に登った時彼らはもうクタクタになっていた。そんな二人にみんなが駆け寄る。真緒は泣きながら永谷に抱き付いた。
みんながそれぞれに各々の言葉を口にした。怒声だったり涙声だったり。けれど誰もが彼の生還を喜んでいる。
誰もが汗びっしょりだったが、気にする者は誰もいなかった。
暑い日が続いている。今日も変わらず男たちは、その日差しの中働いていた。しかし、二人の姿はない。彼らはプレハブの事務所にいた。
「ほい、ご苦労様」
永谷は封筒を差し出した。
「ちょっとイロつけといたから」
「ええっ、ありがとうございます」
涼は目を輝かせ、百点満点のお辞儀をする。それにつられて、健斗も軽く頭を下げる。「あ、ああ」と永谷は困惑した表情を浮かべた。
「涼」
少年はゆっくり体を起こす。永谷は視線を下げたまま、やんわり微笑んだ。
「今はまだ楽しいとか胸張って言えないけど、何もないなんて、もう絶対言わないから」
涼はにっこりと笑った。それを見て健斗も笑う。
彼らはペコリと頭を下げると旅立っていった。




