ミステイク(前編)
一定のリズムを奏でながら進む列車の中で、健斗は扉の前で右往左往した。彼は寝床を定める犬のようにしばらくそうしていた。
「だいたいお金もないのにこの後どうすんだよ。切符しかないじゃん」
いつもお金の管理は涼がやっていた。このあと何度か乗り継ぎもある上、一日では帰れない。健斗は切符を確認すべく、ショルダーバッグのチャックを開く。そこには一枚の切符とともに、涼のバイト代であろう紙幣が裸のままきれいに畳まれて入っていた。
健斗は小さな目を見開き、自分を落ち着かせるように長く息を吐く。そして薄い眉を寄せたまま窓の外へ視線を移すと、流れる景色は街の中心部を過ぎ建物の数もだいぶ少なくなっていた。線路に沿って川が流れている。
懐かしい、そう感じた。五年前、同じようにこの景色を見た。思い出す光景の中の川の対岸に少年が立っている。表情も見えない何の手振りも言葉もない、彼はあの日ただ立っていた。
アトが死んだ。アトは父親でたったひとりの家族だった。世間的に見たらどうしようもない人間だったのかもしれない。けれどよく笑う彼が好きだった。リオはそんなアトの友人で、彼もまたよく笑う人だった。
しかしその日一度も笑顔を見せぬまま、彼は少年をその場所へ連れて行った。彼は別れ際しゃがんで少年と目線を合わせると、「大丈夫。必ずなんとかするから。迎えに来るから」そう言った。正直その時の少年にとって、その言葉は心をすり抜けるだけの意味を持たないものだった。
そしてその日から少年が住むことになったのは、年月の刻み込まれた平屋のこぢんまりとした建物だった。一歳から六歳という年齢の子供、いぶきさんと呼ばれている大人とそしてその娘が暮らしている。その建物に釣り合ったこぢんまりとした人数だ。
「あの子ね、健斗って言うの。仲良くしてくれない?」
大人びた十代の少女が部屋の隅の小さな椅子に座った少年を見ながら、ここの子供の中では年長の唯に頭を下げる。彼女の名はいずみ、文字などを教えてくれるので子供達からは先生と呼ばれていた。
「でもなんか、ひとりでいいっぽいし」
唯が部屋の隅の少年を横目に薄い唇をとがらせると、いずみは膝をついて彼の瞳を覗き込んだ。
「きっと本当はひとりで寂しいって思ってるの。でももうひとりでいいって思ってる」
「よく、わからない」
ふてくされたように呟いた唯の言葉にいずみは優しく微笑むと、少し考えるように首を傾げる。ボブの黒髪がさらりと揺れた。
「仲良くしたいけどどうしていいかわからないの。唯はここに新しい子が来るたび仲良くなれたでしょう。健斗も仲間に入れてあげて」
顔の前で手を合わせ懇願する彼女に、少年ははにかんで半ズボンの裾を握った。唯は赤ん坊の時からここにいる。彼がここの一人目の子供で、一番の先輩なのだ。
「わかった」
唯は赤い顔で吐き捨てるようにそう言った。
その場所に来てからずっと、健斗はほとんどの時間を子供用の小さな椅子に座って過ごした。自分が何をしたいのか話したいのかどうかすらよくわからない。周りの子供達との間にうっすらとした透明の靄があって、彼らの言葉も遙か遠いところから聞こえてくるように感じていた。
「健斗、そとで陣取りやるからいくぞ」
その声もどこか離れた場所から聞こえた気がして、健斗はすぐに反応できなかった。そんな彼を立ち上がらせようと唯が腕を引っ張ると、健斗は怯えたようにその腕を振りほどいた。唯は特に驚いた様子も見せず、薄い唇を噛んで何度か頷く。
「なるほど。おやが死んで悲しいのか」
心が通わない言葉に健斗は俯いたままなにか言い返そうと口を開いたが、喉が詰まったように言葉は出てこない。小さな椅子の上で俯いたまま、ただ涙が絶え間なくあふれてきた。唯はその様子を一瞥すると、洗面所からくたびれたタオルを持ってきた。そしてそれを健斗に投げつけるとそのまま去って行った。
次の日もその次の日も、唯は日課のように健斗を遊びに誘った。どこか遠くを見ていた健斗も次第に彼へ視線を合わせるようになった。唯は痩せた少年であまり感情の抑揚もなく、淡々としていた。けれど時折見せる笑顔は優しくて、なぜか彼を信じてみようと思えた。
ある日健斗がぽつりと言った。
「みんなは、さみしくないのかな。オレはさみしい。アトがいなくてさみしい」
唯は椅子に座って俯いている少年を見下ろしたまま、鼻で笑った。
「オレはさみしくない。おやは知らないし。家族はみんなここにいる。だからさみしくない」
健斗が涙が滲んだ瞳で彼を見上げると、唯は感情のない目で見返してきた。健斗がひとつ瞬きをする。雫がひとつこぼれた。
「オレはさみしい」
「わかったよ。じゃあ、それでいいじゃん。あそぼうぜ」
いつかのように唯が少年の腕を引っ張ると、健斗は嘘のようにすんなりと立ち上がった。隣で痩せた少年がにやりと笑う。視点が変わると同時に、そこにはクリアな世界が存在していた。
「じゃあ、頼んだわね」
「はぁい、いぶきさん」
いぶきさんと呼ばれた女性は大きく頷くとにっこり笑った。少年と少女は顔を見合わせると、木でできた古いガラス戸を開けて外へ出る。転がるように駆けていく彼らを見送って、彼女はガラス戸を静かに閉めた。
健斗がここへ来てもう四年近くが過ぎていた。もうすっかり彼らがいることも笑って過ごす毎日も当たり前になっている。思い出すと今でもさみしい。でもその時間よりずっと、楽しい時間の方が増えていた。
「真広、ちゃんと金持ってるか」
唯の問いかけに名を呼ばれた少女は、肩から掛けたハギレを縫い合わせた手作りのショルダーバックを開いて見せた。その隣で健斗が険しい顔で中を覗き込む。
「おもちゃとかも色々買いたいよね。いぶきさんや先生にもなんかプレゼントとか」
「だめだよ。これはあたしたちのお金じゃなくて国のお金だから、余計なものは絶対だめ。それに余計な物買っちゃうとご飯がなくなるの。ね、唯」
彼女より頭ひとつ分背の高い少年が頷くのを確認し、真広はショルダーバッグを閉じるとボタンをパチンと留める。健斗は「ちぇっ」と小さく呟くと、ふてくされて黒い短パンのポケットに手を突っ込んだ。
メモを持っている唯が先頭を進み、その後ろであちこちに興味を示す健斗をたしなめながら真広が続く。人通りの多い商店街を小さな体で縫うように進み、目的の店に到着した。そこは雑多に物を取りそろえてある何でも屋のような店だ。しかし、そこで彼らは問題が発生したことに気がついた。
「どうしたの、真広」
足を止めた少女にすぐ前にいた健斗が気付く。その声に、店内へ足を進めようとしていた唯も振り返った。
「どうしよう」
真広は青ざめた顔をして、両手で握りしめているショルダーバッグの紐を差し出す。その紐の先には付いているはずの物がなかった。
「落としたのか」
唯がバッグの役目を失い、ただの紐になった物をつかんだ。真広がその紐を握りしめたまま、涙声で「ごめん」と言う。
「歩いてきた道探そうよ。家出てしばらくはあったよね。あそこから探そう」
健斗がなにかひらめいた時のように目を輝かせて笑った。三人は顔を見合わせると元来た道へと足を進める。その後、彼らは同じ道を三度歩いたが紐の先の部分は見つからなかった。
少しずつ暗くなってくる。いぶき達は心配しているかもしれない。三人は人通りから少し離れた場所で座り込み、沈黙していた。
「あたしがなくしたって言うよ」
真広が俯いたまま震える声でそう言った。
「三人で謝ろう」
買った物を入れるための大きなリュックを背負った唯が立ち上がる。もちろん中は空っぽだ。
「でも、今週どうしよう」
真広の悲痛な呟きに唯はまた押し黙った。ここで今の今までただ話を聞いているだけだった健斗がぽつりと言う。
「盗もう」
唯と真広は耳を疑って彼に注目する。健斗はまっすぐに二人を見返した。
「オレの父親はそうやって生活してた。オレもすごくうまくできるよ」
彼は自信に満ちた目をしていた。その瞳で見つめられた二人は困惑して目を見合わせる。誰もが誰かの次の言葉を待っていた。
「ご苦労様。ちゃんと全部買えた?」
いぶきの問いに、三人は曖昧に返事を返すと足早にそこを去る。思った以上にうまくいった興奮と、まっすぐに彼女の目を見られない後ろめたさが入り交じっていた。押し黙ったまま部屋に戻ろうとしている途中、唯が真広にバレないように健斗を呼び止めた。
「どうした、唯。オレなにか失敗した?」
二人の少年は狭い庭の端っこで顔をつきあわせている。健斗が神妙な面持ちでそう聞いた。
「いや、大丈夫だろ。完璧だったと、思う」
唯がチラリと目の前の少年を窺うと、彼は困ったように笑っていた。
「そこで、お前に頼みがある」
少し嫌な予感がして、健斗は腕を組んで唯を見上げる。彼は眠そうな目に真剣な光を称えていた。
「いぶきさんてさ、最近時々あたま痛そうにしてるだろ。病院に行ってほしいんだ、オレ」
「だから」
「だからこれから何回かこれやって、その分金貯めたい」
健斗は口を真一文字に結んで視線を泳がせる。それ以上唯はなにも言わなかった。二人は視線を合わせず時間だけが過ぎた。
そして少年たちは、お粗末で安直な選択をする。




