惑いの種(後編)
そのホテルでの最後の夜。涼はいつになく居心地の悪さを感じていた。リオが帰って数時間して戻ってきた健斗が、頻繁に彼のことを訝しげな眼差しで見つめているからだ。
「何だよ」
「別に」
バッグからあぶれた石を部屋の隅に並べながら、吐き捨てるように健斗は言う。涼は数時間前までリオが座っていた椅子に座りながら呆れた表情を浮かべた。健斗が来たということは、ここが彼の今日の眠る場所になるということだ。
「あ、そうだ」
そう言うと涼は古びた椅子から立ち上がった。自分の目の前までやってきた栗色の髪の少年を、健斗はまっすぐに見上げる。
「これ、宮日に返しておいてくれ」
涼がいつも右手に嵌めていた指輪を外して差し出すと、健斗は微動だにせず「なんで」と聞いた。
「お守りとして借りてたものだし、旅が終わったら返す約束だったから」
悪びれることもなくそう言う少年に、健斗は口を曲げると瞬きを数回した。
「そうじゃなくて、自分で返しなよ」
「いや、これ宮日の大切なものだからさ。ちゃんと返したいと思って」
涼はすっかり自分の右手に馴染んでいたシンプルな指輪を見ながら言う。健斗は正面に立ってまっすぐに彼を見た。それに気付いた涼も視線を上げた。
「涼、宮日のことちゃんと見てあげてよ。大切なものオレに返されても宮日は喜ばないよ」
涼はデジャヴを感じて押し黙った。
昼間はリオに健斗をちゃんと見るように、そして今、健斗に宮日をちゃんと見るように言われて。「見てた」と反論したかったが、彼のその言葉は何の説得力ももたない気がした。
しゃがみ込んで石にまた視線を戻している少年を見ながら、涼は手のひらの上にのっている飾り気のない指輪を見つめた。
「なあ、健斗」
「何」
健斗は小さな瞳を上げてまっすぐに見つめてくる。バーチャルの時の黒い犬を思い出した。終わりの見えない旅に出て、文句を言いながら歩いて、犬になってやっとここまで辿り着いた旅の終わり。
「よかったな。最後まで来られて」
涼は椅子に戻ると、父親と同じように足を組んで膝を抱える。その右手の薬指には指輪がいつもと同じように嵌まっていた。
「そうだね」
灰色の髪の少年は腑に落ちない顔のまま、汚れたスニーカーを見つめている涼の足元に並べられた石のひとつを投げた。
同じ頃、リオと百瀬は薄暗いバーのカウンターの隅の背の高いオシャレな革張りの椅子に座っていた。
「やってくれたな」
リオが自分の手元にあるグラスの中の、大きな丸い氷を見ながら言った。百野が「へへへ」と悪戯がバレた子供のように舌を出して笑った。
「どうせ望んだらこうしてただろうが」
体格のいい姿形に似合わない赤い色のカクテルを口に運びながら、男は三白眼の瞳を細める。リオは隣を一瞥すると、組んだ足の膝の上に手を置いた。
「教えなきゃ気付かなかっただろ。できれば知らないままでいて欲しかったと思うよ」
「そうかなー」
百瀬は肘をついたその手に顎をのせると、天井を見上げながら白々しい口調でそう言った。
「バーチャルも見たけど、腑に落ちてない顔してたぜ、息子」
リオは目の前のグラスを視界に写して黙り込んだ。行けるとこまで行けばいいと言った。でも人生はそこで終わりじゃない。その先もずっと続きがある。足枷なんてない方がいい。
「はあー」
リオは大きなため息を吐くと、グラスに残った酒を喉の奥に流し込む。喉が焼けるような感覚に彼はひとつ咳払いをした。
「お前、流香さんに更に嫌われるよ」
「大丈夫。もう底辺でしょ」
百野は自信満々に厚い胸を張ると、親しみのある笑顔を浮かべ親指を立てる。「確かにそうだ」とリオは楽しげに笑った。
「重い」
姿勢良く歩く涼の後ろを、パンパンにがらくたが詰まったスポーツバッグを引きずって健斗が続く。愚痴をこぼしながら歩く彼の様子に、底が敗れて中身が少しずつなくなればいいのにと涼は思った。
「お前そんなんで家まで帰れんのかよ」
「ここまで来たんだから帰れるよ」
健斗は泣きそうな表情でそう答えた。駅へ続く大通りは現在人が少ない時間だからまだいいが、多い時間だったらこんな人間は迷惑でしかない。涼は呆れ顔でため息を吐いた。
「まあお前なら誰かに助けてもらったりして大丈夫だと思うけど、しっかりしろよ」
涼が振り返った時、健斗は今歩いてきた道の遙か遠くを見ていた。廃墟がある方向だと気付いた。
「ちゃんと挨拶してきたんだよな」
健斗は進行方向へ向き直すとにっこり笑った。
「大丈夫。前みたいに会えないと思っての別れじゃないから。会えるように頑張れるからね」
涼は駅に向かって歩みを再開しながら、「そう」とぶっきらぼうに言って微笑んだ。
駅に着いた少年たちはすっかり慣れた様子で切符を買い、ホームへと向かう。旅に出てから何度も繰り返された動き。田舎育ちの彼らは旅に出るまでほとんど、列車にも乗ったことがなかった。
「健斗、それそろそろ肩に掛けろよ。邪魔だろ」
引きずり続けていたスポーツバッグを指さして言うと、健斗は渋々ショルダーバッグとクロスするように肩に掛ける。地獄のような表情を浮かべた。
「切符、ここに入れるからな」
涼はそう言ってすばやくショルダーバッグの外側のポケットのチャックを開くと、そこにそれらを滑り込ませる。その後しっかりチャックを閉じた。
「え、うん。ありがとう」
ホームには列車がすでに停まっていた。健斗はよろよろしながら開いている扉に向かう。その後ろを涼は、その歩調に合わせてゆっくりついて行った。
「座れて良かったね-」
健斗が向かい合わせの席の足元にスポーツバッグを下ろして涼を見た時、彼はまだ扉の入り口のところに立っていた。なんとなく嫌な予感がした。健斗が立ち上がると同時に発車のベルが鳴る。その瞬間涼の姿が視界から消えた。
健斗はすばやい動きで、今まさに閉まった扉に駆け寄った。そのすぐ外に涼は立っていた。少年は困惑した。意味がわからない。列車が進み出すと扉の向こう世界の涼が右手を挙げて小さく手を振る。その顔にはなんとも言えない笑顔を浮かべていた。
「なんだ、その顔。ってか手振ってバイバイって柄じゃないじゃん」
健斗は混乱した頭のまま扉のガラスに貼り付いて、少しずつ遠ざかっていく偽物のような友達の姿が消えるまでただ見つめた。
ここで君を解放します
この惑いの種は ひとりで育てるから
きっと育ったその花は
ただただ美しいとは
限らないと思うから




