白昼夢
灰色の空の下。楽しい行事の前日の胸が躍るようなわくわくと、何かに追われているような焦燥感が混ざり合った心境だった。いつもは姿勢良く歩く涼だが、今日は薄汚れたスニーカーの靴先ばかり見ている。そんな彼の隣で、灰色の髪の少年は跳ねるような足取りで進みながら自作の鼻歌を口ずさんでいた。
「楽しみだね」
健斗の言葉に彼は曖昧に頷いた。青い空を見られること、感じられることをただ楽しみだと言える彼が羨ましい。涼は少し苛立ちの混ざった口調で聞いた。
「健斗はこれが終わったらどうするんだ」
その質問に彼は一瞬きょとんとしたが、すぐにいつものように笑った。
「色々勉強して、孤児院造る。んで唯たちとやる」
意外だ、と思った。その答えがというより、健斗がそう言ったことが。
「おれ、お前がやりたいこと言うの初めて聞いたわ」
「そうかな。うんまあ、この間お母さんと話して、なんか色々バレてるしどうせバレるし。だったらやりたいことやろうと思って」
健斗は何かが吹っ切れたように目を輝かせた。涼は隣の少年を見る。当然、彼はそこにいる。でもどこか、とても遠いところにいるように感じられた。
旅を始めて一年近く。健斗はこの旅で何かを得て進んでいる。では自分はどうだろう。この旅が終わって何を得るんだろう。自分で望んで始めた旅の終わりがそこにあるのに。
どうしてだろう。わからない。
研究所の眩しいくらいの白い明るい廊下を歩いて進んだ先にその部屋はあった。ここに着いた時バーチャルを体験する人間が大勢いると思っていた少年たちは、そこに自分たちしかいないことに拍子抜けした。説明によると、基本的には日を分けて個人での体験になるらしい。理由は特に説明されなかった。
その後体験するための装置の操作方法の説明もあったが、彼らのやることはいたって簡単で、卵形の椅子に腰掛けてそこに付いているフルフェイス型のヘルメットを装着するだけだ。戻る方法もただ一言、言葉を発するだけ。健斗がそこにある一つ一つの物に興味を示し話が進まなかった以外は、淡々とバーチャルの準備は進んでいった。
「涼、平気?」
急に顔をのぞき込まれた栗色の髪の少年はのけぞり、うわずった声をあげた。
「なにが」
「なんか暗い顔してるよ、ずっと」
鋭い指摘に涼は「いつもと同じだよ」とそっけなく言った。健斗は見てないようでちゃんと人を見ている。昔からそういう人間だった。
「そうかな」
彼は納得していない様子で、薄い眉を寄せて涼を見つめる。栗色の髪の少年はその視線に気づかないふりをして、周りの目新しい物たちに視線を泳がせた。
その卵形の椅子はすっぽり体を包み込み、ひどく居心地がよかった。涼は密閉されたヘルメットの中で深呼吸を繰り返す。耳元でカウントが始まって、次の瞬間には意識が遠くなっていった。
ここはどこだろう。風が肌を撫でていく。さわさわとそれに合わせて心地よい音が奏でられ、それに負けずと鳥が鳴く声がした。昔リオの研究所で嗅いだ匂いがする。緑の植物の生い茂る匂い。ここは明らかに今までいた世界とは違う世界。そう感じる。
しばらく躊躇った後、彼は朝目覚めるように自然に目を開ける。想像していた以上の情景がそこにあった。
青い色。視野を超えて広がる空。
ぎゅうっと心臓を直接掴まれたように息が詰まる。彼はふいに起き上がると膝を抱えてそこに顔を埋めた。なぜだろう。胸が苦しくてそれ以上は見ていられなかった。欲しかったもの。欲しくて欲しくて、でも手に入らないもの。
吸い込まれそうな深い青色の上を、のんびりとした動きで白い雲が流れていく。風が草を揺らす。緑の匂いがする。鳥が空を自由に漂いながら楽しげに歌う。そんな大きな大きな世界の中で、少年は膝を抱えて小さく小さくなった。
「ワン」
涼は急に現れた気配にビクリと肩を震わせて顔を上げた。声の聞こえたその先から、草を揺らしながら黒い犬が近づいてくるのが見える。彼は予想外の展開にうろたえ、弾かれたように立ち上がる。心地よい風が肌を強く撫でた。その獣はそんな中を軽快な足取りでまっすぐに涼に向かってきた。
栗色の髪の少年は足首より少し背の高い草を踏みしめながら、じりじりと後ずさった。犬が特別怖いというわけではない。ただ初めて会う人や全てにおいて満遍なく苦手なのだ。「ワン、ワン」その犬は楽しげに鳴きながら彼の周りを跳ねるような足取りでグルグル回る。少し大きめのがっしりした体格にピンと立った耳、ふさふさの立ち上がった尻尾を勢いよく左右に振っている。涼はその生き物を見つめたまま、その中心で石像のように立ちすくんだ。
その時ふとその犬の頭の辺りだけ灰色をしていることに気付く。そしてその落ち着きのない跳ねるような歩調には見覚えがあった。いや、いつも見ていた。
「健斗?」
おそるおそる発せられた言葉にその犬は待ってましたと言わんばかりに少年の正面に止まると、ひときわ大きな声で鳴いた。
涼はその黒い生き物に見入ったまま言葉を失う。
「ほんとに健斗なのか」
「ワン」
ゆっくりと距離を詰めながら投げかけた言葉に、先程と同じ歯切れのいい声が返ってきた。
「そう、なんだ」
涼はそんな信じられないような出来事をなぜかすんなり受け入れた。この世界だから、というのが最も大きな理由だろう。彼は安堵から崩れ落ちるように座り込んだ。
「・・・・・・なあ、健斗。この世界どう思う。すごいよな。ほんとにすごい。でも」
少年はその気持ちを表現する言葉を探すように、右手の薬指に嵌めた指輪を険しい表情で見つめながらくるくる回す。しかしちょうどいい言葉を探し出すことはできなかった。
「おい、聞いてんのか」
八つ当たりに似た苛立ちをあらわにし、視線を犬の姿をした健斗に移す。彼は虫でも見つけたのか草の中のあらゆる場所に鼻先を突っ込み、そして急に跳びはねたかと思ったら次の瞬間転がり始めるといった謎の奇行を行ってる。とにかく楽しいという感情を体中で表現しているように見えた。
「お前」
涼は呆れた表情を浮かべ、自嘲した。今の今まで頭を悩ませていた何もかもが、突然馬鹿馬鹿しく思えてくる。「あー」と声を上げて彼は大の字に寝転ぶと、ただまっすぐに白い雲の流れる青い空を見つめた。何を複雑に考えていたんだろう。緑のベッドが心地いいと、瞳に映る青い空がただきれいだと。今はただそれだけでいいはずなのに。
その後どれだけそうしていたかはわからない。そもそも時間の概念なんてものが、この世界には存在していないのかもしれない。次に涼が起き上がった時、全力ではしゃいでいた黒い犬は無心に穴を掘っていた。少年はゆっくり立ち上がり、ぐるりと辺りを見渡した。
彼は緑の草原に立っていた。少し向こうに目を向けると、そこには様々な様相の木々が所狭しと生い茂っている。その更に奥には緑の木々を纏った山々が、美しい存在感を示している。涼は見回した一画の、木々がトンネルのように途切れている部分に目を止めた。犬の健斗は涼の動きを敏感に察すると、全力で駆け寄ってくる。顔中が泥で汚れている。そんな彼を待たず、涼は姿勢良く歩き出した。
木々が途切れた場所には舗装されていない道があった。歩を進めるたび、砂埃でスニーカーが汚れていく。重なり合った葉から零れた木漏れ日がキラキラと辺りに降り注ぎ、左右に広がる数え切れないほどの木々が風に合わせて揺れていた。その葉ずれの音はまるで、たくさんの木に笑われているようななんとも言えない気持ちになった。
トンネルを抜けた場所は高台だった。見下ろした先にはいわゆる棚田と言われるものが見渡す限りに広がっている。細かく畦に区切られたそこには青々とした苗が植わっていて、そんな水田が階段状に何十、いや何百と並んでいた。そんな景色のちょうど中心には蔦に覆われた巨大な石が、まるでヘソのように鎮座している。意外だったのは民家のような建物がいくつか建っていたことだ。勝手に人はいないような気がしていた。それほどにこの世界に人の気配はなかった。
「ワンワン」
その健斗の呼び声に涼は我に返る。黒い犬はその棚田の中心を走る一本の道へ進もうとしていた。少年は自然にその後を追った。急な坂道を降りていく。そこに広がる風景は、時が止まったような、その瞬間だけ切り取られた絵のようなそんな完璧な姿をしていた。途中にあった民家を覗いてみたが、そこは農具などはあるもののやはり人の気配は微塵もない。涼はそのことにホッとした反面、どこか残念な気持ちになった。
「健斗」
名前を呼ぶと、その黒い犬はいつものように振り返る。そして笑う。跳ねるように歩く。でもいつもの愚痴も、どうでもいいようなくだらないことも話さない。ふと思う。言葉は、一人でも話しても言葉だろうか。
中心の巨大な石まで辿り着くと涼はその影に腰を下ろした。影の中から見ると、畦の草や棚田の苗の緑のコントラストがいっそう美しく見える。日の光がかなり厳しいことに今頃気付いた。強い光に弱く、目が痛むことが多い彼が平気なのは、やはりここが現実ではないからかもしれない。逆に言えばここいる限りもう病気の心配はいらないということだろうか。
「ここにずっと・・・・・・」
近くの畦の草の隙間から流れ出る水を豪快に飲んでいる健斗を見ながら、少年は小さく呟く。けれどその未来は想像もできなかった。
その日の終わり、濃緑に沈む夕日はとても美しかった。見たこともない純然たる橙色をしていた。巨大な石の上に上り、涼は膝を抱えた姿勢でそれを眺める。昼間に音を奏でていた鳥達が家路について、代わりに足元の草むらでは何かの虫が鳴き始めた。黒い犬はすっかり遊ぶことに満足したのか、少年の傍らでバッタリと横に倒れた姿勢で寝息を立てている。空が暗くなってキラキラした光を称えた時間を超え、また青い色を取り戻しても、彼はそのままずっと瞳に映る景色を見つめ続けた。
何日経っただろう。少年は流れる毎日を、空を見たり森を歩いたり川に入ったり思いつくことを手当たり次第やって過ごした。不思議と空腹も眠気も感じなかった。健斗は帰りたいとか戻りたいとかそういう雰囲気は全く感じさせず、楽しく遊んでは眠っている。その犬の姿にも少しずつ慣れはじめていた。
その世界の日常が終わるその日、涼は特に目的もなく黒い犬を追って棚田の中を走る道をぼんやりと歩いていた。道中には民家が点在している。そのうちのひとつに健斗が入っていった。涼はその場に打ち付けられたように立ちすくんだまま、黒い犬を待つ。実は初日以来、民家には近づいていなかった。
「おい、健斗」
久々に発した声が自分のものなのかどうか、判断できない。そもそも本当に声が出ているのか、それさも疑わしい。言葉は跳ね返って初めて言葉になると知った。「ワンワン」と奥から聞こえて、涼はその声に誘われるように敷居をまたぐ。その瞬間人の生活の痕跡が一気に押し寄せてきたように思えた。彼は糸が切れたようにその場にしゃがみ込んだ。
『帰ろう』
戻るためのキーワードが、ポロリと口からこぼれた。
悲しい。悔しい。憧れて探していた夢が今ここにあって、美しいものがこんなに詰まっている世界。完璧だと思い込もうとした。なのに、こんなに人恋しい。寂しい。とてもとても淋しい。ここにずっとはいられない。
夢の世界の終わり。
卵形の椅子で目を覚ました時、現実と夢の境目がとても曖昧だった。しばらくぼんやりとした夢うつつの状態が続いて、立ち上がるまで十数分の時間を要した。一足先に立ち上がった健斗が犬のようにブルブルと体を震わせたのを見て、涼もゆっくり立ち上がる。黒い犬だった少年は興奮冷めやらぬ様子で、目が合うと「すごかったね」と言った。彼は上の空で曖昧に頷く。研究所の人がやってきて簡単な検査を受けた。バーチャルでは何日も過ごしたはずなのに、ここでは数時間しか経過していなかった。
来た時とは逆の道順で明るく白い廊下を歩く。跳ねるように歩く少年の横で、栗色の髪の少年は地に足が付かないようなふわふわとした感覚を感じていた。
その廊下の先に先日面接の時会った、流香に腹黒と表現されていた人物が立っていた。
「お疲れ様。どうだったー」
彼はどこかうさんくさいが、親しみやすい笑顔で話しかけてきた。涼が戸惑っている間に健斗が「最高でした」と元気よく答える。筋肉質ながっちりとした男はそれを一瞥し、笑みを浮かべたまま頷いたが何も言わなかった。
「で。涼、誰?」
「ええと、父さんの友達」
腹黒の、という言葉が出てきそうになって慌てて飲み込む。
「百野です。どうも」
男は笑顔を貼り付けたまま、小さく首を傾げる。少年たちは揃って頭を下げた。
「今日は楽しかったです。ありがとうございました。じゃあ」
栗色の髪の少年が見本のような丁寧なお辞儀をし早々に立ち去る素振りを見せたので、灰色の髪の少年も軽い会釈の後一足先に歩き始める。その後に続こうとした時、百野が涼の肩を大きな手でつかんだ。そして内緒話をするように顔を寄せ、耳元でいくつかの言葉を囁く。唖然とする少年を尻目に、男はにんまりと口を歪めると去って行った。
「涼、何やってんの」
戻ってきた健斗の声に栗色の髪の少年は我に返り、「ああ、ごめん」とだけ言った。灰色の髪の少年は一瞬不思議そうな顔をしたが、笑顔でこう言った。
「とうとう旅も終わりだね」
涼は短い沈黙の後、何度か頷いた。
自分のわがままで始めてしまった旅。誰かの人生まで巻き込んで見たかった景色。ここで終わりにしよう。
「そうだな。ありがとな、付き合ってくれて」
「わ、なにそれ。こわ」
いつになく素直な少年の言葉に、健斗は小さな目をまん丸に見開く。涼は二重の瞳を細めて自嘲すると、明るく輝く白い廊下をまっすぐに進んだ。
夢を見た
美しく 悲しい夢
大丈夫
それが夢だと 知っていた




