手の中(後編)
そこはどう見ても廃墟だった。あちこち崩れた部分も多く、窓はほとんどが割れていた。元はホテルだったのだろう。ドアを入るとそこは吹き抜けで、右手にフロントらしきカウンターがある。隅にはコンクリートの破片やガラス片などが集められていた。元はロビーがあったらしい、少し広い空間のあるあたりで何人かの男女が、元々ここの備品だったであろう椅子に腰かけて小声で話していた。
真広はよそ見もせず、ずんずんと正面にある階段に向かって進んでいく。涼は現実味のないこの世界に戸惑いながらも、所々手すりの欠けた階段を上っていった。
彼の家は裕福な家庭だった。今でこそ旅の道中は節約する努力をしているが、それまではお金のことなど気にしたことはなかった。欲しいものも、欲しくないものですら手に入った。野宿なども平気だと思っていたが、それが何日も続くことを考えたことは一度もない。そんな人間がいることすら知らない。
涼にとって、ここに彼らが住んでいるということはどうにも現実味に欠けていた。
「ここに……、住んでんだよね?」
その言葉に真広は傷ついた瞳で、涼を一瞥する。少年は自分が失言をしたことに気付いた。
「住んでるよ。ここは行くとこのなくなった人たちの家だから」
ふと、朝リオが『孤児院はもうない』と言ったのを思い出した。それと関係があるのだろうか。
彼女は振り返らず階段を上りきると、左へ曲がる。右手の部分は足の踏み場もないほど荒れ、瓦礫が散らばっていた。まっすぐに伸びた廊下の右側には客室が並んでいる。とはいってもドアは取れかかっているものも多く、あまりその役目をはたしていない。その隙間からは、薄汚れた布らしきのもが見える。その中のひとつに真広は声をかけた。
「健斗、帰ってる?」
涼は身構えた。当たり前のように一緒に旅をしていたのに、初対面の人に会うような緊張感がある。最初に何を言うかを慌てて考えた。
「真広? 健斗ならまだ帰ってないですよ」
中から聞こえてきたのは知らない声だった。「そっか」と、真広が困った表情で振り返る。そしてそのまま涼の背後を見て視線を止めた。
「唯」
「なにやってんだよ、そんなとこで」
聞いたことのある、しゃがれた声が響く。その少年を見た涼の口から「あ」と言葉が洩れた。唯はじろじろと値踏みするように彼を見ると、眉間に皺を寄せ目を細める。
「お前……、なんか見たことあるな」
「え、知り合い?」
真広が怪訝そうに首を傾げる。涼はひとつ頷くと説明した。
「この間、雨の時送ってもらった……」
その言葉に唯は険しい顔をしたまま薄い唇に手をあて考え込んでいたが、思い出したのか「ああ」と呟いた。
「お前、目が悪くて道で寝てた奴だ」
「ああ、まあ、そんな感じの……」
その通りと言えばその通りだが、なにかしっくりこず涼は不満そうに頷く。真広が驚いたように彼を見上げた。
「目が悪いって病気? シロと同じ?」
そういえば、昔健斗が孤児院に同じ病気の人物がいると言っていた。『シロ』、それがその人物の名前なのか。涼は自分の心の奥が、ざわつくのを感じた。ぎゅっと手を握りしめる。
「僕を呼びました?」
その時、張られた薄汚れた布の向こうから声がした。そして布を押しのけ、ドアの隙間から少年が顔を出す。垂れ目の色素の薄い、涼よりひとまわりほど背の高い少年だった。彼は随分長い時間視線をさまよわせた後、栗色の髪の少年を見て「こんにちは」と笑った。
「いや、シロを呼んでねーけど。それよりこいつはなにしに来たの」
「健斗に会いに、だよ。この子は健斗の従兄弟で……」
唯の問いに答えて涼を紹介しようとした真広は、その彼を見てぎょっとして言葉を失った。唯も怪訝そうに眉を寄せ、彼を見る。涼は彼らが自分に注目しているのに気付き、不思議そうに瞬きをした。その拍子に瞳から雫がパタパタと落ち、自分が泣いているんだと理解した。
「あ、あれ? なんで……」
彼は珍しく狼狽えた。ポケットに手を入れたが、そこにハンカチはない。バイト中、渡してしまった。「大丈夫?」と声をかけられ無意識にそちらを見ると、シロと目があった。そこで、気付いた。
涼は今まで同じ病気の人間と会ったことが、一度もなかった。
日は暮れかかっている。涼はシロのいた狭い部屋で、彼と向かい合って座っていた。ここには唯と健斗も寝ているらしい。もちろん廃墟には電気などなく、この部屋にも手製のキャンドルらしきものがいくつか置いてあるだけだ。薄暗い部屋だが、不安はない。多分、目の前のシロが落ち着いているからだ。
二人で話がしたいと言ったのはシロの方である。でも、それは涼の様子を見てそう言ったに違いなかった。栗色の髪の少年が何から話すべきか、何を話すべきかわからず迷っていると、目の前に座った垂れ目の少年が話しかけてきた。
「泣いたのは、未来の自分を想像したから、ですかね」
涼は困った表情を浮かべ、口を噤んだ。そしてしばらく沈黙した後、シロの方をまっすぐ見る。彼は微笑んでいるようだった。
「見えないんですか」
「見えない、と言うと違いますな。見える世界が極端に狭い、感じです」
彼の言葉に涼は医者が言った言葉を思い出す。人それぞれ進行具合や症状は異なるが、そのうち視界が狭まってきて見えなくなる可能性が高いと。涼は正座をした太腿の上で手を握ると、聞いた。
「怖くは、ないんですか」
シロからふっと息が洩れる音がする。彼は膝を抱えると、その上に顎を乗せた。
「怖い、ですよ」
涼は心臓を掴まれたように、胸が苦しくなるのを感じた。握った手が震える。息をひとつ小さく吐くと、涼はかすれた声でぽつりと呟いた。
「おれも、怖い」
その言葉を零して初めて、涙のわけを知った。
周りの優しい人間たちは皆、いつも涼を助け、彼の不安や辛さを解ろうとしてくれた。一生懸命同じものを見て、同じ気持ちになろうとしてくれた。それは、今も感謝している。嬉しかった。
なのに心のどこかでは、この気持ちはわかるはずなんてない、そう思ってしまう。
だから、怖いなんて絶対口にしなかった。いつも平気なふりをした。でも、本当は、怖かった。そう言いたかった。同じ重さで解ってほしかった。
涼は静かに自嘲した。
「おれ、健斗の話聞いててあなたの、シロさんのこと羨ましかった、ずっと。友達がいること。当たり前のように仲間がいること……」
ゆらゆら揺れる炎の光では表情まではよくわからないが、シロは首を傾けて涼の方をまっすぐ見ていた。そして何度かゆっくりと頷いた後、「はは」と乾いた笑いを洩らす。
「そう、ですか。僕は君の方が、ずっと羨ましいですけど」
「おれが?」
「ええ。親に愛されて、温かい家があって、病気だと当たり前に病院に通って……」
涼はしばらくポカンとして、目の前の膝を抱えて座る物静かな少年を見つめていたが、唇を歪ませると珍しく声をあげて笑った。握りしめていた手をほどく。ふっと体の力が抜けた。
人は、なんてないものねだりなんだろう。他人の言葉で、初めて自分が恵まれていると気付く。
「なんかバカみたいですね、おれ達」
「そうなりますかね」
二人は薄暗い揺らめく光の中で、静かに微笑んだ。
誰かの手にあるもの
それが欲しくて ずっと見ていた
自分の手の中にある
かけがえのない大切なもの
それには微塵も 気付かずに