手の中(前編)
翌日も雨が降っていた。深い灰色をした雲から、霧雨が降り注いでいる。そんな風景をガラス越しに眺めていたリオは、バイトに向かうための準備をテキパキと進める息子の方に向き直り言った。
「それで、決まったかな。面談するなら流香さんもこっち来るって言ってたけど」
涼は顔を洗うために縛った前髪をほどくと、ゆっくりとベッドの隅に腰かけリオの方を向いた。まっすぐ向けられたその瞳からは、強い意志が感じられる。リオはやんわりと笑った。幼い頃から見てきた、いつもの笑顔だ。
「今回は受けない」
涼はきっぱりとそう言い切ると、目の前の父親を見つめたまま口を固く結ぶ。リオはひとつ息を吐くと、困ったように眉を下げ前髪を掻き上げた。
「そっかぁ。流香さん残念がるな。まあ、暫く延期になるだけだけ。だね?」
「うん、ごめん。とにかく健斗と話す。ちゃんと話す。そう決めた」
「いいと思うよ」
リオはにっこりと笑った。涼はまっすぐ姿勢を正したまま、話を続ける。
「それでおれ、健斗は孤児院に戻ったんじゃないかって思うんだけど。場所知ってるだろ」
孤児院へ一度行ってみようと、涼は軽い気持ちでそう聞いた。けれどその言葉を受けた彼の父親の表情は、予想外の悲痛なものだった。眉を寄せたリオは小さな小さな声で呟く。
「孤児院は、もうない」
「え」
栗色の髪の少年は驚いてリオを凝視した。しかしそれ以上話す気はないのか、彼は肘掛に肘を置き頬杖をつくと、また静かに降り注ぐ雨の風景に視線を戻している。涼は仕方なくそんな父親から時計に目を移し、素早く着替えを始めた。胸にわずかなモヤモヤが残った。
雨が降っているせいか、今日は人の入りが比較的少なかった。しかしその分、一度入った客は窓の外を眺めながら出ていくことを躊躇うように、長い時間とどまっている。人数が減る様子はなかった。
「どうぞ」
涼はやんわりとした笑顔を浮かべると、慣れた手つきで皿をテーブルに置いた。そして綺麗な礼をひとつすると、踵を返す。ほっと息を吐き、歩き始めたところで壁のような男が立ちはだかっていて、少年は思わずのけぞった。目の前の壁の正体は、ここの店長だった。
「び、びっくりした。な、なにか?」
男は眼鏡の奥の小さな目を細め、大きな口を豪快に開けて笑っている。涼はその迫力に負けて、思わず一歩後ろに下がった。店長はそんなことは気にも止めず、少年を見下ろしたまま言う。
「最近よくなってきたじゃん」
「え」
「顔」
そう言って、彼はにっと歯を出して笑った。涼は「ありがとうございます」と、嬉しそうな表情を浮かべて頭を下げる。店長はそれを見て、「その調子で」と少年の肩をバンバンと叩き去っていった。
涼は大きくひとつ息を吐くと、空いている皿を下げに近くのテーブルへ向かう。そこにはほぼ毎日ここで会う、いつもの女性が座っていた。
「こんにちは。空いているお皿下げますね」
「ありがとう」
女性はいつもの黒目がちの瞳に優しい笑みを浮かべた。涼はテキパキとテーブルの上の皿を、持っていたお盆に乗せると黒い髪をざっくりと後ろで纏めた女性を見下ろす。「あの」と涼の口から洩れたところで女性は彼を見上げた。
「おれ、健斗と会うことに決めたんです。ちゃんと話をします」
彼女は一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、にっこり笑うと深く頷いた。
「そうなんだ。どうしてそう決めたの」
その問いに涼は考えるように小さく首を傾げると、ゆっくりとした口調で話す。
「この間言いましたよね。選択を失敗したら、もう二度と会えないかもしれないって。もしこのまま会わなくなったら、きっと後悔する。そう思って」
それに加え、永谷の情報も影響していた。いる場所を知っている。それなのに、なかったことにはできない。
少年が言葉を言い終わり、様子を窺うと彼女は憂いを秘めた瞳で遠くを見ていた。考えてみれば、初めて会った時からこんな表情をよく見ている。涼は思い切って聞いてみた。
「あの、気分悪くされたらすいません。二度と会えないって……。その人に会いに行こうとは、思わないんですか」
彼女はその質問に驚くこともせず、薄く笑っただけだった。少年の方を見てはいたが、どこか遠いところにその視線は向いていた。そして黒い前髪のかかったおでこを掌で押さえると、眉間に皺を寄せる。涼は聞いたことを少し後悔した。
「会いに……行けたら、いいんだけど。私は許されないことを、したの。だからもう会えない。会って責められるのが怖いの。卑怯でしょう」
「責められるかなんて、わからないんじゃ……」
「わかるの。彼らの事は誰よりも知ってたもの」
そう言った女性の目から涙がひとつこぼれて、涼は慌ててポケットからハンカチを取り出す。彼女は差し出されたハンカチを、小さな「ありがとう」と共に受け取った。
「そういえば、名前……。私、藤河。藤河 いずみ」
「あ、森江 涼、です」
「森江……、そっか」
彼女、藤河がハンカチで目を押さえると、その後は沈黙が訪れた。涼は気まずくなり「じゃあ、ごゆっくり」と頭を下げる。彼女に背を向けながら、やっぱり聞くべきじゃなかったんだと小さく息を吐いた。
バイトが終わる頃には雨は止んでいた。雲の合間から光がさしている。涼は「よし」と小さく呟くと、健斗が目撃された場所へと向かって、大股で歩を進めた。すぐに日が暮れてくるはずである。それまでに、今日は健斗がいる場所の確認だけでもするつもりだ。彼はまばらな人の間をぬって歩く。駅前はもっと混雑しているだろう。
どんどんと早足で進んでいくと、この間まで泊まっていたホテルが見えてきた。この辺りではひときわ背の高い、石造りの建物。泊まっていたのは、もう随分と昔のことに思える。
考えてみれば西条とも最近会ってない。あの後、彼は健斗がいなくなったことに責任を感じていた。涼が戻った時、健斗は道にでも倒れて死んでるんじゃないか、騙されて連れ去られたんじゃないかと大騒ぎだったのである。涼はうんざりとした表情を浮かべ、健斗に会ったら西条に謝罪させないとな、思った。
「あ、あ、ちょ……。森江、りょう、さん」
名前を呼ばれて、涼はピタリと足を止める。振り返った先には一人の少女が立っていた。肩の辺りで切り揃えられた、こげ茶色の髪。細かい水玉のワンピースにショートパンツという服装である。数週間前ちょうどこの場所で、健斗と一緒にいた少女だとすぐに思い出した。確か、名前は『まひろ』だ。
「えっと、何か?」
涼は3メートル近くあいた距離を縮めることもせず、不思議そうに首を傾げる。真広は少年に歩み寄ると、真摯な瞳を彼に向けた。
「あたしのこと、わかる?」
「あ、うん。真広、さんだよね」
彼女は小さく頷くと、背の高いホテルをちらりと見上げた。涼もつられてそちらを見る。
「ここにいれば会えると思って待ってたんだけど。やっと会えた」
そのほっとした表情に、毎日待ってたのかな、とふと思った。
「あ、ここにはもう泊まってなくて。それで……」
「健斗のことだけど」
大体の見当がついていた栗色の髪の少年は、小さく頷く。共通点は健斗の他にない。涼は空を見上げた。雨上がりの灰色をした空はすっかり晴れている。足元の水たまりが雨の名残を残していた。涼は真広の方に向き直ると、作り笑いを浮かべた。
「あの、歩きながらでいい? 話」
「どこか行くの」
「ああ、駅前に。健斗が働いてるって聞いて」
涼がゆっくりと歩きはじめると、真広は小走りで追いついてきた。
「健斗なら今日は駅前にはいないよ。雨の日は工事やってないから」
真広は慣れた様子で人を避けながら歩く。涼は真広の言葉に、キョトンとした表情で足を止めた。少し考えればわかることだ。健斗は孤児院時代の仲間に会いに行ったんだから、彼女が居場所を知っていてもおかしくはない。
「あ、じゃあ、会わせてもらってもいい? 健斗に」
涼は小さく首を傾げると、探るような瞳で彼女を見た。真広は「もちろん」と言った後、なぜか「お願いします」と付け加えた。そして、道を変更し歩き始める。健斗のいる場所へと案内してくれるようだ。涼も後を追った。彼女は人と水たまりを器用に避けながら歩く。そして振り返りもせず、唐突に話を切り出した。
「あたしの話は……、健斗を連れ戻してほしいの」
大きな通りを外れ、この辺りに住んでいる人間にしかわからないような路地を歩く。一歩前を歩く彼女の表情は見えない。でも、切実な空気は伝わってきた。
「連れ戻すって。今そっちに戻ってるんじゃないの?」
「そうじゃなくて。違う」
真広は歩調を緩め、首を振るとくるりと振り向く。彼女の表情は、想像通りの真剣なものだった。涼も立ち止まるとまっすぐ彼女の方を向いた。
「健斗はもうあたし達とは違う世界の住人だから。だから、こっちにきたらダメなんだよ。健斗にはそっちにいて欲しい。そっちで普通に生きてって欲しい」
線の細い少女の瞳は潤んで揺れていた。そこには迷いが浮かんでいて、言葉が本心ではないことが伝わってきた。涼は困ったように眉を寄せる。
「そっちとかこっちとか、よくわかんないけど……。健斗はよく孤児院のみんなの話をしてたよ。嬉しそうに。正直おれはうらやましかった」
友達のいないあの頃。彼の話す仲間の話は、悪戯や遊びは、とてもキラキラして聞こえた。その中のひとりになりたかった。
真広は切れ長の瞳を大きく見開くと、次の瞬間嬉しそうに細める。そして「そうなんだ」と呟くと、泣き出しそうな顔で笑った。でもその後すぐに首を激しく横に振り表情を引き締めると、くるりと向きを変え再び歩き始める。
「健斗の本当のお父さんの話聞いてる?」
入り組んだ路地を歩く彼女の後を、涼は大股で追った。
「スリだったって」
真広はこくりと頷く。そして隣に並んで歩きながら言った。
「健斗もね、お父さんに教わっててすごくうまいんだ。子供の頃見せてもらったことがある」
「へえ」
曖昧な返事を返したところで、涼は眉間に皺を刻む。
「まさか、あいつ、今……」
真広は彼の言いたいことに気付き、慌てて首を振る。次に発した声は裏返っていた。
「やってない。やってない。でも」
髪と同じこげ茶色の瞳をした少女は寂しげに微笑む。そして、続けた。
「健斗は私たちのためになら、やりかねないから。だって健斗の優しさは、いつも底抜けなんだ」
涼はなんとなくわかる気がした。我儘で世話がかかるけど、肝心なところは自分を二の次で人を助けようとする。それが健斗だ。
もうどこをどうやって歩いてきたかわからないが、路地は行き詰って廃墟のような建物の前に出た。どうやらここが目的地のようだ。真広は一度、ちらりと少年の方を見ると中に入っていく。涼は怪しげな雰囲気に気圧されながらも、姿勢よく大股で後に続いた。