ひとり(後編)
待ち合わせ場所では二人の人物が待っていた。バイト先から少し離れた、オープンカフェのあるレストラン。天気が崩れると客が話してるのを聞いたが、まだそんな様子はない。空は明るかった。
そのせいか、外にある丸いテーブルに彼らは座っていた。
「お待たせしました」
涼が二人のもとへ駆け寄ると、こちらを向いて座っている男が笑顔で手を挙げた。栗色の髪をした少年は彼の正面の固い椅子を引く。ギギギと地面を擦る音がした。
「久しぶりね。元気?」
涼から見て右手に座っている女性が、にっこり笑ってメニューを手渡す。「好きな物食べなよー」と付け足した。
「ありがとうございます、真緒さん。どうしたんですか、こんなところまで。旅行ですか?」
その言葉に彼女はポニーテールにした髪を揺らして笑い、隣に座った永谷に視線を送った。もう湯気もたっていないコーヒーを口に運びながら、彼は真緒を見た後少年に向き直る。そしてホットサンドとホットミルクを注文する涼を待って、太腿から先のない脚を指さした。
「これ。義足作りに来たんだよ」
「義足?」
永谷は大きく頷く。
「ずっとずっと前から研究所のいい技術者紹介されてたんだけど、ずっと拒否してたんだよ。オレはこれでいい、可哀想なんかじゃない。同情されるのが死ぬほど嫌で、見下されてる気がして。けどただ心配して、オレのために何かしようとしてくれてたんだと、やっと気付いた。やっとな」
そう一気に話すと、彼は嬉しそうに笑った。それにつられるように、涼と真緒も微笑む。永谷がこんなに笑う人間だったんだ、と初めて知った気がした。
「んで、健斗はどうなってんの。電話の時にもいないって聞いて驚いたけど」
永谷が涼の注文を運んできた青年に、新しいコーヒーを注文しながら聞いた。真緒はテーブルの上に置かれた半分ほど残っているピラフを口に運びながら、涼の方へ視線を移す。二人に見つめられた少年は困ったように視線を下げて、口を曲げた。
「さあ、何してるのやら」
そう言ってホットミルクに口を付け、熱そうに眉を寄せる涼に永谷と真緒は視線を合わせ、「そういえば……」と口を開く。少年はよほど熱かったのか、カップを置き口を押えながら永谷の方を向いた。
「昨日こっちに来たとき、健斗を見たんだ」
涼の眉がピクリと動く。永谷は空になったカップを端に寄せ、机の上で両手を組むと話を続けた。
「駅前で店の建て替えやってるだろ。そこで働いてたぞ。ただ、うちで働いてた時とは違って、随分と真面目に働いてたから声はかけづらくてな」
「健斗が」
「ああ、すごくな」
永谷が苦笑しながら真緒の方を見る。彼女は彼と目を合わせると、頷きながら笑った。正直、駅前の工事の事は知らなかった。もちろん健斗がそこで働いているなんて知るわけもない。
涼はまたゆっくりとした動作でホットミルクに口を付け、今しがたと同じように眉を寄せた。
その後は西条の話や近況など、たわいもない話を彼らは続けた。大した話をしたわけでもないが、時間はあっという間に過ぎていった。
「おっと、なんか雲行きが怪しいな。そろそろ帰るか」
永谷が暗くなり始めた空を一瞥して言った。明るかった空はどんどん暗くなり始めている。真緒が伝票を持って立ち上がり、「頼む」と言う永谷に笑顔を向けると店の中へと入っていった。
「すいません。ごちそうさまです」
立ち上がって丁寧に頭を下げる少年に、永谷は顔の前で大きく手を振る。
「いいって。それより、大丈夫か。ホテルまで送るか」
彼は杖を持ち、慣れた様子で立ち上がると空を見上げ、涼の方を向いた。
「大丈夫です。ひとりで」
栗色の髪の少年はにっこり笑ってペコリと頭を下げる。そこへ支払いを終えた真緒が戻ってきた。「今日はありがとうございました」と再度頭を下げると、涼は二人に背を向ける。「またね」と真緒の声が聞こえた。
「涼」
永谷の低い声に涼がゆっくり振り返ると、二人はついさっき見たままの状態で立っていた。永谷は優しい笑みを浮かべている。そしてこう言った。
「オレは、最近毎日楽しい。これからも、どんどん楽しくなる予定だ」
涼は一瞬驚いた表情を浮かべたが、穏やかに笑うと深く深く頷いた。
すっかり暗くなり始めた帰り道を、涼は急ぎ足で歩いていた。空は彼をあざ笑うかのように、どんどん暗さを増していく。そんな中、ポツリとつむじに水滴が落ちてきた。
「やば。送ってもらえばよかったかな」
降り始めた雨に歩調を緩めたのを見計らったように、夜が彼を追い抜いて行ったように感じた。急に目の前が暗くなる。雨の中の電灯の光だけが、曇った視界の中ぼんやりと見えた。降り出した雨の中、まばらな人影が足早に去っていく。涼はゆっくりと手を差し出し、右手を建物の壁に添えた。
ひとつ息を吐くと歩を進める。ここへ向かった時の記憶を蘇らせながら、力強く進んだ。その瞬間。
「わっ」
閉店したのか休業なのかわからないが、すっかり暗くなった店先の段になった部分に足をかけ転んでしまったのだ。顔をしかめながら、ゆっくり起き上がる。膝と手が痛んだ。手を伸ばし店の壁を見つけ出すと、それを背に座り込む。幸か不幸か店には誰もいないようだ。誰も出てくる様子はない。
いつも転んだら心配して駆け寄ってくる少年がいた。バカみたいに心配性な奴だった。本当はひとりで始めようとした旅に、無理やり彼はついてきた。目的が他にあることを、本当は知っている。それでもいいと思った。
本当はひとりの旅が、とてもとても、不安だったから。
「これが本来の旅、なんだよな」
大きくため息を吐ききると、涼はうつらうつらと眠り始める。どこでも寝れる、それが彼の特技だ。ところがそんな眠りはあっさりと遮られた。
「何やってんの、お前。バカじゃねぇの」
目を凝らして見上げると、痩せぎすの少年が目の前に立っていた。きっと怪訝そうな表情をしているのだろう、それが声色からわかる。涼は壁を背にしたままゆっくりと立ち上がった。そして壁についた手を頼りに、ゆっくり歩きだす。雨が強くなってきていた。
「お前……、もしかして目が悪いのか」
涼はギクリと肩を震わせた。そんな彼に少年は歩み寄ると、ほとんど意味のないボロボロの傘をさしかける。そして言った。
「どこまで行くんだよ」
栗色の髪の少年は顔に張り付いた髪の束を気にもせず、その線の細い少年の方を訝しげに一瞥する。近くで見た少年の顔は顎の細い、くっきりとした深い二重まぶたをしていた。
「別にお前がどうとかじゃねぇんだよ。ただ、オレの親友にも目が悪い奴がいる。ここでお前見過ごしたら、他の誰かがオレの親友が困ってるの見過ごしても、文句言えなくなんだろ」
ぐいと傘が差し出される。涼はきょとんとしたまま、それを受け取った。「言えよ」とぶっきらぼうなしゃがれた声が響く。涼は怒ったような顔の少年を眺めたまま、ホテルの名をポツリと口にした。
ホテルに着いた頃、雨は少し小降りになっていた。ホテルの入り口まで涼を送り届けると、痩せぎすの少年は彼の手から乱暴に傘を奪い取り、立ち去ろうとした。
「ちょっと待てよ」
慌てて涼は少年を呼び止める。ボロボロの傘を差した少年が振り返るのを待って、涼は「ありがとう」と深くお辞儀をした。
「お前のためとかじゃねぇから」
「いや、おれは助かったし。そういえば、あんた名前は? おれは涼。森江 涼」
少年は雨の音でよく聞こえなかったのか、軽く首を傾げた。「涼」ともう一度叫ぶ。濡れた服が貼りつき更に細く見える痩せぎすの少年は、少し考えた後しゃがれた声で言った。
「唯。名字はない、ただの唯」
くるりと向きを変え去っていく足音を聞きながら、涼はロビーへのドアをゆっくりと開けた。
ひとりで生きていけると思っていた
遠い昔
なんて馬鹿な なんて傲慢な
今
ひとり
こんなに弱い自分のくせに