ひとり(前編)
「お待たせしました」
小さいがよく通る声で少年はそう言うと、美味しそうに湯気の立つ丼ををテーブルに置いた。そんなに長くもない栗色の髪を襟足で結んでいる。彼はにこりともせず踵を返した。
「森江、もう少し愛想よくできないかな」
厨房に戻ったところで、涼とは一回り以上も違う男が近づいてくる。筋肉質ながっちりとした体に、どこか不似合いな青みがかった縁の眼鏡。薄い水色のエプロンに白いコック帽を被っている。彼が涼の働くこの食事処の店長だった。
「はい、すみません」
涼は困ったように眉尻を下げると、丁寧に頭を下げた。いつもなら彼の分まで愛想を振りまいてくれる少年がいた。落ち着きがなくすぐに客と喋っては叱られていたが、今思えばその空間にはいつも笑い声があった気がする。
涼は2週間ほど前からこの店でバイトをしていた。試験もひと段落した今、いつまでもリオに甘えているわけにもいかないと、いつも通りの格安ホテルに移った。もちろん支払いも自分でしなければならない。そこで、この店でバイトを始めた。
「まあ真面目にはやってくれているし、も少し頑張ってみて」
店長は少年の肩を軽く叩くと、厨房へと去っていく。それを見送ると涼は銀色のお盆に顔を映し、引きつった笑いを浮かべた。
その日の夕暮れ。涼は店から徒歩五分ほどのホテルへ辿り着いた。この間までのホテルとは打って変わった、ペンキの禿げた外観の二階建ての古い建物。その狭いロビーでリオが待っていた。
「おかえり」
彼は涼の姿を見ると、所々破れて綿の飛び出たソファから立ち上がる。薄い緑色のシャツにグレーのセーター、手に白い封筒を持っている。顔には満面の笑みを浮かべていた。
「ただいま。部屋、こっち」
涼はちらりと視線を送るとまっすぐ廊下へ向かう。リオは黙って彼の後に続いた。
部屋に入るなりシングルの狭い部屋の隅の遠慮がちに置かれた肘掛椅子に、リオは腰を落ちつけた。そしてベッドの隅に腰を下ろした涼の方に真っ白い封筒を差し出す。『森江 涼様』と宛名が書いてあった。「試験の結果だよな」呟きながら涼はそれを受け取った。慎重に封筒の上部分を切り取ると、ゆっくり中の畳まれた紙を開く。彼は複雑な気分だった。受かっていてほしいような、そうでないような。
「それで、どうするの」
リオが組んだ足の上に手を置いて、黙り込んでいる少年に聞いた。結果は知っていたようだ。涼は紙に書かれた『合格』の文字を見つめる。その下には次の面接の日時や案内が書かれていた。
栗色の髪の少年はひとつ大きく息を吐いた。
「正直、迷ってる。健斗を待つべきか、ひとりで進むべきか。今選ぶ道を間違ったら、後悔するんじゃないかって、そう思うから」
彼は下げていた視線を上げ、父親の様子を窺った。リオは柔和な表情で、まっすぐ彼の方を見つめている。薄汚れた窓から差し込む夕日が、部屋をオレンジ色に染めていた。
「父さんはないの? 後悔したこと」
涼は目を見つめ返したまま、質問した。リオは一瞬困ったように口を曲げたが、すぐ笑顔に戻りゆっくり答える。
「あるよ、もちろん。たくさんある」
「エリート、なんだろ」
少年が小さく呟いた言葉に、リオは足を組み替えると自嘲の笑みを浮かべた。
「涼が小さい頃、銀京から引っ越したよな。なんでだと思う」
突然の質問に涼は眉を寄せ、首を傾げた。右手の薬指に嵌めた指輪をくるくる回す。「なんでって……」子供の頃の色々な場面が頭に浮かんだ。
「おれの病気の療養……じゃないの」
実際、街灯も少なく病気の理解も全くなかった田舎が、彼の療養になったかは分からない。リオはふっと息を漏らして笑った。
「そう思ったのも、全くの嘘じゃない。でも、オレはあの頃疲れてたんだよね。中央研究所での仕事はやりたいものではなかったし、流香さんは涼の病気で思いつめてて……。だから」
彼はそこで一呼吸置くと、きょとんとした顔で見つめる涼に優しく微笑む。そして、小さく肩をすくめた。
「だから逃げ出したんだ。お前の病気を利用して。最悪、だろ」
涼はきょとんとしたまま、黙り込んでいた。クロイセカイにいた頃この話を聞いていたなら、もしかすると怒りと憎しみに支配されていたかもしれない。実際、あの町に引っ越ししたことを恨んだこともある。でも今はそういう感情は湧いてこなかった。子供だから、迷って悩んで選択を失敗するんじゃない。大人になっても同じなんだな、と冷静に思った。
リオは黙っている涼の次の言葉を、静かに待っている。その視線に気付き、涼は慌てて言葉を紡いだ。
「あ、ごめん。でも、最悪とかは思ってないよ。田舎のあの町も今は嫌いじゃないし」
その言葉にリオは「そっか」と満面の笑みを浮かべる。涼も自然と口元が緩んだ。そう思えることが嬉しかった。
「父さんも悩んで、でも、自分で決めたってことだよな。おれも考えるよ。例え後悔したとしても」
「そうしなさい」
リオは大きく頷く。その後「あっ」と大きな声を上げると、カーディガンのポケットに手を突っ込んだ。
「そうだ。そういえば、これ西条君から預かってきたんだ。はい」
「なに」
小さく畳まれた紙を受け取る。そこにはひとつの連絡先が書かれていた。
湯気の立つ湯呑をテーブルに置くと、涼は「ご注文はお決まりですか」とテキスト通りの言葉を発した。薄く唇を歪ませている。本人は精一杯の笑顔のつもりのようだ。
テーブルが四つとカウンターのあまり広くもない店内の中、テーブルに一組と一人、カウンターに三名。時間によっても違ったが、いつもこの程度の混み具合で来る客もほとんどが常連客だ。
「森江、今日約束あるんだろ。そろそろ交代くるからあがっていいよ」
カウンターの向こうから出来上がった丼を差し出しながら、店長が言った。涼はその丼をお盆に乗せると、「ありがとうございます」とペコリと頭を下げる。店長はそれに大きな口を開けて笑顔を作り、片手を上げた。
「お待たせしました」
涼は店長から受け取った丼を、女性が一人で座っているテーブルに運ぶ。どこかで見た顔だな、とふと思った。その女性もそう思っているのか彼の顔をまじまじと眺めた後、思い出したのか口を大きく開けた。
「あなた、この間“けんと”って子を探してたよね」
その言葉で彼の脳裏には一人の人物が浮かんだ。橋のたもとでぶつかった女性。黒目がちの瞳に穏やかな笑み。猫背気味の背中が、小柄な彼女を更に小さく見せていた。
「見つかったの?」
その質問に涼は口を結ぶと、右手に持った銀色のお盆を握り直す。指輪が当たって、カチャリと音をたてた。
「見つかったは見つかったんですが……。また、いなくなってしまって」
涼は視線を合わせず困ったように笑うと、そう呟いた。三十前後に見えるその女性は、少し沈黙した後ゆっくりとした口調で聞く。
「また、探すのかな?」
彼は暫くの逡巡の後、ためらいがちに口を開く。
「……さあ。どうしたらいいのか、考え中で」
その栗色の髪をした少年の言葉に、彼女は悲しげな色をその黒目がちの瞳に浮かべた。そして、遠くを見つめるように目を細める。
「よく考えて。一度……。たった一度選択を失敗したら、もう、二度と会えないってことも現実にはあるのよ」
その自嘲の混じった笑みに涼は不思議な印象を受け、首を傾げながら小さく「はい」と頷いた。その時隣のテーブルに皿が運ばれてきて、涼ははっとする。それは彼と交代で入る人物だった。
彼には約束があったことを思い出したのだ。