第3話 待ちくたびれたでしょう
私は、脚が妙につっぱるような気がして、ポケットから一万円札を取り出すと、急いで、一回、二回と折りました。
そうして、またポケットに戻しました。
その場で足踏みしてみます。
よし!
もうピンピンの脚ではありません。
その場で、小さく一周もしてみました。
よし!
すっかり歩きやすくなりました。
と、いつの間にか、店の中は、前よりも、暗くなっているようです。
店の奥のほうなんて、真っ暗で、何も見えません。
もし、誘拐犯に「ちょっとこっちへ来い」なんて言われて、店の奥へと連れていかれたら、私はそのまま誘拐されてしまいそうです。
こんなに暗かったら、誰も、私の誘拐に気づかないのではないでしょうか。
スマホを持っていればよかったなぁ、と私は思いました。
━━誘拐されるなら、アユよ━━。
お姉ちゃんの声が、ぼうっとした私の頭の中でします。
やっぱり、お姉ちゃんは頭がいいなぁ、と私は思いました。
帰ったら、お母さんに、スマホを買ってもらおうかしら、と思いました。
ルビーのような、きらきらしたスジコも見ることができます。
でも、私、やっぱり、それほど、スマホがほしいというわけでもないんです。
一日中、スジコは見ないし、毎日、誘拐されるわけでもないし。
だいたい、一日中、スジコを見たり、毎日、誘拐されたりしていたら、月々のスマホ代がすごいことになっちゃうんじゃないかしら。
私、スマホの料金体系なんて、全然、知らないんですけど、そのへんのところ、どうなんでしょう。
……。
ひょっとして、冷房の設定温度を、上げたんでしょうか。
店に入ったばかりは涼しく感じたのに、今は少しも涼しくありません。
喉もカラカラです。
あ! そういえば、水分補給を忘れていました。
━━喉が渇いたと思う前に、飲みなさい━━。
いつも、お母さんに言われて、気をつけているのに。
水って、自分で意識して飲もうとしなければ、簡単に飲み忘れてしまうものなんですよね。
失敗しました。
あの男の人が戻ってきたら、お水をもらおうっと私は思いました。
そうだ、リクちゃんもお店の中に呼んで、お水を飲ませてあげましょう。
きっと、リクちゃんも、喉が渇いているはずです。
うす暗い店の中、お客さんは、まばらでした。
ウェイターやウェイトレスが店内を行き来する姿もありません。
田舎の村で、おしゃれなお店の経営は難しいんでしょうか。
観光客もチェリー川に一年を通して来るわけではありませんからね。
ドン・ジョンソン、つぶれちゃうんじゃ……。
私は心配になりました。
それとも、代官や政治家や企業家がここで悪だくみをする時には、客が少ないほうがいいのでしょうか。
いえ、悪だくみをするにも、客が大勢いたほうが目立たないでしょう。
木を隠すなら森の中というくらいですから。
やっぱり、悪だくみをするにも、普通に食事をするにも、たくさん客が入ったほうが良いんです。
そうすれば、ドン・ジョンソンは儲かって、食材の質を落とすこともなく、おいしい料理を提供し続けることができるでしょう。
私の心臓のドカドカは、落ち着いてきました。
━━脳が冴えている時は、体も冴えるのよ━━。
お姉ちゃんが言っていました。
私の脳、冴えているのかしら……。
と、コブラなんとかを、かけられたのを思い出して、ちょっと、イラっとしました。
それにしても、あの男の人は、なかなか戻ってきませんねぇ。
ずいぶん、長い時間が経ったような気がします。
もしかして、店の奥で、何か、揉めているのでしょうか。
「あなた。待ちくたびれたでしょう」
女の人の声がしました。
振り向くと、うす暗がりのテーブル席に、赤いワンピースを着た若い女性が、細く長い脚を組んで座っていました。
おひとりさまです!
肌は透き通るように白くて、口紅とマニキュアとハイヒールは赤。
それらの赤が、ワンピースの赤とバッチリ合っていました。
きれいなお姉さん……。
やっぱり、こういうすてきなお姉さんが、ドン・ジョンソンには似合うんだわ、と私は思いました。
私と同じ、おひとりさまだから、声をかけてくれたんでしょうか。
「スジコ丼を待っているのね?」
「そうなんです」
「スジコはおいしいわね」
「私、食べたことないんです」
「あそこのテーブルの二人が食べようとしているのが、スジコ丼よ」
お姉さんが顔を向けた先のテーブルには、大学生らしきカップルが座っていました。
二人の前には、大きな丼がありました。
男性がすくった大きなスプーンには、ルビーのように輝くスジコが、こぼれんばかりに載っています。
男性は、それを鼻先にゆっくりと持っていきました。
「うっわ! くっさっ! スジコって、なまぐっさっ!」
「もぉうっ! そういうこと言うの、やめてよ」
女性が顔をしかめて言います。
男性は、にやにやしてから、スジコを口に運びました。
女性も口を大きく開けて、スジコを、頬張ります。
大食いカップルなのかもしれません。
と私が思う間もなく、
「くっさ!」
女性が、大きな丼に、スジコを吐きだしてしまいました。
「なっ! 俺の言った通りだろ? 生臭えんだから」
男性が、笑いだして、女性も、笑いだしました。
仲は良さそうです。
でも、私は、とても不安な気持ちになりました。
ドン・ジョンソンって、新鮮さがウリのはずなのに、「くっさ」って……。




