第2話 丼なんて、あるの?
私は、はあ、はあ、息を切らせ、ときどき、石によろけながら、足を前へ、前へと進ませました。
後ろのほうでは、「フグ」という声と一緒に笑い声がまだしています。
私は、ミンミンゼミにがんばってもらって、その笑い声をかき消してほしいと思いました。
林に近づき、ミンミンゼミの声が、どんどん大きくなってきます。
木陰の中のお姉ちゃんは、にやにやしていました。
シオカラトンボが、私の目の前の宙でとどまり、私はドキリとして、足を止めました。
でも、トンボはそれから、ついと、どこかに飛んでいきました。
……。
「やっぱり笑われたでしょう!」
お姉ちゃんが、声を投げてきました。
「笑うほうがおかしい!」
私は、お姉ちゃんに近づきながら言いました。
「だったら、堂々としてなさいよ」
「してるもん」
私は、お姉ちゃんの前に立つと、隣の男の人を少し気にしながら胸を張りました。
男の人はサングラスをかけているので、あまり表情はわかりませんが、ほりの深い顔立ちで、けっこうなイケメンのようです。
二人の手元には、それぞれ、スポーツドリンクのペットボトルがありました。
「恥ずかしくて、逃げてきたくせに」
「お姉ちゃんがいたから、何してるのかなぁっと思って来ただけ」
なんか、やっぱり、救いの神じゃないわ、と私は思いました。
でも、お姉ちゃんの隣に座っていた男の人には、丁寧に頭を下げました。
あいさつは、大事ですからね。
「こんにちは。コウの妹のアユです」
男の人は、白いポロシャツが筋肉で、はちきれそうでした。
胸板は厚く、肩は盛りあがり、腕は丸太のよう。
きっと、リクちゃんみたいに、鍛えるのが好き好き大好きなんでしょう。
男の人は、サングラスを外し、白い歯を見せて、にっと笑ってきました。
わーっ!
すごい歯の白さです。
まるで白色の絵の具で何度も重ね塗りをしたみたい。
で、やっぱり、イケメンでした!
ハリウッド映画にでてくるようなイケメン。
「こんちは」
男の人は、私のほうに、手をだしてきました。
わーっ!
大きな手!
駅前のスーパーの「年末お菓子の掴み取り」で、チョコも、キャンディーも、クッキーも、たくさん掴めそうです。
「アユ、握手よ」
お姉ちゃんにあきれたように言われて、私は、ああ、そうなんだと、慌ててその大きな手をにぎりました。
だって、初対面のあいさつで握手したことなんて、私、今までなかったんですもの。
「グリズ君よ。同じクラスなの」
お姉ちゃんは、妙に気取った言い方をします。
グリズさんがイケメンだからなのでしょう。
家にいる時は、ギャーギャーうるさいくせに。
「フグ、俺にも見せてよ」
グリズさんは、さわやかに言います。
私は、くるりとまわって、お尻のフグを見せようとしたぎりぎりのところで、それをやめました。
危なっ!
さわやかなイケメンの笑顔に思考停止して、言われるがままに、お尻を向けてしまうところでした。
「それって、セクハラです」
私は大人の魅力的な女の雰囲気で、きっぱりと言ってやりました。
ひょっとして、イケメングリズさんは、そのさわやかな笑顔で、何人もの女性を思考停止にさせて、何人ものお尻を見てきたのでしょうか。
きっと、何人目かで、セクハラ訴訟をおこされていますね。
と、そこで、私は、今の今まで、川のほうにいる人たちに向かって、フグを大公開していたことに気づきました。
後方の離れたところから、笑い声と一緒に「フグ」という声が聞こえてきます。
……。
私は、大人の魅力的な女の雰囲気のまま、何食わぬ顔で、おでこの水中めがねを外し、キャップも脱ぐと、お姉ちゃんの隣に、さっとすばやく座りました。
「ねえ、アユ」
お姉ちゃんは、私の額についた濡れた前髪を撫であげてくれました。
こういうお姉ちゃんを私は好きです。
スマホなんて、いじってないで、いつもこういうことをしてくれたらいいのに。
「なあに?」
私は頭を動かさないようにして、返事をしました。
お姉ちゃんが前髪や、ほつれ毛を撫であげてくれるのをじゃましたくなかったんです。
「ドン・ジョンソンってお店、知ってるでしょ?」
「知ってるよ」
ドン・ジョンソンとは、カナダや北海道から直送された食材をメインに、料理をだしているおしゃれなレストランです。
新鮮さがウリです。
デートしたら、あそこで食事したい!
なぁんてことを私が秘かに考えているお店でもあります。
ジョンソンさんが、オーナーシェフをやっています。
私は、新聞の折り込みチラシをチェックしているので、あれこれと、よく知っているんです。
ドン・ジョンソンのチラシは、サーモンのカルパッチョとか、ムニエルとか、おいしそうな料理のカラー写真のものが大概です。
先々週のは、厚い紙で、料理の写真もひときわ、きれいだったので、私は、それを切り抜き、自分の部屋の柱に、セロテープで貼っておきました。
もちろん、私の家では、ドン・ジョンソンに食べにいったことなんてありません。
外食なんて、まずしない家ですし、金のかかる女もいますから。
でも、お母さんの料理はおいしいし、家で食べたほうがのんびりできるので、外食しないことに私は特に不満を抱いていません。
「ドン・ジョンソンで、スジコ丼をテイクアウトしてきてくれない?」
「ドン・ジョンソンに、スジコ丼なんて、あるの?」
私はチラシで、スジコ丼なんて、見たことありません。
お姉ちゃんだって、新聞は読んでも、折り込みチラシに目を通す人ではないので、きっと適当なこと、言っているんでしょう。
「あるわよ」
お姉ちゃんは、私の髪の毛を撫であげるのをやめました。
「調べたから」
スマホです!
お姉ちゃんは、手にしたスマホの画面を、私に見せてきました。
「わあ! きれい!」
私は、思わず、声がでてしまいました。
だって、スマホの画面には、どんぶりに入ったスジコが、まるでルビーのように輝いていたんですもの!
「きれいでしょう」
お姉ちゃんは、得意げに、私の顔を覗きこんできます。
お姉ちゃんがスジコを自慢しているのか、スマホを自慢しているのか、私にはよくわかりませんでしたが、確かに、スマホの中のスジコはきれいでした。
でも、スジコをほめても、スマホをほめても、お姉ちゃんをいい気にさせて、生意気な女にしてしまいそうだったので、私は、ひと呼吸おいてから、すまして言いました。
「チラシには、スジコ丼、でてなかったよ」
「特別メニューだからよ」
そうなんだ……。
私は、チラシにも特別メニューを載せればいいのに、と思いました。




