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4  尾崎怜という名の運命のはじまり

尾崎怜はひとり、音楽スタジオの録音ブースでギターのチューニングをしていた。

今日のギターは愛用のギブソン、レスポール・スタンダードだ。

スリーコードを試し弾きし、レスポール独特の厚みのある音の質感を確かめる。

髪をかきあげるとヘッドセットを着け、開始の合図を待つ。


遼一はそのようすをクライアントや企画部のメンバーとモニタールームで見ていた。

今日は映像の編集が終わったCMに音を入れる作業だ。


自動車メーカーの高級車のCMはたいていはタイアップか既存の有名ミュージシャンの曲か、既存の有名な曲をアレンジしたものがほとんどだ。

効率的に印象に残るからだ。

だが今回は差別化をはかるため、新しさを感じる楽曲でいきたいという意向だった。

今人気のコンポーザー、イシイ・シンにより曲が作られた。

クラシカルなメロディを今風にアレンジした楽曲は流麗なものだ。高級車にふさわしい。    

だが、楽曲は悪くないが、打ち込みで作ったサンプリング音源は今ひとつ物足りない、と宣伝部から突き返されていた。

野生馬が自由に草原を駆け抜けるような力強い音を、という抽象的な注文だった。

要するに、もっと生の、迫力のある音が欲しいとの要望だ。


そこでメーカーの宣伝部から名が上がってきたのが尾崎怜というギタリスト、それが今日、スタジオにやってきた青年だった。


「怜ちゃん? とりあえず、もう好きにアレンジしちゃっていいからさ、おまかせで」

モニタールームのスピーカーを通してクライアントの宣伝部の男が親し気に声をかける。

声が聞こえると、年若いギタリストは顔を上げ小さくうなずき返している。


「彼さ、尾崎先生の息子さんなんだと。尾崎誠一郎」

「ほお、巨匠の?」

企画部のスタッフの声をひそめた話が遼一の耳に飛び込んできた。

「ってことは、あのhisakoの...だよな」

「そう言われりゃ、なんか似てるような」

「たしかに、なるほどね」

ひそめた声が遠く聞こえた。


緋沙子の、息子。


遼一の鼓動が激しく脈打った。

あの、彼が。


「hisakoのポスター、憧れたなあ」

「ありゃ伝説だよな」

いい年をした男たちの小さなざわめきが聞こえてくる。


高校時代にモデル事務所にスカウトされた緋沙子はhisako名義でデビューした。

それから間もなくアクセサリーブランドのイメージキャラクターに抜擢され、世間を騒がせた広告ポスターのモデルとなった。


ポスター自体はモノクロで、商品のバングルだけがカラー、金色だ。


上半身ほとんどヌードの、肌の透ける薄いシャツをまとった少女は胸の前で自分の両肩をクロスに抱き締め、どこか気だるい視線を向けていた。

華奢な腕には商品である大ぶりのバングルがずっしりと、重たげに光を放っている。

ヌードよりもむしろ肌が透けて見えることで、隠しているようで隠しきれないエロティシズムがあふれ出ていた。

街をジャックして大々的に貼りだされた大判のポスターは盗難騒ぎが相次いだ。


一般的にはまだ無名だった少女は一躍スターモデルとなった。


そのポスターを撮ったのが尾崎誠一郎、

当時40代の気鋭カメラマンだった。


hisakoはその尾崎と電撃結婚、モデルを引退した。

緋沙子は19歳だった。

未練げもなく強烈な印象を残し業界を去ったモデルは、だからこそ今なお伝説だった。

モニタールームで交わされる男たちの、声をひそめても隠しきれない、はしゃいだ声音からもそれはわかる。


緋沙子は20歳で息子を出産し、その息子は今、23、4か。


その尾崎怜が今、ガラス越しに遼一の目の前にいた。

冷たいほど整った横顔に緋沙子の面影があった。


このような形で彼女の息子に会うことになるとは。


その場にいたたまれなくなった遼一は逃げるようにトイレに駆け込み、シャツの袖を捲り上げ、冷たい水で顔を洗った。

濡れた顔を上げると、鏡にはいつもと同じ顔が冷笑を浮かべている。

遼一はそのまま、しばらく洗面台に寄りかかっていた。


スタジオに戻ったあと、遼一はどうにか平静を装い続けた。


遼一にとってはやけに長く感じられたレコーディングが終わった。

数パターンを録り終え、スタジオを出る頃には春の日が傾いていた。

「お疲れさまでした」

「これでいったん持ち帰って会議ですけど、僕からしたらバッチリですよ。怜に頼んで正解」

メーカーの宣伝部の男、井田が自分の手柄のように誇った。

やり手と評判の男だ。

場所は接待用の高級バーに移っていた。

当然のことながら費用は代理店持ちだ。

井田は怜の大学の先輩なのだと、隣の怜の肩に手を回し、

「あ、だからって勘ぐらないくださいよ。コネで声かけたわけじゃないですからね。こっちも、あくまで仕事ですから」

大学の軽音の先輩後輩は事実だったが、怜が入部した時には井田はとうに卒業して社会人になっていたし、怜は早々に退部してインディーズバンドに加入していた。

そうして、大学は退学してバンド活動にのめり込んでいった。

早いピッチでハイボールを飲んでいる井田はご機嫌で、代理店の参加スタッフはクライアントの言葉に頷くばかりだ。

「聞いてくださいよ、こいつがバックバンド、クビになった理由」

ほろ酔いの井田が思い出し笑いしている横で、怜はおとなしくロングカクテルを揺らせている。

アルコールには強くないのだろう、緋沙子がそうだったように。

「メインのアイドルよりキャーキャー騒がれて、それでツアーのギタリスト、クビ。笑えるでしょ?」

男性アイドルの名をあげ、愉快そうに井田が笑った。

それ以来、裏方のスタジオミュージシャンに転向したのだと。

酔いにまかせてじゃれついてくる井田を振りほどきもせず、怜は長い指でグラスをもてあそんでいる。

「こいつ、テクニックは当然、センスが凄いんですよ。今日聴いてもらえたからわかるでしょ?」

井田は自分のことのように自慢げに言った。

「もちろんです、素人でもわかりますよ」

「ぞくぞくしました」

先ほどまでhisakoの話題で盛り上がっていた男たちが相槌をうった。

まんざら追従でもなかった。

「でしょ? 誰が聴いてもそうですよね? これからも可愛がってもらえると僕もうれしいんですよ。ほら、おまえからも挨拶、挨拶」

酔いの回った井田に髪をくしゃくしゃにされながら、

「機会がありましたら、またよろしくお願いします」

うながされるまま怜は素直に頭を下げた。


井田に引き連れられた一同が2軒目におさまり、遼一が見渡すと怜の姿はもうそこにはなかった。

いつ消えたのか、誰も気がつかないうちに。


遼一は心のどこかで安堵しながら、同時に寂しさに似たものを感じていることにとまどっていた。


夜をひとりでやり過ごせそうにはなかった。




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