29 その印が刻まれる時
「○○ホテル、8時」
遼一のスマホに怜から着信があった。
繭子の実家への挨拶を週末に控えた日。
資料の作成にひと区切りついたところだった。
あとは明日、まとめればいい。
時計を見ると7時を過ぎだ。
怜はホテルのエントランス脇で遼一を待っていた。
日比谷駅近くにあるシティホテルだ。
「待たせた?」
黒いシャツにジーンズの怜の姿は遠くからでもすぐにわかった。
後ろ姿に声をかけると怜が振り返った。
「来てくれないかと思ってた」
怜の声がかすかに震えていた。
「キミが呼び出したんだろ」
遼一が怜の肩を抱いて言った。
「...部屋、行く?」
怜が訊いた。
「とってあるんだ? いいよ、行こう」
遼一はうなずいて、先に歩き出した。
カードキーを持った怜があとからついてくる。
部屋は7階だった。
ドアを開けると、ダブルベッド、ソファの背もたれに怜の上着がかかっている。
先にチェックインしたのだ。
見ると怜の髪の毛先が濡れていた。
シャワーを先に使ったようだ。
怜は疲れたようにベッドに座ると、
「来てくれないかと思ってた」
さっきと同じことを繰り返した。
「どうして?」
「嫌われちゃったのかと思ってた」
「嫌いになんかならないよ」
遼一が怜の隣に腰をおろした。
「だったら、なんで、返事くれなかったんだよ?」
「会わない方がいいかもしれないと思ってた」
「どうして?」
「逃げてたんだろうな」
「逃げていた?」
遼一が怜をなだめるように頭を軽く叩き、備え付けの冷蔵庫からミネラルウォーターを2本取り、1本を黙って怜に差し出した。
遼一は水をひと口飲むとキャップを閉め、床に足をおろしたままベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「俺、結婚するかもしれない」
遼一が宙を見上げて言った。
「え? 何それ? 俺は? 俺のことはもう――?」
怜がうろたえたようすで、遼一の顔を覗き込んだ。
「まあ、落ち着けって」
「だって」
「するかも、だ、今のとこ」
「同じだよ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「だとしても、キミのことは変わらない」
「どういうこと?」
怜はとまどっていた。
「キミが、怜が、俺に会いたくなったら会うよ」
「何言ってんの?」
「今日だって、こうして来たじゃない?」
「そうだけど、だったら、なんで今まで」
「会うのが怖かったんだろうな」
「なんで?」
「好きになるのが怖かった」
遼一が懺悔するかのように答えた。
「なってよ、好きになってよ」
怜は遼一を見つめたまま、手が遼一の手を探して、指と指がからみあった。
水のボトルが床に転がり落ちた。
「それに、先日は怜に悪いことした」
「そんなの」
「そうなんだよ、俺が悪かったんだ、試すようなことして傷つけた」
「いいよ、もう」
「怜をまた傷つけるのが怖かった。だけど、もう逃げない」
「うん」
「決めたんだ、怜が俺から離れたくなるまで、最後まで付き合うって」
最後まで。
そう、地獄までも。
遠い日、遼一を見つめていた女の目と同じ目をした怜が、今また遼一を見つめていた。
「だったら、なんで結婚なんか」
怜が吐き捨てた。
「まだ決まったわけじゃない、前提にしたお付き合いってだけ」
「でも」
「まだ先のことはわからない」
「好き、なの、その人のこと?」
不安げな眼差しで怜が訊いた。
「どうかな、嫌いじゃないけど、いい人だと思うけど」
「だったら、なら止めちゃえば?」
「そうもいかないんだ、今となっては、ね」
遼一がほろ苦く笑った。
「俺たち、会えるんだよね?」
「会えるよ、怜が会いたいなら」
「ホントに?」
「ホントに」
「変わらない?」
「変わらない」
「ああ、よかった」
深く息を吐くと、怜も諒に並んで横に倒れ込んだ。
「俺、不安で不安で、ちょっと怒ってた、LINEに返事なくって」
「悪かった」
「ホントは寂しかった」
「悪かったよ」
「ほら、そうやってすぐ謝るの卑怯だな」
「ごめん」
「でも、今日、来てくれたから許すよ」
「サンクス」
「ふざけんな、俺が毎日どんなに」
「泣いてた?」
「泣かないよ」
怜は少し落ち着いたようだ。遼一のほうに体を寄せてくる。
「――相手の人って、どんな人?」
「どんな、って、ふつうの人」
「きれい?」
「まあ、きれいなほう、かな」
「やさしい?」
「やさしいよ」
「でも、愛してないんだよね?」
「愛してはいない」
「じゃあ、俺は? 俺のことは?」
「好きだよ」
「その人より」
「比べものにならないくらい、好きだよ」
「愛してる?」
「愛してる」
遼一が答えた。
愛しているから切ないのだ。
その切なさの意味を怜は知らない。
――知ってはいけない罪だった。
遼一の指が怜の髪を愛おし気に撫でた。
「俺、さ...」
怜が大きく息を吸った。
「今日は覚悟して来たんだ、もうビビらないって」
隣に向き合って、遼一の顔をまっすぐ見つめた。
「だから、シャワー浴びて待ってたのか」
「そうだよ」
「いいんだよ、無理しなくて」
「無理してないって」
怜が言い張った。
「いや、俺のほうが覚悟できてない」
「そんなのずるいだろ」
「これからはいくらでも会えるんだ、焦らなくていい」
「だけど。だったら、抱いて、抱きしめてよ」
怜が言いながら、もどかしげにシャツのボタンを外す。
「じゃあ、俺もシャワー浴びてくるわ」
遼一が立ち上がり、スーツの上着をハンガーに掛け、ネクタイを外して言うと、
「いいよ、シャワーなんか。そのまんまで、そのままがいい」
諒の手首をつかんだ怜が目で訴えた。
互いの体温がじかに伝わってくる。
ふたりは胸と胸を寄せ合い、脚と脚をからめ、ただ強く抱き合っていた。
パズルのピースとピースのように。
互いの呼気が耳のすぐ近くで聞こえた。
「ずっと、こうしてたい」
「俺もだよ」
遼一が怜の頭をやさしく撫でる。
そうして、両手で頬をはさんで、そっとキスをした。
「今はこれでいい。俺たちのペースで進んでいけばいいんだ」
「うん」
そう言って、またキス。
「無理しないで、さ?」
「うん」
キス。
「もし俺が結婚しても、怜に彼女がいても、こうして会えばいい」
「うん」
濃厚なキス。
奪い合うキス、与え合うキスだった。
ふたりは何度も互いの唇を貪った。
「地獄に堕ちていくのね」
リリコの声が風のように遼一の耳元を流れ去った。




