24 尾崎怜と女たちと男
夕方、怜がスタジオから戻ると部屋がきれに片付けてあって、留守中に琴音が来ていたのだなとわかる。
怜はギターケースをベッド脇のいつもの場所に戻した。
布団カバーやシーツなどリネンもきれいに洗濯され、新しいものに替えられてある。
コーヒーを淹れにキッチンに入ると、磨かれたシンクに飲みかけのコーヒーが入ったままのマグカップが、洗われることもなく放置してあった。
琴音にしては珍しいことだ。
カップを取りあげると、カップの縁に薄っすらピンクのリップの跡が残っていた。
キッチンコーナーにはコーヒーサーバーも置きっぱなしだ。
サーバーの底にコーヒーの滓が沈んでいる。
何か急用でもあって帰ったのか。
それとも――。
まあ、どうでもいい。
怜は冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出しキャップを開け、飲みながらベッドに行き、体を投げ出した。
女は、わからない。
怜は天井を見上げた。
先日、琴音はいきなり、
「愛してる?」
怜に訊いてきた。
琴音らしくもない。
そういうことを匂わせもしない女だったからこそ、あるていど長く付き合ってきたというのに。
正解は「愛してるよ」か。
だが、それは嘘だ。
琴音のことは好きだが、おそらく愛とはちがうものだ。
彼女もとうにわかっていると思っていたのに。
怜が子供の頃――。
父の尾崎誠一郎は撮影の仕事で家を空けることが多かった。
海外での撮影旅行も度々あったし、国内にいても家にいる時間は少なく、母親との二人暮らしに近かった。
父は、たまに帰ってくる人、だった。
中学生だった怜がギターに興味を持つと、父は息子にギターを買い与え、もともと防音だったピアノ室をさらに遮音性能の高い防音ルームにリフォームした。
そればかりでなく、知り合いのプロの一流ギタリストを連れてきて、個人レッスンを頼んでくれた。
不在がちな父なりの罪滅ぼしだったのだろうか。
レッスンは怜が高校2年の春まで、
「もう教えられることはない、あとはキミのセンス次第だな」
そう言われるまで、毎週3時間続いた。
レッスン時間以外も防音室で過ごすことが増えていった。
だから、怜のギターが巧いのは当然でもあった。
才能というより、はじめから環境に恵まれていたのだ。
そんな生活の中で、母親の、´女の顔´を見てしまったことがある。
怜が高校生だった頃、父がハワイだったか、どこか海外に、グラビア撮影の仕事で遠くに行っているあいだの出来事だ。
夜中に喉が渇いて起きてきた怜がキッチンに入ると、淡い光の球形のスタンドランプだけが点いていた。
そこに、ひとりでワイングラスを傾けている母、緋沙子の姿があった。
怜の気配に気づいて振り返った顔は上気して、きれいな目が潤んでいた。
甘やかな表情だった。
これまで怜の見たことのない顔の。
もともとアルコールはさほど飲まない母なのに、夜中に頬を染め、遠い目をしてワインを飲んでいる光景は、高校生の怜にとってはショッキングな光景だった。
その時すでに初体験をすませていた怜は、母親の顔に、たしかに´女の顔´を見たと思った。
父を裏切っている、男がいる、思春期だった怜は直感した。
見てはいけないものを見てしまった、と思った。
時間にしたら、わずか数秒のことだった。
母はすぐにいつもの顔に戻り、
「おなかでも空いたの?」
怜に訊いてきたが、黙って首を振り、逃げるように部屋に戻った。
ふだんは清楚なふうを装っている母の´女の顔´は怜に女そのものを嫌悪させた。
どんな女のなかにも、´女の顔´が薄汚く見えるようになったのはそれからだ。
一夜限りならば、短期間の付き合いならば、どのみち体の関係でしかないのなら、どんな顔をしようがかまわなかった。自分もいっしょに穢れるのだから。
いっしょに溺れ、堕ちていくのだから。
琴音はそういう女ではないと思っていた。
愛だとか恋だとか。
琴音らしくない意外な言葉をキスで封じてしまった、いつものように。
恋さえ、してはいなかった、と思う。
中川遼一と出会うまでは。
遼一の眩しげなまなざしは怜の心の隙間にするりと入りこんできた。
そして、その存在は会わない日々の中でたちまち大きくなっていった。
遼一のことを思うと心があやしく疼いた。
恋だ、と思った。
あの男とひとつになりたい、ひとつに溶け合い、自分の中の穢れを洗い流してほしい、
怜は遼一を渇望していた。
これまで性の対象は女だった。
肉体は女を求めていた。
自分はそういう男だと思っていたし、男性を性的な目で見たこともない。
しかし、遼一に対する感情はまぎれもなく
自分でもどうしようもないほど、恋だった。
中川遼一は´きれいな顔´をしていた。
はじめて酔いにまぎれてキスした時、返ってきた反応は拒絶ではなかった。
先日は朝まで抱きしめていてくれた。
遼一も自分を想っていてくれる、怜には確信めいたものがあった。
いっそ、このまま、自分を奪ってどこかに連れ去ってくれるなら――。
それでもいい、遼一といっしょならば、どこへでも。




