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18  再びの誘惑

「歩いてたら近くまできたから、いけなかった?」


怜は悪びれるでもなく、アイスコーヒーに口をつけた。

フロア内のカフェで遼一がテイクアウトしたコーヒーだ。

「顔が見たくなって」

すっかり打ち解けた間柄のような口ぶりだ。

「いけなくはないけど」

「けど?」

「いきなりだなと思って」

「リハビリで歩いてて、ああ、中川さんの会社、近くだったな、って」


会社のエントランスホールの応接コーナーで、ふたりは向かい合っている。


午前の仕事を終え、オフィスに戻ってきたところで受付の女性に呼び止められた。

お客様がお待ちです、と。


そのお客が怜だった。

怜はゆったりした革張りのソファに、ひとり、Tシャツ姿でのんびり座っていた。

Tシャツの腕には治りかけの打撲と擦過傷の痕が痛々しく残っている。

炎天下の中を歩いて来たとは思えない、今シャワーを浴びて出てきたかのような涼やかな顔をしている。また髪が伸びたようだ。

さすがに今日はいつものギターケースは持っていない。

「中川さん、お見舞いに来てくれなかったね」

怜がすねたように言った。

「事故、災難だったね。見舞い、行けなくてすまなかった」

「待ってたのになあ」

ため息が本気なのか、遼一にはわかりかねる。

「それで、怪我の具合はどうなの?」

「全治1か月、9月いっぱい、って言われてるんだけど、もう歩けるし、歩きなさい、って。

リハビリにね。今日も病院の帰り、歩いてみようと思って」

ほど近い場所に有名な大学付属病院があった。

「それで」

「ちょっと中川さんの顔が見たくなって」

怜は平気な顔で嘘か本当かわからないようなことを言う。

「それで、気が済みましたか?」

「まだ」

「まだ?」

「もう少し、こうしていたい。いけない?」

「かまわないけど」

遼一が時計を確認して、うなずいた。

そうはいっても、正面から、まじまじと見つめられるのも気まずい。

「仕事、困ったでしょう?」

遼一は話題を変えた。

「そりゃあもう。まいっちゃった」

遼一の顔から視線を外そうともせず、怜が答える。

「前半は全キャンセル。でも、もう歩けるし、指も動かせるし、指慣らししながら、そろそろ仕事入れてもらう予定」

「じゃあ、また仕事で会えるかも」

言いかける遼一を怜が手で制した。

「仕事じゃやだな、仕事じゃなく会ったらいけない?」

「仕事じゃなく?」

何か試されてでもいるかのようだ。

「どういうことかな」

「どういうこと、って」

とぼけられたように感じたのか、怜は不満げな表情を浮かべ、

「これ」

自分のスマホをテーブルに置くと、遼一の方に滑らせた。

「連絡先」


怜はそうしてしばらく遼一の顔を眺めたあと、

「コーヒー、ごちそうさま」

わずかにぎこちない仕草で立ち上がった。


遼一の見送りを断って、怜がエントランスに向かう。

左脚をかばうような歩き方だった。


「よっ、お疲れ」


怜の後ろ姿を眺めているとCM制作局の矢部に肩を叩かれた。

カジュアルなスーツ姿の矢部はポケモン柄の派手なネクタイをしている。

先ほどから遼一の後ろのソファに座っていたらしい。

「今の子、どこの事務所?」

「どこ、って」

「ちょっといい?」

矢部が応接ソファを指し示して言う。

促され、遼一は今しがたまで怜と向かい合っていた席に再び腰を下ろした。

「何かのモデルに使うの?」

矢部はどうやら怜をモデルと勘違いしたようだ。

「彼、モデルじゃありませんよ」

「へえ?」

「ギタリストです、クルマのCMで」

言いかけた遼一に、

「ああ、あれ? 評判の?」

「あのCMのギターですよ、彼」

「あれ、いいよね、ギター、カッコいいよね、へえ、あれの」

矢部がひとしきり感心すると、

「でも、さ」

膝を乗り出して言った。

「もったいないな、裏方じゃ」

「まあ、本人がよくてやってるみたいですけど」

「実は、ね」

矢部が前のめりになって言った。

「今、フレグランスのモデル探してるんだけど、どの子も今ひとつピンとこなくてさあ、困ってるとこなわけよ」

矢部は一流ブランドの香水メーカーの名をあげ、統一されたブランディングでそれぞれの国のモデルを使い、世界展開する戦略で進んでいるのだと説明した。

「有名どころのモデルや有名人、じゃないわけよ、イメージだと」

波打ち際、水平線から徐々にのぼってくる太陽を背景に、裸足の足元を波に弄ばれながら、ただじっとカメラ目線で立っている美しい青年をワンカットの長回しで、そのビジュアルイメージは共有されている、と付け加えた。

ただ立っているだけ、しかも長回しとなると映像があまりにもシンプル過ぎて、逆によほど強い存在感がなければ成立しない、

難しい課題だ、と遼一も思った。

「でも、彼は」

遼一が言うのを待たずに、

「素人さん大歓迎。無名だからいいんじゃないの、むしろ新鮮で」

矢部は強引だった。

「彼、いいと思うんだけどなあ」

思い切れないようすで矢部は重ねた。

「訊くだけ訊いてみてもらえる? 仲いいんでしょ、彼と?」

「え、ええ、まあ」

連絡先は今さっき教えてもらったばかりだ。仲がいいのかもわからない。

「じゃあ、お願いね」

片手拝みで言うと、ようやく矢部が立ち上がった。


やっとデスクに戻った遼一は、食べ損ねた昼食代わりに、引き出しにストックしているチョコバーを齧りながら考えた。


矢部は熱心だったが、実際に採用されるとは限らない。

オーディション段階で落とされる可能性の方が高そうだし、第一、怜自身がモデルの仕事に興味を持つかどうかわからないのだ。


遼一はどうかといえば、あまり気が進まなかったが、矢部に連絡するためにも、まずは怜の意思を確認しなくてはならない。

おおまかな内容を説明し、興味はあるか返事が欲しい旨を教えてもらったアドレスに送った。


「ナシ」


すぐさま返信があった。

やはり、と思う。

続いて、LINEが届いた。


「いつ会える?」



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