13 待っている女
「もう会えないかと思っていたんです」
会うなり、先に待っていた繭子が席を立って遼一を出迎えた。
花がいちどきに開いたような微笑だ。
忙しかったとはいえ、あまりにもほったらかしにし過ぎていた。
繭子の笑顔にかえって後ろめたさがよぎる。
遼一がデートに誘ったら、繭子が希望してきたフレンチレストランだった。
家族で行きつけという、フレンチにしては家庭的な雰囲気の店だ。
日曜の夜、奥まった予約席のテーブルには小さなブーケが飾られていた。
「待たせてしまいましたか?」
「いえ、ちょうど着いたところ」
気を遣ってか、繭子が言った。
繭子は淡いグリーンの上品なデザインのワンピースで、首元に真珠のネックレス、長い髪をシニヨンにまとめていた。
遼一は夏用のカジュアルスーツだ。
「忙しかったもので、つい。って、ひどい言い訳、ですね」
「いいんです、今日、こうして会えましたから」
ふたりは赤ワインで乾杯した。
運ばれてきたメニューをおいしそうに口に運ぶ繭子を見ていると、こういう女性と結婚するのが幸せなのだろうと思う。
これまでの遼一の対応を責めることもなく、今の幸せを喜ぶ繭子。
ワインに頬を薄く染めた繭子は愛らしかった。
とりとめのない話に終始したが、メインが終わる頃、繭子が姿勢を正すようなしぐさをしてから切り出した。
「お話しておきたいことがあるんです」
「ええ、聞きますよ」
「私、20代のうちに結婚したいと思ってます」
「20代、で」
遼一がおうむ返した。
「笑われるかもしれませんけど」
「笑いません」
「ただの数字だと思われるかもしれませんけど、私、誕生日が来たら27です。
だからもう、あまりのんびりもしていられないんです」
デザートの前に、繭子のリクエストで飲み物が運ばれてきた。
繭子にはミルクティー、遼一はコーヒー。
「私、結婚したら家庭に入るつもりです」
繭子はゆっくりと紅茶のカップを手にとった。
「結婚して、家庭に入って、そうしたら、そのうち子供も欲しいと思っていて」
「ええ」
「妊娠して、出産して、それから育児に手がかかるでしょう?」
「そうでしょうね」
会社で同僚たちの子育ての苦労を耳にする機会もあった。
遼一にとっては実感のない、どこか遠いところの、しょせんは他人事だったが。
「家事はもちろん、主婦って本当に大変な仕事なんです。母を見てそう思います。
ですから、できるだけ早いうちに、って」
「僕が焦らしているように思われたんでしょうか?」
「それも、ちょっとだけ、あります。ああ、カウントダウンが始まっているのに、って」
繭子がかすかに微笑んで紅茶を口にした。
「申し訳ない」
「あやまってほしいんじゃないんです」
繭子が大きく深呼吸をした。
「本音を言います。
こんなこと、言うと中川さんに呆れられてしまうかもしれませんけど、
20代のうちに結婚して、ウエディングドレス着たいんです、私」
遼一は黙ってうなずき、冷めかけたコーヒーを口に運んだ。
「このまま、こういうふうにデートして、それはそれで、もちろん、楽しいんです。中川さんといっしょにいられて嬉しいと思います。でも、このままでいいのかしらって、それで」
「それで?」
「時間はどんどん過ぎてしまいます、そうでしょ?
もしも、じゃあ、結婚しましょう、ということになっても、明日、結婚式ができるわけじゃありませんから。
式場を選んだり、招待客を決めたり、それはもう結婚の準備は時間がかかるの、男性にはおわかりにならないかもしれませんけど。
そういうのを考えたら、私にはもう時間がないんです」
「僕が繭子さんの時間を削ってしまったわけですね」
「責めてるんじゃないんです、勘違いしないで。待ちたくて待っていたのは私、中川さんを思い切れなかったのも私なんですもの」
「僕にそんな価値があるとは思えませんが」
遼一はカップを置いて言った。
「繭子さんは僕を過大評価されているんじゃないですか、ご存じのように連絡もろくにとれない、仕事ばかりで、たいしておもしろくもない男ですよ。正直言って、いい夫になる自信はありません」
遼一が笑ってみせた。
「それでもいいんです、いい夫でなくても。私はいい妻になりますから」
結局、繭子の誕生日までに結婚を前提とした交際をスタートするのか、
「お別れするのは嫌なんです、私。ほんとうにつらいんですけど、でも」
繭子は涙ぐみながら言い、それまで別れるか、はっきりさせてほしい、という話だった。
繭子の誕生日は11月の遼一の誕生日に近かった。
――遼一の30歳の誕生日は緋沙子との別れの日だった。
繭子の誕生日まであと3か月ほどだった。
3か月もあるのか、3か月しかないのか、
繭子としては遼一に対しての思い切った譲歩なのだろう。
「それまで、またデートしましょう? 中川さんのお時間のある時に」
「どこかに遊びに行きますか」
「行きたいわ」
運ばれてきたデザートのソルベをすくい、繭子は緊張がとけたのか、やわらかい微笑を浮かべた。
「美術館とか?」
「すてき。でも、ほんとうはどこでもいいんです、中川さんと一緒なら」
遼一はデザートの代わりに頼んだコーヒーを飲んでいた。
「いっしょに過ごせばもっとわかりあえるでしょ、もっと知り合えるでしょう?」
ようやく遼一は気がついた。
繭子はたしかにいい妻になるだろう、そういう女性なのだ。
朝起きれば、バスルームには洗いたてのタオルが用意されているだろうし、
食卓のテーブルには旅館のような朝食が並んでいることだろう。
クローゼットにはきれいにブラッシングされたスーツが並び、
アイロンがけされたワイシャツ、その日の肌着、玄関には磨かれた靴。
残業の多い夫の仕事に理解を示し、定時に帰宅した日の夕食は手の込んだ料理、
遅かった日には夜食、というふうに。
繭子は多忙な夫を支える献身的な妻になることだろう。
平凡で、平穏な、満ち足りた結婚生活。
現実はいくらか違うにしても、繭子との生活は始める前から想像がついた。
ただ、決定的に欠落しているものがあった。
刺激だ。
繭子には刺激が足りない。
緋沙子が与えてくれた、リリコや他の女たちと分かち合った刺激。
遼一は刺激に馴れ過ぎていた。
しかし。
遼一は思い直す。
結婚に刺激は必要なのか。むしろ不要だろう。
幸せな結婚生活に刺激はいらないのだ、おそらくは。




