12 いたずらなキス
古いジャズが低い音量で流れていた。
遼一は地下にあるバーのカウンターの奥でひとり、
バーボンのグラスを傾けている。
接待にも使われる会社近くのこじんまりしたバーだ。
店は開いたばかりの時間帯で、客は遼一だけだった。
バーテンダーは遼一とはじめに挨拶をかわしただけで、ボトルの棚を背に黙々とグラスを磨いている。
間接照明が狭い店内をかすかにほの暗く照らす。
夜の底のように、グラスの氷が鈍く光った。
夕方から予定されていた会議はクライアント都合でキャンセルになった。
ひとりで酒を飲むことはほとんどないのに。
酒がそれほど好きなわけでもない。
それでも。
仕事は急遽キャンセルとなり、遼一は空いた体を持て余した。
誰かと飲みたい気分ではなく、早い時間にマンションにひとり帰る気にもなれず、
かといってリリコは留守電になっていて、折り返しもなかった。
会社を出た遼一の足は自然にバーに向かっていた。
今日は予期しない怜との再会に心を乱されていた。
酔ってやりすごせるものなら酔ってしまえばいい。
木製のカウンターに片肘をつくと、遼一の手の中でグラスの氷が軽く鳴った。
氷の鳴る音が聞こえるほど店内は静かだった。
静寂を破って、数人の客が店に入ってきた。
会社の人間がいたとしても、カウンター奥の薄暗がりの客にまでは目を配らないだろう。
遼一が入ってきた客たちに目をやると、その中に怜がいた。
途端に酔いが醒めた。
打ち合わせのあとはスタジオに行く予定ではなかったのか。
怜はプロデューサーらしき男やスタッフに囲まれ、
一行は遼一とは反対側のテーブル席におさまった。
逃げようとしてきたはずなのに。
何から? 誰から?
自分はいったい何を怖れているというのか。
遼一は並んだボトルに視線を戻し、グラスを口に運んだ。
空になったグラスを上げ、バーテンダーに軽く振って合図する。
バーテンダーが静かにうなずいて、新しいグラスを用意している。
やり過ごせばいいだけの話だ。
どのみち、バーは一軒目で、早々にキャバクラにでも流れて行くのだろう。
遼一がネクタイを緩めていると、音もなく新しいバーボンのグラスが置かれた。
自分に嘘をついている、と見透かしたようにリリコが言っていたが、正直になったところで何がどうなるものでもないのに。
遼一は心のうちで失笑した。
さすがのリリコも事情を何ひとつ知りはしないのだ。
手にしたグラスの氷がゆっくり溶けていくのを、遼一はぼんやり眺めていた。
「ここ、いいですか?」
顔をあげると、そこには怜が立っていた。
「それとも誰かと、待ち合わせですか」
やはりギターケースを下げている。
遼一は黙って首を振った。
怜が水を頼んで、遼一の右隣の席に腰をおろした。
足元に大事そうにギターケースを置いて。
「強いの飲まされちゃって」
見れば、怜は首筋から顔まで薄っすら赤らんでいる。
「だけど、いいの? あっちは?」
内輪で盛り上がっているようすの一行に目をやって遼一が訊くと、
「次に行くところ、どこがいいか、って相談中」
困ったような笑みを浮かべてみせた。
「キミは?」
プライベートでもあり、ついうっかりキミ呼ばわりしてしまったが、怜は気にもしていないようすで、
「もう飲めませんから」
運ばれた水のグラスに口をつけ、いやいやをするように頭を振った。
怜などキャバクラなどに連れて行こうものなら、怜ばかりが女の子たちにちやほやされ、他の男たちは冷たくあしらわれかねない。
容易に想像できた。
「ああ、スタジオ行けなくなっちゃった」
カウンターの上で、軽くピアノでも弾くように指先を遊ばせ、怜が小さくため息をついた。
打ち合わせの続きという口実で、一軒だけの約束で連れて来られたのだ、と怜が問わず語りに説明した。
「知り合いに挨拶したい、って逃げてきました」
「それはかまわないけど」
「迷惑でした?」
「ちっとも」
遼一がバーボンのグラスを怜に掲げてみせた。
「さっき、エレベーターで、変なこと言ってすみません」
怜があやまる。
「前にどこかで会ったかなあ、って。勘違いだったみたい、ですね」
「スタジオが初対面」
「ですよね、でも」
「でも?」
言葉を探すように、怜が視線をさまよわせる。
視線が遼一の顔に止まった。
「中川さんこそ、僕のこと知ってるみたいな感じだったから」
「いや、きっとキミに見とれていたんだろうね、気を悪くしたんなら申し訳ない」
それは、もしかしたら事実だったかもしれない。
愛した女に似ている、としても。
彼女、緋沙子のことは終わったことだ。
きれいな包装紙に包み、リボンをかけて心の奥底にしまいこんだ遠い思い出。
今になってリボンを解こうというのではない。
しかし、怜に出会ったことで、新しい何かが始まっていることも、心のどこかで感じていた。
テーブル席では相談がまとまったのか、プロデューサーが怜のそばに来た。
ちらりと隣の遼一に視線を向け、軽くうなずいてみせ、諒も目礼を返す。
同じ会社には違いないが面識はない。
「悪いね。じゃあ、俺たちだけで。お先に」
怜の肩に手を置くと、後ろ姿で手を振りながら店を出ていった。
「さっきの人に、強いの、飲まされちゃったみたいで」
「酔い、まだ醒めないの?」
「う、ん」
怜は頬に氷水のグラスを当てて、薄っすら目を伏せている。
どきりとするほど長い睫毛だ。
「タクシー呼んだほうがいいかな? もうここで引きあげるんなら」
遼一が気遣って言うと、
「だいじょうぶ、あともう少しこうしていれば」
アルコールが残っているらしい舌足らずで怜が答えた。
「スタジオもキャンセルしちゃったし」
名残り惜しそうに、カウンターで指を遊ばせる。
よほどギターが好きなのだろう。
「そういえば、先月かな、東京駅でキミを見かけたよ」
「ああ、あれ地方の仕事ですね」
「いっしょにいたのは彼女さん?」
「彼女、かな、どうなんだろ」
怜が首をひねってみせる。
「ね、中川さんてモテるんでしょ?」
はじめての飲み会では怜は口数が少なくおとなしい印象だったが、案外そうでもないようだ。
「いや、恋人もいませんよ」
リリコはもちろん他人に聞かせられる話ではないし、繭子はまだそういう存在ではない。
「んなわけないでしょ」
「いや、本当に」
「嘘」
「噓じゃない。だから、今日もこうして、ひとりで」
「ふうん、じゃあそういうことにしとく」
怜が頬杖をついて遼一の顔をまじまじと見つめてきた。
――緋沙子と同じ目だ。
「俺、中川さんの顔、好きだな」
照れもせず、怜がさらりと言う。
「俺が女なら好きになってるんだけどなあ」
酔いが退かないたちなのか、とろんとした目の縁が赤く潤んでいる。
言われて悪い気はしないが、それよりも、見た目の好みが母親から遺伝しているのかとふと思い当たり、遼一の胸はざわついた。
遼一は怜の前の空になった水のグラスを取りあげ、バーテンダーに振ってみせた。
「ほんとうに酔ってるんだな」
「ん、酔ってるかも」
怜が新しいグラスの水に口をつけた。氷が軽やかな音を立てる。
「僕もキミの顔、好きだよ」
緋沙子の面影を宿す、冷たい美しさだ。
「あ、両想いになっちゃった」
怜が無邪気に笑った。
「大人をからかうなよ」
「俺だって大人ですよ」
「そりゃ、わかってるけど」
「じゃあ、大人同士ってことで」
怜が水の入ったグラスを置かれたバーボンのグラスにコツンと当て、乾杯のしぐさをした。
そうして、
怜は体を遼一のほうに寄せたかと思うと、ふいに顔を傾げて遼一の唇に唇を重ね、
すぐにもとの体勢に戻った。
一瞬の出来事だった。
「え」
遼一は思わずたじろいだ。
「あれ、びっくりさせちゃった?」
「いきなり、だから」
「イヤだった? だったら、ごめんなさい」
「そういうわけじゃないけど」
遼一が言うと、怜がまた頬杖になって遼一の顔をじっと見つめてきた。
気まずくなって、遼一が先に視線をはずした。
「じゃ、俺、もう行きます」
グラスの水を飲み干すと、怜は何事もなかったかのような顔で立ち上がるとギターケースを手に取った。
バーテンダーが目線を送ってくる。
会計は自分につけるよう遼一が合図した。
「ごちそうさまでした、お水と」
怜は頭を下げたあと、
「キス」
遼一に耳元で囁くと、振り返りもせずに店を出ていく。
急に静寂が降りてきて、ジャズの低音が遠のいていった。




