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1   プロローグ 危険なふたり

「今日で終わりにしましょう」


その日、中川遼一は30歳になったばかりだった。


「別れる...?」


突然だった。

いつものホテルで、誕生日に呼び出された遼一は緋沙子に別れを告げられた。


それがあなたへの最後の誕生日プレゼント。


緋沙子はホテルの白いバスローブを肩から足元に滑らせ、裸の背を見せながら着替えていた。

若い年で子供を産んだとは思えない体つきだ。

乳白色の肌の背中からウエストのくびれに柔らかい曲線を描いている。


「なに言ってるんだよ?」

遼一はベッドに起き上がり、緋沙子の後ろ姿に目をやった。

「誕生日プレゼントが、なに? 俺たち別れる、ってこと?」

「そう、ね」

「は? 何それ、ちょっと待って、いきなりどういうこと?」

理不尽なことを言っているのは緋沙子がいちばんわかっていた。

何より遼一を傷つけるであろうことも。

濃紺のシンプルなワンピースに手早く着替えた緋沙子は、ベッドサイドのソファに座るとペットボトルの水のキャップを開けた。

「嫌いになった? 俺に飽きた? それともダンナが...?」

まだ話が飲み込めないようすの遼一が苛立ちをにじませて言った。

「そんなんじゃないわ」

水を一口飲むと、緋沙子の美しい横顔から小さな吐息がもれた。


「ずっと前から決めていたのよ、あなたが30になったら、って」

「だから、なんだよ、いきなり、どういうこと? わけがわからないな」

カーテンから漏れる初冬の午後の日差しに眉をひそめ、遼一が訊いた。

「あなたは他の女の子と付き合ったほうがいいのよ、私じゃなくて」

「何だよ、それ?」

「遼一のこと好きな子いるでしょ、きっとたくさん」

それは事実だ、だけれども。


「もうあなたを解放してあげるわ」

「解放? 解放、ってなんだよ? 俺を? 他の女が何? 俺は緋沙子が好きなんだよ、緋沙子だって...」

遼一が緋沙子の頬を指で触れようとすると、緋沙子はそっと顔を背けた。

「さっきから言ってる意味わからないよ。どうしたの? 何かあった?」

緋沙子が小さく首を振って、遼一をまっすぐ見つめ返した。


「ね、いつまで私とこうしているつもり?」

「いつまでって...」

「このままだとあなた、いつか後悔する、私も」

「は? あんた、俺たちのこと後悔してるんだ?」

「...後悔なんて、してない。でも、これから先は、どうかしら」


緋沙子は遼一の視線から目をそらして水を飲んだ。

遼一はまだ気づいていないのかもしれない。

気づいていないことを願った。

けれども変化は緋沙子自身が誰よりわかっていた。

37歳になって、いやそれよりもずっと前から気づいていた。

自分はもう若くないのだと。

10代でも20代の体でもなく、気持ちでもない。

わかりきっていた。

遼一と過ごす時間が長くなったぶん、

遼一が若いぶん、自分の年齢の兆しが緋沙子を怯えさせた。


10年後、遼一が今のように自分を求めるだろうか。

もしそうであったとしてもそれは緋沙子自身が拒絶した。


7歳年下の若い男にはそれがわからないのかもしれない。

彼の若さが緋沙子は怖かった。

遼一は切れ長の瞳の奥にに怒りと困惑を滲ませている。

その視線が緋沙子の胸を鋭く刺した。


「俺、あんたのことがよくわかんなくなってきた、もうぜんぜんわかんないよ」

冷蔵庫から出したビールのプルトップを乱暴に開け、さっきよりも荒くなった言葉で遼一が吐き捨てた。

遼一は緋沙子のプライベートを詳しく知らなかったし、互いに深く知る必要もなかった。

緋沙子は過去や家庭のことは語ろうとはしなかった。

遼一も会社や交友関係のことをほとんど話さなかった。

3年前、ちょっとした仕事関係の記念パーティで出会った。

主催者側の妻と招待客として。

ふたりが接近するのに時間はかからなかった。


それだけでよかった。

今日までは。

ふたりで過ごす時間だけで満ち足りていた。

深く知らないことでふたりはふたりだけの秘密を共有していたのだから。

共犯者として。


「本気で別れるつもりなんだ? これが最後? 今日でおしまい、ってこと?」

少しも酔っていないのに、遼一は酔ったふうな口調だ。


「あ、俺、振られた? そういうこと?」

遼一が乾いた笑い声をあげた。

「そうじゃないわ」

「だったら何で? 何でだよ? もう好きじゃないのかよ? さっきも好きって言ったよね、あれは嘘? 違うよね」


好きだから。

「...だから、よ」

やっと乾いた声が出た。

「私はあなたの...時間を貰ったから、そうじゃない、奪ったのかも」

遼一自身が望んだことであったにしても、

ほかのだれかと普通に恋愛する幸せとその時間を彼から奪ったことに違いはない。

「奪った? そうじゃないだろ? 俺、そんなこと思ったことないよ」

遼一が緋沙子の首筋に片手を伸ばし、長い指に力を込めた。

「これで終わり? 本当に?」

問いかけに、緋沙子は目を閉じて身じろぎもしない。

長いまつげが微かに震えていた。

ふいうちに遼一が緋沙子の唇に自分の唇を重ねた。

が、返ってきたのは女の冷めたキスだった。

他の誰も知らない、遼一だけが知っている顔を見せていた女のはずなのに、

そこには遼一の見知らぬ女がいた。


緋沙子にはわかっていた。

遼一のためというのは嘘ではない。

噓ではないけれども、自分がいつか傷つくのが怖いからだ。

傷つくのが怖いから遼一を傷つけてまで別れようなんて。

自分はずるい女だ。


「あなたはわからなくていいの...」

緋沙子がささやくように低く呟いた。

むしろ、わかってほしくないのかもしれない。


別れの言葉はなかった。


緋沙子は無言で立ち上がると、コートとバッグを手にドアに向かった。

遼一の視線を背中に感じながら振り返ることはなかった。

ドアが音もなく閉じられた。


永遠にも似た間があった。


部屋にひとりきりになった遼一は緋沙子の姿が消えたドアを

白日夢のようにただじっと見つめていた。


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