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何も起きない異世界召喚 僕のスキルは、意味不明だった  作者: 一月三日 五郎


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第七話 迷える子羊に祝福を

 執務室は、いつも通り整えられていた。

 机の上には余計なものはなく、書類はすべて揃えられ、蝋燭の受け皿にも灰は残っていない。

 人の手が入った痕跡はあるが、人の気配は残っていなかった。

 

 蝋燭の火が揺れる中で、執務室には紙の擦れる音だけが響いていた。

 厚手の書類をめくるたび、乾いた音が静寂を刻む。

 窓の外はすでに夜に沈み、城内のざわめきも、厚い壁に遮られて遠い。

 人払いを済ませてから、どれほどの時が過ぎただろうか。


 時を量る意味はない。

 今この瞬間にも、世界は動いている。

 自分がこの机に向かっていようと、目を伏せていようと。

 国境の向こうでは剣が振るわれ、どこかで傷つく者は出ている。

 時間を意識したところで、それが止まるわけではなかった。


 王は視線を落とし、再び書類へと意識を戻す。

 止めてはならない。

 手を止めることが、判断を放棄することと同義であると、王はよく知っていた。


 王の指は淡々と書類をめくる。

 討伐隊の再編案。

 補給線の見直し。

 負傷兵の名簿。


 いずれも、場当たりではない。

 数字は整えられ、前提条件も明示されている。

 過去の事例を踏まえた試算であり、希望的観測に寄りかかったものではなかった。

 提出した者たちが、それぞれの立場で最善を尽くしていることは、行間から十分に伝わってくる。


 だからこそ、王の手は止まった。

 どの案も切り捨てがたく、同時に、どれか一つを選べば必ず別の何かを犠牲にする。


 討伐を厚くすれば、補給が追いつかない。

 補給を優先すれば、前線の動きが鈍る。

 治療に人手を割けば、戦力は削がれる。


 分かっている。

 理解している。

 それでも、王の手は次の判断に移らなかった。


 どれも正しい。

 どれも足りない。


 王は書類を一枚、机の端に寄せる。

 処理を保留するという判断もまた、判断だと自分に言い聞かせた。


 昼の玉座会議の光景が、否応なく思い出される。

 あの場で交わされたのは、事実と報告だけだった。

 声を荒げる者はいなかったし、感情を前に出す者もいなかった。

 誰一人として、王の判断を非難する言葉を口にしなかった。


 それが、かえって重かった。


 責められなかったからこそ、逃げ場がなかった。

 誰かが失敗だと断じてくれれば、悔恨の置きどころも見つかっただろう。


 だが、誰もそうしなかった。

 学者は報告を終え、宰相は必要な補足だけを述べ、守護者は現状を簡潔に伝えた。

 それぞれが自分の役目を果たし、それ以上を語らなかった。


 その沈黙は、王に判断を委ねていた。

 この先を決めるのは、あなただ――そう告げるように。


 そして王は思い至る。

 その「判断」の中で、最も重いものが何であったかを。


 異世界召喚は、事故ではない。

 誰かが勝手に行ったものでもない。


 王が決めた。

 王が命じた。

 王が許可した。


 だから、あの少年をこの世界に呼び出した責任は、王自身のものだ。


 王は、奇跡を信じていない。

 神に誓えば願いが叶うなどという考えは、とうに捨てていた。

 世界は、人の判断と行動の積み重ねでしか変わらない。

 剣を振るうのも、壁を築くのも、傷を癒やすのも、人だ。


 それでも、異世界召喚を選んだ。


 信仰ではなかった。

 期待でもなかった。


 手詰まりだったのだ。


 討伐は追いつかず、被害は広がる一方だった。

 魔獣の出現は予測できず、対策は後手に回る。

 学者たちが提示する新たな方策は、完成までに年単位の時間を要した。


 待てばよくなるという保証はない。

 何もしなければ、確実に失われるものがあった。


 選択肢を一つずつ検討し、消していった。

 最後に残ったのが、異世界召喚だった。


 可能性がゼロではない。

 それだけの理由だった。


 王はそこから目を逸らさなかった。

 だから、あの儀式を選んだ。


 儀式は、期待した結果をもたらさなかった。


 召喚された少年は、王が求めた力を示さなかった。

 スキルを使えと命じたにもかかわらず、少年は壺を割った。


 床に散った破片の中から、金貨が一枚、転がり出る。

 それを目にした瞬間、王の胸に込み上げたものがあった。


 そのとき、王は声を荒げた。


―― 金貨一枚で、世界が救えるのか!


 怒鳴るつもりはなかった。

 だが、最後に縋った選択が、嘲笑うかのように突き返された気がした。


 王は思考を切り替え、目の前の書類に手を伸ばした。

 判断を止めるわけにはいかない。


 分からないものは、棚上げする。

 原因が特定できないものは、ひとまず置いておく。

 すべてを理解してから決断していては、判断そのものが遅れ、守れるはずのものさえ失われてしまう。

 そうしなければ、国政は回らない。


 書類を一枚、また一枚と処理していく。

 その途中で、指先にわずかな違和感があった。


 紙の感触とは異なる、硬さ。


 一瞬、視界が揺れた気がして、王は瞬きをする。

 そして、紙束を持ち上げた。


 金属が、床を転がった。


 反射的に立ち上がり、音のした方を見る。

 一枚の金貨が、床の上に転がっていた。


 なぜ、こんなところに。


 腰をかがめ、金貨を拾い上げる。

 指先に伝わる重みと冷たさが、それが何であるかを否応なく思い出させた。


 路銀として処理するよう命じた金貨。

 召喚された少年が割った壺の中にあったものだ。

 戻ってくるはずのない金貨。


 王は、思わず小さくつぶやいた。


「……まさかな」


 一瞬、幾つかの可能性が脳裏をよぎる。

 誰かが持ち込んだのか。

 どこかで紛れ込んだのか。


 理屈を探そうとして、王はそれをやめた。

 理由を考えれば考えるほど、仮定だけが増えていく。


 分からないものは、棚上げする。

 それが、王のやり方だった。


 金貨を机の上に置き、王は椅子に戻る。

 書類は、まだ残っている。


 世界は、今日も動いている。

 王の意思とは無関係に、出来事は進み、報告だけが机に届く。

 王はその一つ一つに目を通し、変わらぬ手つきで判断を続ける。


 机の上に置かれた金貨から、王は意識を外す。

 今は考えるべきではない、と判断したからだ。


 理解できないものがあっても、世界は待ってくれない。

 それは、王が幾度となく経験してきたことだった。


 机の片隅で、金貨は静かに光を反射していた。


 それが何であるのか、

 王には分からなかった。


 ただ、世界はまだ終わっていない。

 それだけは、確かだった。


 扉の外で、控えめな足音が止まった。


「陛下」


 王は顔を上げず、机に向かったまま応じる。


「入れ」


 それだけで、十分だった。


 城内の灯りは一つ、また一つと落ちていく。

 廊下を渡る足音も消え、遠くで鳴っていた鐘の余韻だけが、夜の深まりを告げていた。

 執務室の蝋燭はまだ燃え続け、その小さな光の中で、王の手だけが止まらなかった。

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